最終章 百年万年のちにも

 翌日から僕たち新米魔導師の修行が始まった。


 音無瀬は、文芸部卒業生でプロの小説家が選んだ本を読まされ続けた。


 早瀬さんはフレーズ・ルージュでケーキ作りの修行にいそしんだ。

 

 黒輝はプロカメラマンの臨時アシスタントになった。


 沙織は合気道部の卒業生で僕も知っている、


 白峰流柔術の高弟だった先輩とマンツーマンで稽古を続けた。


 僕は、と言うと…毎日放課後、カフェ・ノワールでコーヒーを淹れていた。


「シノブ君にはネルドリップを覚えてもらう。基本的にはペーパードリップと変わらないから心配はいらない。あとは数をこなすことだ」

 と、マスターは言った。


 麻帆さんは、

「今週、毎日三時よりコーヒー無料」

 と、言う看板を入り口に掲げた。


 火曜日の放課後はクラス委員会。僕と黒輝、沙織はそれぞれ出席した。秋山生徒会長は、言った。


「再来週はいよいよ林檎祭です。セクトに属さない生徒は、どのセクトで参加するか、申告するよう伝えてください」

 生徒会役員が初めてセクトという言葉を公然と使った。


 ギルドでは、早瀬菜希さんが帰宅部だが、すでに魔導師の資格を得て参加することが決まっていた。


 中庭を望む窓からは、巨木の梢に実がなっているのが見えるようになった。林檎と言ってもカイドウリンゴのように小さかったが。


 火曜のクラス委員会のあとから土曜日まで、僕のコーヒー修行が続いた。


 日曜日、僕は久しぶりに親父と朝食を摂っていた。

「お前、コーヒー淹れるの上手くなったなぁ」


 親父が言った。

「特訓してるからね」


「何の特訓だ?」

「魔導師の。林檎祭に備えて」


「お前も魔導師だったのか?」

「お前もって、父さんも?」


「ああ…俺が現役で出たのはもう、二十年くらい前のことだが…俺は家を継ぐのがいやで、東京の写真学校に逃げてしまったから、母さんが死んで、ここに戻ってからも、一度も出てないからな。白籏や佳帆ちゃんや澁谷は毎年出ているそうだから、今年は時間を作って久しぶりに出てみようと思う」


