第4話

ハートルームことナツキちゃんの運営する相談室は、校舎三階の隅にひっそりとある。


ナツキちゃんは戸にかかった〈外出中〉のコルクボードを、裏返して〈なかにいます〉に切り替えた。「どうぞどうぞ」と戸を開けて俺をなかへ促す。

俺は、失礼します、と敷居をまたいだ。


入ってすぐのところに目隠しのパーテーションがあって、それを越えると、一見、校内とは思えない光景が広がっている。黄緑色のやわらかいソファに、ふかふかのラグマット、壁際に置かれた大きな本棚には、子供用のおもちゃやアニメのフィギア、それから砂の入った用途不明の箱がぎゅうぎゅうにしまってある。


「座って」

ナツキちゃんは俺にソファを勧めると、自分は部屋の隅の給湯スペースに立った。

「紅茶か、オレンジジュースか、お姉さまの歓迎のハグか」

「紅茶で」

「君は相変わらずつれないな」

「べつに」


俺は一年のころに少しだけ、この相談室に通っていたことがる。ナツキちゃんはいつも相談に応じるというより、俺の話に大袈裟な相槌を打つばかりで――、そのたびに違う銘柄の紅茶を、それはそれは美味しそうに飲んでいて。


「颯太くんさ、こういうのもけっこう久しぶりじゃない?」

「ずいぶん久しぶりに来ましたね」

「久方ぶりの暴力行為」

「失礼な! 今回のは単なる試合であって……。それに一年のときだって、壁や物にあたっただけだし」

「あはは、颯太くん必死すぎ」

 

ナツキちゃんはまるで同級生みたいに笑いながら、二つのマグカップを運んできた。でっぷり膨れたティーバッグが、たっぷりのお湯に浸かっている。熟成の進んだフルーツのような、上品でふくよかな甘い香り。


「フルーツティーですか?」

「ノンノン」ナツキちゃんは顔の前で指を振った。「ある種の茶葉は、洗練された工程と条件によって、果実のような芳香を放つんだな」

「高いんですか?」

「それがそうでもなくてね」


ナツキちゃんはティーバッグを持ちあげて、用意していた小皿に避けた。カップを鼻先に寄せて、たっぷり湯気を吸い込むと、


「ああ~! なんという贅沢! 自分の仕事部屋で大好きな紅茶を! さあさあ、颯太くんも遠慮しないで」

「前から思ってたんですけど、いくら相談室とは言え、生徒にジュースとかお菓子とかあげていいんですか?」

「思慮深いガキだねえ」

ナツキちゃんは悪い魔女みたいに言った。


「まっ、まさか自白剤が……?」

「あはは、そんなの入ってないよ。この部屋にはね、言わば治外法権が適用されるの。米軍基地や大使館と同じ。この相談室のなかは、校則の適用範囲外なんだ。だから校内で何をしても、ここへ逃げ込んでこればとりあえずはセーフ」

「若干たとえが非道徳な気はしますが、理解はできました」

「心配なら私のと取り換える? 間接キスになっちゃうけど」

「遠慮しときます」

「可愛くないなあ!」ナツキちゃんは不満げに俺を睨んだ。


その後はいつものように、クラスで誰が人気だとか、嫌いな先生はいるかだとか、いちばん可愛い子は誰だとか、流行ってる遊びはなんだとか、アニメやゲームは何が熱いかだとか、他愛のない話を無限に振られて、意図的にのせられている自覚はあるのに、どんどん饒舌になっていく俺……。


「それで舞雪がキレちゃ……つっ、いてて」

気がついたら、先ほど手当てしてもらった口の端が、じんじんと痛みはじめていた。

「あらら、怪我してるのに話しすぎた?」

ナツキちゃんは特にあわてるでもなく立ちあがると、俺の目の前に屈みこんだ。口元のガーゼをはがして、俺の顔をジィーっと見つめる。


ち、……近い! 


瑞々しく光る唇、ナチュラルな大人のアイメイク、なんだかエッチな日焼け止めの香り。ラフな胸元からは、たわんだ下着のレースと、白い胸の膨らみが……


「せっ、先生……」


下腹部が痛いくらいに反応して、なんだかこそばゆい感覚が、体の底から込みあげてくる。まるで朝方に変な夢を見たときみたいで、……うっ、う、マジでやばい!


