愛しい人(前編)
彼女と付き合って三ヵ月ほど経った頃。その日も彼女の母親はいなかった。仕事で一日帰ってこないらしい。そういう日は珍しくないとのこと。
「寂しくない?」
「寂しいけど、もう慣れたわ。……お母さんも私のために頑張ってくれてるし。……甘えるわけにはいかないわ」
「だから大丈夫」と彼女は笑う。しかし、どう見ても自分に言い聞かせているようにしか見えない。
「分かった。じゃあ、代わりに私に甘えなよ。はい、おいで」
両手を広げると、彼女は遠慮がちに私に身を寄せる。とんとんと背中を叩いてやっていると「ありがとう」と小さな声でお礼を言った。
「良いよ。たくさん甘えて。恋人ってそういうものでしょ」
「……じゃあ、甘えついでにもう一つお願いして良い?」
「ん。良いよー。なんでも言って」
「……今日、一緒に寝てほしい」
「良いよー。って……えっ!」
思わず聞き返すと、彼女は「変な意味じゃないのよ」と顔を真っ赤にしながら両手と首を横に振り「ただ、寂しいから側に居てほしいだけ」と目を逸らしながら絞り出すような声で言う。一瞬でもえっちなことを考えてしまった自分を殴りたい。そんなこと、彼女と付き合うまで考えたこともなかったのに。
「……だ、だめかしら……」
「……ちょっと、親に許可取らせて」
「え、ええ。そ、そうよね……」
「歌羽ちゃんはお母さんに許可取らなくて大丈夫?」
「それは大丈夫。寂しかったらお友達呼んでも良いって言われてるから」
「お友達じゃなくて彼女ですが」
「だ、大丈夫よ。大丈夫。彼女がいることはまだ話してないけど……私がレズビアンであることは知ってるから。最初は……お父さんの件で男性不審になったせいなのかって誤解されたけど……今はちゃんと、分かってもらえてる。……と、思う。だからきっと、あなたのことも受け入れてくれるわ。……多分」
「多分って。……まぁ良いや。じゃあ歌羽ちゃんを信じるよ。お母さんのことなら君の方が分かってるだろうし。ちょっと連絡してくるから待っててね」
「……ええ」
彼女の部屋を出て、母に『彼女の家にお泊りしても良い?』とメッセージを送る。既読がつき、しばらくすると電話がかかってきた。茶化されそうで嫌だなと思いながら着信を拒否し『yesかnoで答えて』とメッセージを送る。yesと書かれたボードを掲げるクマのスタンプに続き、ハートを飛ばすスタンプが連続で送られてくる。呆れてため息を漏らしながら部屋に戻る。
「どうだった?」
「良いって。着替え届けに来てくれるみたい。住所教えていい?」
「ええ」
しばらくして、母が着替えを届けてくれた。中には歌羽ちゃんへのお土産と称してクッキーも一緒に入っていた。
「ありがとうございます。後でいただきます」
「ふふ。娘のことよろしくね」
「はい」
ニコニコ接していた彼女だが、母が居なくなるとはぁと深いため息をついた。私の家族と話すのはまだ緊張するらしい。
「ふふ。よーし。じゃあ、ご飯作ろっか。今日は何作る予定だったの?」
「え? 良いわよ。私一人でやるから……」
「やだ。手伝います。手伝わせて。甘えてって言ったでしょ?」
「でも……せっかくだし、あなたに手料理を振る舞いたいの」
「……分かった。じゃあ、作ってるところ近くで見てても良い?」
「集中出来ないからリビングで待っててほしい」
「ええー! ぶー……」
「……分かったわよ。お味噌汁作れる?」
「得意です!」
「ふふ……じゃあお願いね」
「はーい!」
じゃがいもを洗いながら、鶏肉を切っている彼女を盗み見る。普段からやっているだけあってさすが、手際が良い。
「……あの。あんまり見られてるとやりづらいのだけど」
「ご、ごめん。手際良いなぁって。私も全くやらないわけじゃないけど、毎日はやらないから。お弁当もお母さんが作り忘れた日以外ほとんど作らないし」
「私も昔はそうだったわ。けど……お父さんが居なくなってからお母さんが忙しくなって……少しでも、楽させてあげたくて」
「……えらいね」
「……そんなことないわ。きっと、お母さんが離婚しなかったら何もしないままだったもの」
「それはもしもの話でしょ? 今はやってるじゃん。えらいよ」
「……ありがとう」
「ふふ。どういたしまして。あ、ところで顆粒出汁あるよね?」
「あるわよ。私の足元に。申し訳ないけど自分で探してくれる? 鶏肉切っちゃったから。先に出しておけばよかったわね」
「いやいや。いいよ。良かったー。魚から出汁取る派じゃなくて」
「そこまで本格的な料理はしないわ」
彼女の足元の引き出しから顆粒出汁を取り出し、鍋に入れる。そこに短冊切りにしたじゃがいもを入れて火にかける。沸くまでの間にまな板を洗い直し、キャベツを数枚剥いてざく切りにする。
「……誰かと料理をするなんて、いつぶりかしら」
「料理はお母さんから教わったの?」
「ええ。基本的なことはね」
「そうなんだ。……お母さん、どんな人?」
「……優しい人よ。とても。……優しすぎて、一人で抱え込んでしまうところもあるけれど」
「歌羽ちゃんと一緒だね」
「……そうね」
