第3章

 一方の冬子は、少しずつ千佳に近づきました。彼女は千佳が図書委員で毎週木曜日に学校の図書室で本の整理をしていることを知ると、何食わぬ顔で図書室に行きました。

 そして、千佳が作業の傍らによく古典を読んでいることを確認すると、自然体でそっと千佳に声をかけました。

「源氏物語ですか?」

「え、はい!」

 いきなり声をかけられた千佳はびっくりして本を置きます。

「今、どのあたりをお読みになっているんですか?」

「えっと、若紫という女の子が出てきたところです」

「雀を逃すところですね」

 冬子は世の中で「教養」と言われる類のものは大抵身に着けていましたから、千佳の話に合わせることぐらい容易いことでした。

「昔の人は不思議ですね。相手が十歳でも恋することができるんですから。十歳なんて子どもですのに」

「ええ、そうですね」

 千佳は冬子が自分の思っていたことを代弁してくれたので、とても嬉しく感じました。毎週児童館で子どもの相手をしている千佳にとって、十歳の子どもに恋をする光源氏の心情は理解し難いものなのです。

「千佳さん、子どもは好きですか?」

「ええ、とっても。だけど、恋愛的な意味ではないですよ?」

「もちろんです」

 冬子が貴婦人のように静かに笑いました。それから二人は毎週図書館での会話を楽しむようになりました。

 冬子は持ち前の高い教養を生かして千佳の話に合わせます。千佳から見れば冬子は自分の趣味嗜好を完全に理解できる唯一無二の存在でした。さらに千佳は元々どちらかと言えば冬子派でしたから、千佳の中で冬子が特別な存在になるのにそう時間はかかりませんでした。


 ☆


 さて決着の日まで一か月を切った頃、情勢は僅かに冬子の方が有利なように思われました。しかし、そう単純に事は進みません。

 夏休み直前、期末考査も無事終わったある日、千佳は楓太君を連れて隣町のおもちゃ屋さんに来ていました。あの一件以来、千佳はアリアと本当に親友のようになり、楓太君も千佳をもう一人の姉の如く慕うようになっていました。

「ねえ、本当に何でもいいの?」

「もちろん! 楓太君の誕生日だからね。でもあんまり高いのはダメだよ?」

「分かってるって!」

 楓太君は嬉しそうに千佳の手をグイグイ引っ張って、古いおもちゃ屋の中に入りました。このおもちゃ屋は、珍しいプラモデルや人形を扱っているらしく、楓太君の欲しかった模型が近所のおもちゃ屋になかったので、わざわざ隣町まで買いに来たのでした。

「えーとね」

 楓太君は背伸びをして棚を見ます。

「あ、これだ!」

 彼がある飛行機模型の箱を指さしたので、千佳はそれを取って彼に渡してあげました。楓太君は目を輝かせてパッケージの飛行機を見つめます。

「ソッピースキャメルだ! これは第一次世界大戦のときに使われたんだよ。羽が二枚あるのは、揚力を集めるためなんだ。だけど、羽が邪魔で視界が悪くなったりもするんだよ」

「へえ! たくさん知っててすごいね!」

「へへへ……。これはねぇ……」

 褒められた楓太君はさらに調子に乗って飛行機の解説を続けます。千佳はその様子を微笑ましい気持ちで見ていました。

 しばらく、そんな風に楽しい時間を過ごしていると、おもちゃ屋の外に急に真っ黒な高級車が止まりました。楓太君は初めて見る外車に目を丸くしています。

 運転手が後部座席のドアを恭しく開けると、中からサングラスをかけた黒い長髪の女性が降りてきました。彼女はツカツカと歩いておもちゃ屋に入ると、千佳たちのことを無視して店主のおばあちゃんに話しかけました。

「おばあちゃん、例のもの、できていますか?」

「はい、もちろんですよ」

 そう言っておばあちゃんは店の奥へと消えていきました。そうして何かの箱を大事そうに抱えて戻ってくると、その女性に渡しました。

 女性がそっと箱を開けます。箱の中にいたのは綺麗な赤毛をした女の子人形でした。それを見ていた千佳は心の中で「まあ綺麗!」と声を上げました。その人形は千佳と同じお下げ髪でした。