「林檎祭って現役生徒以外も出られるの?」

「ああ、卒業生はな。ただし中庭には入れないから、援護くらいしか出来ないが」


「澁谷さんって誰?」

「何を言ってる。カフェ・ノワールのマスターだ」


 その時、玄関のチャイムが鳴った。

「はい、どうぞ…って、あれ、黒輝じゃないか!」


「おはようございます、結城先生」

 玄関から顔を覗かせたのは黒輝瞳だった。


「おお、黒輝君よく来たね」

 親父は相好を崩して黒輝を迎えた。


「シノブ、今日はこの黒輝君を臨時助手にして東京のスタジオで撮影だ」

「黒輝がアシスタントになってるカメラマンって親父のことだったの?」


「まあ、そうだ。後はよろしくな」

 親父は黒輝を乗せて車で出かけた。


 僕もうかうかしてはいられない。今日は日曜日だが、カフェ・ノワールは僕の修行のために臨時営業なのだ。


 一日無料を聞きつけたギルドの生徒や先輩達が朝から入れ替わり立ち替わり訪れた。僕のバイト代はもちろんゼロだ。


 午後二時頃、校長先生が入って来た。

「やあ、お邪魔するよ」


「いらっしゃいませ…あ…」

 麻帆さんが絶句した。


 ひるあんどん─実は「審判者の長」と呼ばれる人。とてもそうは見えないんだけど。


「この結界にはギルド以外は入れないんじゃなかったんですか?」

 僕は麻帆さんにそっと尋ねた。


「審判者は別よ。彼らには結界は関係ないわ」

 麻帆さんは囁き返した。


「こんにちは。いやあ、外はまだ暑いね」

 校長がにたにた笑いながら言った。


「久しぶりですね、校長先生」

 いつも冷静なマスターが緊張しているように見えた。


「やあ、ひさしぶり、澁谷君、それに白籏君。それから君は…結城ノブオ君だったかな?」


「…シノブです(お約束だな…)」

「あはは、やあ、これは失敬、失敬」


「あ、あの、ご注文は」

 麻帆さんも落ち着きを欠いているように見えた。


「Aブレンドをひとつ、お願いしますよ」

 カウンターに座った校長が鷹揚とした態度で答えた。


「マ、マスター、い、いえ、シノブ君、Aワン!」

「は、はい!」


 ところが、仕事にかかろうとした僕を制して、

「シノブ君、これは私が淹れる」


 と、マスターが言うと、やけに慎重に淹れた。カップはSPドレスデンを使った。マイセンに匹敵する銘品だ。普通の客には出さない。


 校長はAブレンドを一気に飲み干し、ハンカチで額の汗を拭きながら言った。

「ではこれで。ごちそうさま」


 校長はコインをカウンターに置くと店を出て行こうとした。

「あ、あの、今日は無料サービス中ですのでお金は…」


 麻帆さんが慌てて声をかける。校長は振り返り、

「それは、あの新米魔導師君の場合でしょう。私はマスターに淹れてもらったから、ちゃんと払いますよ。では、気が向いたらまた寄らせて貰います。はっはっは…」

 と、高笑いを残して去った。


 マスターは暫くうつむき黙り込んでいた。

「マスター、マスター?」


 僕は繰り返して声をかけた。

「…あ、ああ、どうかしたかね?」


「マスターこそどうしたんですか?校長がそんなに気になるんですか?」

「考えていたんだ…どうしたらやつに…」


「?…僕たちが戦うのは他のセクトと「生命の木の守護者」ケルビムでしょう?校長は「審判者の長」、勝負には関係ないんじゃ…」


 マスターはその後むっつりと黙り込み、ひとりで考え込んでいた。麻帆さんはそんなマスターを心配そうに見つめていた。


 僕はその後、校長先生のことが気にかかり、マスターもどこかうわのそらのままで、ちっとも上手く淹れられなかった。


 午後七時。営業時間終了。


 だが、マスターは、

「私はもう少し残ってすることがあるから、君たちは帰りたまえ」

 と、言ったので、僕と麻帆さんは先に店を出た。


「麻帆さん、前から聞いてみたいことがあったんですが」

 僕は切り出した。


「何かしら?」

 どこかしら憂鬱そうな顔をして、麻帆さんは答えた。


「麻帆さんはマスターが好きなんですか?」

 僕はずばり聞いた。


「まさか、そんなこと…なんて、魔導師に言ってもごまかせるわけないわね。そうよ。マスターは私の想いびと…」

「たしかマスターは麻帆さんのお母さんのことを…」


「そう。マスターは高校時代、母さんが好きで、同級生だった父さんも母さんが好きだったの。結局母さんは父さんを選んだけれど、マスターはその後二十年も独身のまま。今でも母さんのことを忘れてないわ」


「麻帆さんはいつからマスターのことを?」

「慧傳学園に入学が決まった日にケーキを届けに父さんと来た時、カップを貰ったわ。それからここでアルバイトするようになって、だんだん気になって、母さんの写真を見る度、嫉妬を覚えるようになったわ。だって、母さんは二十年も想われ続けてきたんですもの」


