第2章
最初に攻撃を仕掛けたのはアリアでした。
彼女は毎日千佳の教室に通いつめ、世間知らずの彼女を街に誘って連れ回すのです。アリアがいきなり千佳を自分の隣に置くようになったので、みんな驚いて「千佳は実はアリアの命の恩人で……」などと根も葉もない噂を呟くようになりました。そうでもしないと説明がつかなかったのです。
しかし、当の千佳は生来の呑気な性格から、全く気にしていません。ただ純粋にアリアのような華やかな友達ができたことを嬉しく思っていたのです。そういうわけですから、一見すると二人の女王対決はアリアが有利のようにも思えました。しかし、夏目前のある日、風向きは大きく変わりました。
☆
その日、千佳はボランティア活動の一環として、児童館の子どもたちと遊んでいました。そして帰宅の時間になり、帰る子は帰り、迎えを待つ子は静かに迎えを待っていたのですが、白神楓太君という男の子のお母さんがいつまで経っても迎えに来ないのです。
結果色々あって、千佳がその楓太君を家まで送り届けることになりました。千佳は真面目で心根が優しいので、児童館の先生からも信頼されていたんですね。
千佳は楓太君と手を繋ぎ、暗い夜道を歩きます。楓太君も最初は緊張していましたが、千佳が母親のように優しいことに気付くと、のびのびと自分の話をし始めました。
「うちの家は貧乏なんだ」
彼が地面を見て呟きます。千佳は、小学一年生の思いがけない告白に少しショックを受けました。
「そうなんだね」
「お母さんはいつも夜遅くまでザンギョしてるんだ。お姉ちゃんは多分バイトで……」
「お姉さんがいるんだね。お姉さんのこと好き?」
「好きだよ。料理とかはお姉ちゃんが作るんだけど、あんまり上手じゃない!」
楓太君がようやく子供らしい笑顔を見せます。千佳はその顔を見て少しホッとしました。
「あ、ここが俺の家!」
彼が指さした家はお世辞にも綺麗だとは言えませんでした。壁は錆びたトタンで覆われ、屋根の瓦はところどころ落ち、窓から見える障子には穴が開いていました。
楓太君は建付けの悪い引き戸を開けて家に入ります。
「ただいま!」
「おかえり!」
家の中から若い女性の声が聞こえてきました。きっと楓太君のお姉さんでしょう。
「児童館のお姉さんに送ってもらったよ!」
「あら、そうなの?」
ガラガラと引き戸が開くと、中から見知った顔の女性が出てきました。
「アリアさん?」
「千佳ちゃん!」
アリアは苦虫を噛み潰したような顔で千佳を見つめます。
「弟がお世話になったわ」
「いえいえ!」
「ここ、うちの『離れ』なんだけど、少しお茶でもいかが?」
「いいんですか? じゃあ、お言葉に甘えて……」
アリアはこの時、同級生を貧相な家に招くか、同級生をお茶すら出さず突き返すかの究極の二択を迫られました。その結果、自分の家を「離れ」と表現する苦渋の嘘を付く羽目になったのです。しかし一方の千佳はそんなアリアの心など露知らず「そういえば苗字が一緒だ!」などと呑気に思っていました。
千佳はアリアに連れられてギシギシと鳴る廊下を抜けて、ちょうど千佳の部屋と同じくらいの広さの居間に通されました。
よく掃除はされてありましたが、全体的に痛みが酷く、畳の目は瞑れ、部屋の扇風機は羽を回しながらカタカタと変な音を立てていました。
千佳は行儀よく座布団に座り、アリアが出してくれたお茶を飲みました。
「ごめんなさいね。『離れ』だから貧相で……」
「いえいえ、とても趣があって落ち着きます」
アリアは頑なに『離れ』という言葉を使い、あたかも立派な別宅があるかのような雰囲気を醸し出します。アリアは何としてここが自分の家だと気付かれたくなかったんですね。
「そういえば、アリアさん。アルバイトをなさっていたんですね! 楓太君から聞きました。すごいですね。やはりアリアさんは大人です」
千佳が尊敬の眼差しでアリアを見ます。しかし、アリアは顔を真っ青にして、いきなり部屋を飛び出しました。そして鬼のような声。
「颯太! アンタ、私がバイトしてること言ったの!?」
これにはさすがの鈍い千佳も「マズいことを言ったのかもしれない」と思いました。
しばらくすると落胆した表情でアリアが戻ってきました。そして彼女は今まで見たことのない程キツイ形相になって千佳を睨みました。
「あなた、私の家が貧乏なこと知ってたのね!」
「え?」
「私の家が貧乏だって学校で言いふらすつもりでしょう?」
「いえ、そんなことはしません!」
千佳は少しムッとして言い返しました。千佳はそんな心無いことをする人間ではありませんでした。
「ふーん。でもきっと千佳ちゃんは私のこと貧乏だって見下してるわ」
「何を言いますか! アリアさんに対してそんなこと思うわけないでしょう!」
千佳は思わず座布団の上に立ち上がってしまいました。アリアは温厚な千佳が怒りを顕わにするのを見て驚きました。
「そもそも貧乏が何だって言うんですか! アリアさんにはそんなこと関係ないでしょ!」
「で、でも、きっと皆私の家が貧乏だって知ったら、ガッカリして私を除け者にすると思うわ!」
「そんなわけありません。だって、皆アリアさんがお金持ちだと思っているから尊敬しているわけじゃないでしょ! あなたが誰に対しても優しく明るく接するから、皆あなたのことが好きなんです!」
アリアはまたさらにびっくりしました。彼女は今まで千佳の言うようなことを考えたことはありませんでした。自分を支持してくれるのは、見た目が良くて運動ができて裕福そうに見えるからだと思っていました。千佳はそう思っていたから、今まで働いていることを隠してきたのです。
「きっと皆アリアさんが家族のためにバイトをしていることを知ったら、もっとアリアさんのことを好きになると思いますよ。家族のために働くことのどこが後ろめたいんですか?」
アリアは千佳の言葉を聞いたとき、人生で初めて本当の自分を褒めてもらえた気がしました。皆、アリアのことを「足が速い」とか「可愛い」とほめそやします。しかし、そのどれもアリアの心を満たすものではありませんでした。
アリアは千佳に感謝し、千佳を下らない遊びに巻き込もうとした自分を悔いました。
「そうね……。ありがとう……」
彼女は静かに泣きました。家族以外の人の前で泣くのは初めてのことでした。
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