「ありがとう」

 女性は満足したように箱を閉じるとクルッと後ろを振り向きました。サングラス越しに千佳と目が合います。

「あれま、千佳さん」

 いきなり自分の名前を言われて千佳はびっくりしましたが、その女性がサングラスを取ってさらにびっくりしました。

「冬子さん!?」

 サングラスを取った瞬間高圧的な雰囲気が消えました。そこにいたのはいつもの落ち着いた冬子さんでした。

「千佳さん、こんなところで何を……? いえ、それよりも私としたことが……」

 冬子は珍しく焦っているようでした。彼女は口元で手を覆って、しばらく考え事をすると小さくため息をつきました。

「はあ、仕方がありませんわね。千佳さんと、弟さんかしら? よかったら今からうちにいらっしゃらない?」

 千佳は謙遜して断ろうとしましたが、楓太君が乗り気になってしまったので千佳は仕方なくお呼ばれすることにしました。

 二人を乗せた車は街を出て曲がりくねった山道を抜けていきます。

さらに山道を進むと大きな鉄製の門扉が現れました。車がその前で止まると、門扉がゆっくりと開きました。それからさらに二分ほど進みます。すると、ようやく住居らしきものが見えてきました。しかし、それは「家」というよりも「お屋敷」と言った方が相応しい立派な建物でした。

車は大きな玄関の前でようやく停止しました。

「さあ、二人とも遠慮なさらないで」

二人はお屋敷のあまりの大きさに開いた口が塞がりませんでした。

「大きいな……」

「ええ、そうね……」

千佳は冬子の後に続いて、楓太君の手を引っ張ってお屋敷の中に入りました。和風の建築様式は周囲の森と上手く馴染んでいました。

「千佳さん、あなたにはバレてしまいましたからね。こちらにどうぞ?」

 千佳は冬子が何のことを言っているのか分かりませんでした。

 冬子は千佳の前をスタスタと歩きます。お屋敷の中には見事な日本庭園がありました。千佳は思わずうっとりと見惚れてしまいます。

「さあ、ここが私の秘密の部屋です」

 冬子はポケットから鍵を取り出して扉を開けました。

 千佳は冬子に続いて部屋に入ります。

「うわあ!」

 千佳はその部屋の見事さに思わず声を上げました。楓太君も目を見開いて驚いています。

「これは全部、冬子さんが……?」

 それは言うならば大きなドールハウスでした。可愛らしいフランス人形たちが、部屋の至る所に飾られているのです。彼女たちはまるで本当に生きているみたいに、おもちゃの台所でフライパンを握っていたり、小さなテーブルに座って日記を書いていたりしました。

 まるで千佳たちが人形たちの世界に入り込んでしまったみたいです。

「この子たちは全部、私が今まで集めた友達ですよ」

 そう言って冬子は今日新しく友達になった赤毛の人形をそっと、おもちゃの籐椅子に座らせました。

「素晴らしいですね……」

「ありがとうございます。でも、もうそろそろ辞めようと思っています」

「え、どうしてですか……? こんなに素敵なのに……」

「だって、私には似合わないでしょう?」

 確かに大和撫子のイメージがある冬子にフランス人形は似合わないのかもしれません。しかし、千佳は認めませんでした。

「似合わないでしょうか? 好きなものに、似合うも似合わないもないような気が私はします」

「そうだと良いんだれけど……」

 冬子は千佳の言葉を机上の空論だと思っているみたいでした。

「でも、きっと皆私にこんな可愛らしいイメージは持っていないでしょう」

「冬子さん、それは違いますよ!」

「え?」

 冬子は千佳のはっきりとした否定に目を丸くしました。

「冬子さんだって私の趣味に付き合ってくれたじゃないですか。毎週図書館に通って古典の話をしてくれたじゃありませんか。それだったら、私も冬子さんの趣味に付き合います! だから、決してそんな風に卑下なさらないでください。私の趣味を見たときのように、自分の趣味を認めてください」

「そう……ですね……」

 冬子は「高校生にもなってお人形遊びは恥ずかしい」「自分のイメージと合っていない」と自分の趣味を隠し続けてきました。しかし、千佳に言葉をかけられて、ようやく本当の自分を出せたような気がしました。

 冬子は自然な女子高生らしい笑顔で小さく笑いました。

「千佳さん、このフランス人形はわざわざイタリアから取り寄せたものなんです。よかったらお土産に持って帰ってあげてください。フランス人形は最初イタリアで作られたものなんですよ」

「ありがとうございます!」

 千佳はそっと大事に赤毛のお下げ髪のフランス人形を冬子から受け取りました。

 こんな風に友達に自分の好きなものをあげるのは初めてのことでした。

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