「マスターは麻帆さんのこと、気が付いているんでしょうか?」

「ベテラン魔導師ですもの、気が付いていないわけがないわ。でも、自分の気持ちは隠して教えてくれない…」


「せつないですね」

「ううん、今は傍にいられるだけで幸せ。私も百万年でも待ってやるんだ。あはは…」

 麻帆さんは爽やかな笑いを漏らした。


「あ、そう言えば知ってる?マスターや父さん、母さん、それにシノブ君のお父さん達、現役の時、林檎祭でケルビムと対決したのよ」

「え、それで、勝ったんですか?」


「まさか。勝ってたら、林檎祭は終わっているわ。でも、どんなふうに戦ったのかは誰も教えてくれない…審判者の禁言なんでしょうね」


「今日、校長先生が来てから、マスターがどこか変だったのと関係あるんでしょうか?」

「かもね。私も校長って一癖ありそうに見えるんだけど、得体が知れないのよ。「審判者の長」って呼ばれるけど、どんな役目があるのかわからないし」


 話しているうちに僕たちは「フレーズ・ルージュ」の前に来ていた。

「あ、ごめんなさい。駅と反対方向に歩かせちゃったわね…あ、そうだ、ケーキが残ってたら持って行く?」


「はい、いただきます」

 正直、僕はお腹が空いていた。


 家に帰ると、親父はもう帰っていた。

「おう、シノブ、あの女の子、出来るな。スタジオ撮影は今週が初めてだって言ってたが、使える。すぐにでも助手に欲しいくらいだ」


「魔導師の特訓じゃなかったの?」

「ん?…ああ、そ、そうだったな」


「まさか、忘れてたわけじゃあ…」

「そ、そんなわけないだろう?わはは、はははは…」

「…」


 本当に、卒業生の魔導師達は、現役の僕たちのことを真剣に考えているんだろうか?


 翌週、月曜日。ついに林檎祭まで一週間を切った。僕は相変わらず、カフェ・ノワールに通い続けていた。


「早く林檎祭が終わらないと、うちの店は倒産ね…」

 麻帆さんが本気とも冗談ともつかない口調で言った。


「…あら、百合華、いつの間に…」

 麻帆さんの言葉に顔を上げると、カウンターに百合華さんが座っていた。


「シノブ君、調子はどう?」

 百合華さんは相変わらずミステリアスな微笑を浮かべて言った。


「よくわかりません。自分が何をやっているのか…コーヒーを淹れるのが、魔導師の修行の何の役に立つのか…」


「…そう、じゃあ、モカマタリを淹れてくれる?」

「モカマタリ・ワン入ります!」

 麻帆さんが叫ぶ。


 調子が悪いからと言って、手抜きは出来ない。何しろ百合華さんの注文だ。僕は細心の注意を払ってモカ・マタリを淹れた。


 通称「モカ」と言われるのは大抵エチオピア産のモカハラーで、本当の「モカ」はイエメン産のモカマタリを指す。より正確には、イエメンのベニマタ地方のマタリ産がモカマタリと称される。


 隣でマスターが温めたカップを差し出した。


「これは?」

 それは、店で使っているジャスパーウェアと似ていたが、はるかにに緻密な模様で構成されていて、レリーフ模様は二色、内側は白。


「ジャスパーウェア・コノスアーコレクション・トライカラージャスパー・コーヒーカップ六脚組のひとつだ。百合華君も見たことはない」

 マスターは僕に囁いた。


「どうぞ、モカマタリです」

 僕は百合華さんにカップを差し出した。百合華さんはカップを見て一瞬はっとした。が、すぐに冷静な表情に戻り、目を瞑ってコーヒーの香りを吸い込んだ。


「私、モカマタリって好き…コーヒーの原点って感じがするわ…」


「…」

「…」

 僕とマスターは黙って聞いていた。


 突然、百合華さんは目を瞑って詩を唱え始めた。


「きみの瞳と谷は思いで

 きみの瞳は炎、谷は鉢

 月の光が峰にしのびよった、ここ

 ぼくらがコーヒーカップを伏せた、ここ

 そして、きみの瞳と月は谷を吹きすぎた

 ぼくは明日また、きみに会おう

 百万年のちにもきみに会おう」


 百合華さんは目に涙を浮かべていた。彼女が泣くのを見るのは初めてだ。僕は奇妙な感動を覚えていた。やがて彼女は目を開け、僕に言った。


「カール・A・サンドバーグの「谷の歌」という詩よ」

 百合華さんはかすかに微笑んで言った。


「百合華さん…なぜその詩に涙を…?」

「さあ…なぜかしら?…このカップの魔力…それともシノブ君のコーヒーの魔力かしら」


「…」

 僕は何も答えられなかった。


(ぼくは明日また、きみに会おう

 百万年のちにもきみに会おう…か。百万年後にも会うには生まれ変わるか、それとも生き続けるか…昨日麻帆さんも「百万年」って言ったっけ。魔導師の予知能力かな?)