「ま、舐めとけば治るっしょ」

ナツキちゃんはすっくと立ちあがると、向かいの席へ戻った。

俺はすんでのところで踏ん張って――、ふう、と冷静になるために息を吐く。


「どうしたの? 息があがってるみたいだけど」

「べ、べつに……」

「ならいいけど」

 

ナツキちゃんは不思議そうな顔をして、紅茶のカップを口に寄せた。

げに恐ろしや天然魔性! 

仮にわざとだったとしたら、それはもはや痴女なのでは?


「自白剤を入れすぎたか」

「はっ、やっぱり!」

「冗談だってば。それで? どっちが強いか決めようって煽られたから、ムキになってやっちまったと」

「ぜんぜん脈絡ないし」

「まあまあ、そう言わず、とりあえずこれでも食べなよ」

ナツキちゃんは背後の棚に手を伸ばすと、高級そうな缶を取って机に置いた。

「なんですかこれは?」

「食べたくない? ヨックモックのシガールだよ」


俺は自分の口のなかで、大量の唾液が分泌されるのを感じた。育ち盛りの中三に――しかも部活終わりのこの時間に!――甘いお菓子は卑怯すぎる。


「荒池先生の言う通りです! あいつにだけは負けられないと思って」

「苦しゅうない。ナツキちゃんでいいよ」

ナツキちゃんは悪そうに目を細めて、シガールを一本、俺に渡した。

「サンキュー、ナツキちゃん!」

「はっはっはっ、素直に話してたんとおあがり」

ナツキちゃんは自分のシガールを取ると、葉巻みたいに咥えて気だるげに吸った。俺も真似をして、シガールを物憂げにくゆらせてみる。


「怪我をさせるつもりはなかったんですけど」

「熱くなっちゃった?」

「……はい」

 

俺は頷いたきり話せなくなった。本音を隠していたわけではない。ただ自分が何を感じていたのか、どうしてあれほどムキになったのか、自分でもよくわからなかった。


「颯太くんの拳術は、大人の私から見てもカッコいいよ。一生懸命なのも知ってるし、誇りを持っていいことだと思う」

「どうも」

「ただ勘違いしないで。私は心配してるんだ。努力するのはいいと思うよ? 何かに没頭するのもいい。ただ、一番にならないとダメなのかな? 他人より劣ってたら無意味なのかな? だから颯太くんは、絵を描くのを辞めちゃったの?」

 

俺は言葉を失った。

何か鋭いものが胸の真中に、突き刺さったような痛みを覚えた。


「あー、ごめんごめん! これじゃ口うるさい先生だね」

「いえ、本当のことなんで」

「もう、ごめんってば! お願いだからそんな顔しないで。あぁー、うぅー、……これじゃあカウンセラー失格だあっ!」

ナツキちゃんは急にうなだれて、机に突っ伏したきり動かなくなった。


「……ナツキちゃん? 急にそんなに落ち込まないで」

見事に役割を逆転して、俺が傷心のナツキちゃんを励ましていると、唐突に戸が開く音がした。目をやると一人の女の子が、間仕切りの陰からこちらを覗いていた。


「あ、美雨みうちゃんおかえりー。見て見て、久々のお客だよ」

ナツキちゃんは顔をあげると、ケロリとした表情でその子に言った。


「誰ですか……?」

「颯太くんだよ。美雨と同じ三年生。せっかくだしお話しすれば? ほれほれ、美雨の好きなシガールもあるぞ」

「……遠慮しときます」

女の子は顔を伏せたまま小走りに、奥の衝立で囲われたスペースに駆け込んだ。


「あらっ、美雨ちゃん……? ふーむ、今日は内気な女の子か」

「今日はってなんですか?」

「いやー、なんて言うかな」

ナツキちゃんはためらいがちに髪をかくと、出し抜けにすっくと立ちあがった。

「終わりですか?」

「いえす! 今日はこれにて。また美雨と私に会いたくなったらいつでもおいで」

ナツキちゃんは俺を送り出すと、別れ際にシガールを二本、制服のポケットに捻じ込んでくれた。

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