第8話:鈍感な人

 翌日の朝。一時間目が終わって次の授業に移動するために準備をして廊下に出ると、お手洗いから出てきた海野さんとたまたま目が合う。私に気付くと彼女は「おはよう」と笑って手を振る。手を振り返し、挨拶を返す。たったそれだけのやり取りだけど、距離が近づいたことを実感して嬉しくなる。

 もっと仲良くなりたくて、昼休みにお弁当を持って彼女のクラスに行く。いつも一緒にお昼を食べていた友人は察したのか「頑張れ」と親指を立てた。彼女は中学からの付き合いで、当時から一緒に演劇をやってきた仲間だ。太めの眉とタレ目が特徴的なたぬき顔、ぽっちゃりとした体型、そして本田ほんだ絹子きぬこという名前から、などと呼ばれている。私はたぬ子派だ。

 中学生の頃、私がレズビアンであることを初めてカミングアウトしたのがたぬ子で、当時の彼女に告白するように背中を推してくれたのも彼女だった。結局彼女とは別れてしまったが、自分がレズビアンであることにコンプレックスを持たなくなったのはたぬ子のおかげだ。


「進捗があったら一番に報告してね。うたちゃん」


「ええ。ありがとう」


 今回も彼女は応援してくれるが、彼女は海野さんの事情を知らない。勝手に話して良いことでも無い気がする。

 彼女の事情は話さずに、彼女にはこの想いは伝える気はないことをたぬ子に話す。すると「隠せてないと思うけど」と苦笑いされてしまった。そんなに顔に出ていただろうかと少し焦ったが、海野さん本人は私の恋心など一切気付いていないように見えた。恋愛感情が理解出来ないと言っていたことや、バンドメンバー二人との距離が近さを見ていると、私が女だから恋愛感情を向けられることを想定していないというよりは、異性同性問わず他人から恋愛感情を向けられることを想定していないのかもしれない。気づいてほしい。だけど気づいてほしくない。そんな複雑な気持ちを隠し、彼女に手作りの卵焼きを渡す。特別扱いしないように、一緒にいた海野さんの友人である七美さんにも。


「んじゃ、私からは唐揚げを贈呈しよう。冷凍食品だけど」


 手作りじゃなくてすまんねと七美さんは私の弁当箱に唐揚げを入れる。海野さんも悩むように自分の弁当箱の上で箸をうろつかせ「ハンバーグでいい?」と私に問う。


「ふふ。なんでも構わないわよ」


「あ、豆腐ハンバーグだけど大丈夫だよね? アレルギーとか……」


「ええ」


「じゃあ、はいどうぞ」


 ハンバーグを切り、私の弁当のご飯の上に乗せると、彼女は卵焼きを口に放り込む。すると口元を抑えて目を輝かせた。美味しいと言われなくてもリアクションで伝わってくる。


「ふふ。可愛い。もう一つ食べる?」


「も、もう十分です」


「あら残念」


「残念って」


 三船さん面白いなぁと彼女はくすくす笑う。それがただの善意だと信じて疑わない穏やかな笑顔に少しだけ心が痛んだ。


「三船さん、さてはれいちゃんを餌付けして太らせて食うつもりだな」


 冗談っぽく、七美さんが言う。「あら。バレちゃった?」と冗談で返すと、海野さんはサッと七美さんの後ろに隠れた。


「冗談よ。冗談」


 良かったと彼女は笑いながら七美さんの後ろから出てくる。優しくするのは下心があったからだなんて知ったら、この笑顔も消えてしまうのだろうか。そうなるくらいなら、どうかこのまま鈍感なままでいて欲しい。

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