「シノブ君、ごちそうさま。マスター、コノスアーコレクション、どうもありがとう」

 そう言って百合華さんは歩み去った。


 そして林檎祭当日が来た。年に一度、中庭の門が開く日が。


 僕たち魔導師ギルドは講堂に集まって作戦会議を行った。精霊連盟は体育館、妖魔連合は校庭に集結しているはずだ。


 姫野百合華さんが口火を切った。


「卒業生の皆さん、多数ご参加いただきありがとうございます。魔導師総代の姫野百合華です。これより作戦を説明します。今年の突入経路は東門を主攻軸に、陽動として南東門と北東門」


「おお、エデンの東か!」

 卒業生からざわめきが起こった。


「これは佐藤薬局のおばあちゃんの占いの結果です」


「佐藤のばあちゃんの占いなら確かだ」

「でも、去年ははずれたぜ」

「去年は風邪を引いてたからさ」


 爆笑。決戦を前にしてありがちな緊張感はまったくない。彼らにはこれはお祭りなのだ。


 咳払いをして百合華さんは一同のざわめきを鎮めさせた。


「ご存じのように、卒業生の方々は中庭には入れませんから、最後衛として、敵の陽動、分断、足止めを計っていただきます。卒業生の指揮官は、前魔導師総代、白籏麻帆さん、参謀はカフェ・ノワールマスター、澁谷亮平さんにお願いします。」


 百合華さんは麻帆さんを卒業生の指揮官に指名した。若い麻帆さんには大役だが、それだけ上下から信頼されている証と言える。


「白籏麻帆です。大任を仰せつかりましたが、皆さん、後輩達が、私達の果たせなかったチャンスをものにできるよう、協力してください」

 壇上に立った麻帆さんは大きくお辞儀した。大きな拍手が巻き起こる。


「突入部隊は現役生徒。まず、後衛としてテニス部、弓道部、文芸部、軽音楽同好会、写真部、美術部、映画研究会。遠隔攻撃、魔法攻撃を担当。指揮官は現生徒会長・美術部長、秋山美優。参謀は前美術部長、萩尾絵夢」

 百合華さんが後衛の編成を告げた。


「秋山美優です。よろしくお願いします」

 再び拍手の渦。


「次に、生活向上委員会は情報収集…」


 その時、生活向上委員会の委員長、難波洋史が駆け込んできた。


「た、た、た、大変だ!」

「なんですか、難波君?」

 百合華さんが尋ねる。


「精霊連盟と妖魔連合が同盟を結んだ!単独では俺たちギルドに対抗できないと見て、俺たちを引きずり降ろすつもりなんだ!」


 ギルド全体からざわめきが起こった。ギルドは約二倍の敵と戦わなければならないことになるのだ。しかし、百合華さんは冷静だった。


「…たとえ、何があろうと、我々はいまさら所定の戦略を変更するわけには行きません。総力を挙げて敵を分断、各個撃破するのみです」

 百合華さんは答えた。全員から歓声が起こる。


「編成を続けます。前衛は剣道部、合気道部。近接白兵戦で、敵の前衛部隊を撃破すること。指揮官は合気道部主将、鳴尾美鶴、参謀は剣道部主将、五十嵐康平」


「了解しました」

 合気道部部長、鳴尾先輩が答えた。


「最後に魔導師隊本隊。音無瀬静流、黒輝瞳、早瀬菜希、結城沙織、結城信夫、出雲鏡子、高千穂眞弓、渓川いづみ、小野寺美登里。そして私が直接指揮を執ります。それから、情報参謀として、生向委、佐伯祐二は本隊に随伴すること」