「頼ってね。私のこと。頼ってもらえるように頑張るからさ」
「ええ。……ありがとう。本当に」
「どういたしまして。お味噌汁、完成です」
「ありがとう。向こうで待ってて」
「はぁい」
席に付き、台所で料理をする彼女を覗き込む。私の視線に気付くと、照れ臭そうに笑って手を振った。可愛い。学校では王子なんて呼ばれてカッコいいだの守ってもらいたいだのなんだの言われているが、本当の彼女は寂しがりやで、ぬいぐるみが好きで、甘やかすのは上手いけど甘えるのは下手で、みんなが思ってるほど強くて頼りがいのあるカッコいい人じゃない。だけど頑張り屋で、真面目で優しい。私はそんな彼女のことが可愛くて、愛おしいと思う。守りたいと思う。
「出来たわよ。あ。あと、冷蔵庫に昨日の残り物の肉じゃががあるから。ちょっと待ってて」
「お茶碗どれ使っていい?」
「好きなの使って」
「はぁい」
ご飯と味噌汁をよそい、席に戻る。目の前には鶏もも肉の照り焼き、キャベツの千切りサラダ、肉じゃが、卵焼き、それと味噌汁。
「じゃがいもかぶりしちゃった。肉じゃがあるの言ってくれたら味噌汁の具変えたのに」
「ごめんなさい。忘れてたの」
「まぁいっか。いただきますしよ」
「ええ。いただきます」
「いただきます」
彼女の家で、一緒に作った料理を彼女と二人きりで向かい合って食べる。こうしているとなんだか、一緒に暮らしているみたいだ。
「お風呂、先入る?」
「良いよ。歌羽ちゃん先どうぞ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「はぁい」
彼女が風呂に入っている間に歯を磨く。洗面所は脱衣所と一体になっており、風呂と隣り合っている。シャワーの音がよく聞こえる。なんだか生々しいなと思い、さっさと磨いて外に出て待つ。しばらくするとシャワーの音が止まり、風呂の扉が開く音が聞こえた。そのまま待っていると「どうぞ」と横開きの扉が開く。バスタオルを頭に巻いた彼女が迎えてくれた。
「部屋で髪乾かしながら待ってるわね」
「う、うん」
「シャンプーとか持ってきてる? 良かったら使っても良いけど」
「えっと……あ、あります。うん。大丈夫。スキンケア用品までバッチリ」
「そう。じゃあ、また後で」
「う、うん」
服を脱ぎ、習慣で洗濯機に入れかけて慌てて着替えが入っている紙袋に突っ込み、風呂場へ。いつもならゆっくり湯船に浸かるが、彼女が待っていると思うとゆっくり出来なかった。濡れた髪をバスタオルで拭き、着替えて、髪から雫が垂れないようにタオルを巻いて、お泊まりセットが入った袋を持って彼女の部屋へ。ドレッサーの前に座っていた彼女が「髪乾かしてあげるからおいで」と手招きする。素直にしたがい、彼女が座っていた椅子に座る。人に髪を乾かしてもらうのはいつぶりだろうか。気持ちよくて寝そうになってしまうと、ドライヤーの音が止まった。
「おしまい?」
「おしまい。……ベット、一つしかないけど一緒でも良い? 一応、敷布団はあるけど……」
「歌羽ちゃんはどうしたいの」
「……一緒に寝て」
「うん。じゃあ一緒に寝よっか。わんちゃんごめんねー」
ベットで寝ていたぬいぐるみを退かす。床に置くとなんだかしょんぼりしているように見えて罪悪感が湧いてきた。
「……やっぱり、君も一緒に寝る?」
ぬいぐるみに話しかける。すると少し間を置いて「遠慮しなくて良いよ。僕はここで寝るから」と甲高い声で返事が来た。後ろを振り返ると、彼女がサッと枕で顔を隠す。
「……ふ……ふふっ……分かった。ありがとね、わんちゃん。歌羽ちゃん、ブランケットか何かある?」
「……ん」
「ありがと」
彼女からもらったブランケットにぬいぐるみを包んで、壁際にもたれかからせる。カーテンを閉め、電気を消して、どうぞと開かれた布団の中に入る。彼女は気を使っているのかギリギリまで奥に詰めてくれている。おかげで少し余裕があるが、敢えて距離を詰める。
「良いよ。抱き枕代わりにして」
「……ええ」
遠慮がちに抱き寄せられ、身体が密着する。安心する。だけど、彼女の心臓の音がうるさくて、とても眠れそうにはない。
「……あの、もう、寝た?」
「……ううん。起きてるよ。なあに?」
「……」
「……なに? 良いよ。言って」
「……キス、したい」
顔を上げる。目が合う。どちらからともなく顔を寄せ合い、唇を重ねる。一旦離れたものの、彼女の腕に引き寄せられる。そのまま二回、三回、四回と彼女の方から何度か繰り返した後、ハッとして私を突き放した。
「ご、ごめんなさい。変なことしないって、言ったのに」
「……ううん。良いよ。……歌羽ちゃんが良いなら、続けて」
「——は——から……」
「ん?」
「つ、続きは……あなたから……してほしい……」
「……うん。分かった」
今度は私の方から唇を重ねる。そこからはもう、スイッチが入ったように本能が身体を動かす。彼女を傷つけたくないという想いだけは残して、本能に身を委ねた。
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