 大きなうなりが全員から巻き起こった。


「やったぜ、俺も本隊の一員だ!」

 隣で佐伯がガッツポーズをして叫んでいた。


 僕は…僕も本隊の魔導師に選ばれたんだなぁ…と妙な感慨を覚えていた。


 この戦い…いや、お祭りか…百年以上勝者がいないと言うけど、今年はどうなるんだろう?勝ち目はほとんどないというのに、みんなやる気満々だ。


「敵欺瞞のため、若い卒業生は制服姿になってください。そして、南東入り口、東入口、北東入り口に分散。年配の卒業生は各入口に分散して敵の侵入を阻止」

 麻帆さんが卒業生に作戦を説明していた。


「白籏、久しぶりだなぁ」

「結城こそ」

「佳帆ちゃん、若いなぁ」

「あら、結城さんこそ」

「若く見えるのは苦労をしてないからさ」

「澁谷こそ老けたなぁ」

 親父達が世間話をしていた。


 彼らが魔導師とは、外見からは到底思えない。まるきり同窓会をやっているとしか思えない。


 しかし、現役の僕たちにとっては、これは一生で三度しかないチャンスなのだ(その時はそう思っていたのだが…)。


 その時、制服姿の麻帆さんが、声をかけてきた。彼女の制服姿はもちろん初めて見る。


「あ、シノブ君、これを持って行って」

 そう言ってバッグを僕に手渡した。


「なんですか、これ?」

「マスターから。今日、必要になるかもしれないものよ」

 そのバッグはずっしりと重かった。


「必要になるかも知れない?」

「でも、必要になるまで開けてはだめよ」


「でも、いつ必要か、どうやって判断したらいいんですか?」

「必要になればわかるわ。じゃあ、がんばって」

 それだけ言って麻帆さんは去った。


「伝令、伝令」

 生向委の委員が叫びながら入ってきた。


「報告、精霊連盟は北西入り口を中心に布陣。妖魔連合は南西入り口を中心に布陣」


「お聞きの通りです」

 佐伯が百合華さんに言った。


「うかうかしていると挟撃されかねないわね。こうなったら、中央突破で行くしかないか…」

 百合華さんは呟いた。


 佐伯が腕時計を見て言った。佐伯の時計は電波時計だ。開門時間は午前九時。

「開門まであと十分」


「卒業生、配置完了」

 麻帆さんが報告する。


「後衛、配置完了」

 秋山先輩が報告する。


「前衛、配置完了」

 鳴尾先輩が報告する。


「了解。本隊配置完了。魔導師ギルド全部隊、配置完了。開門までそのまま待機!」

 百合華さんが強い声で叫んだ。


 佐伯がカウントダウンをしていた。


「開門まで一分、五十九秒、五十八秒…」

「…三十秒、二十九秒、二十八秒…」

「十,九,八,七,六,五,四,三,二,一,開門!」


 重々しい音を立てて扉が開く。


「突入!」

 百合華さんが叫ぶ。僕たちは前衛、本隊、後衛の順に、廊下から一年間「開かずの扉」だった中庭に通じる扉を抜けて中庭に降り立った。


 卒業生は後方攪乱のため、廊下に散開している。


「全速で前進!こうなったら、他の勢力より少しでも早く木にたどり着きます!」

 百合華さんが部隊を叱咤した。


 その時、佐伯の携帯が鳴った。


「はい、佐伯です。ええっ…了解。姫野さん、南西よりサッカー部接近、注意されたし、との情報あり」


「わかりました。南西よりサッカー部接近、総員戦闘態勢!」


 いよいよ来た!だが、僕は何をすればいいんだ?まだ魔法なんてほとんど覚えてないぞ。そうこうするうちにサッカー部が現れた。


「前衛部隊白兵戦用意!魔導師隊、応じ返し用意!後衛部隊遠隔攻撃用意!」

 百合華さんが叫ぶ。


(応じ返しなら空手部との時最初に覚えた…)


 サッカー部が一斉にシュートを放つ。

「応じ返し!」

「はっ!」


 僕も含めて魔導師隊が一斉に気を発する。サッカー部の放ったボールは、サッカー部自身の顔面に打ち込まれた。


「テニス部、弓道部、遠隔攻撃!」

 秋山先輩が叫ぶ。起き上がろうとしていたサッカー部の顔面にテニス部のボールと弓道部の矢が集中する。


 合気道部と剣道部が近寄ってとどめを刺した。と、言っても死ぬわけではない。林檎祭では「審判者」の力により、どんなことをしても死ぬことはないのだそうだ。戦闘不能になった者は校舎外に転送されて脱落する。


「敵、殲滅」

 佐伯が報告する。


「ボールと矢を直ちに回収して。後衛の他の部も協力して。戦いはこれからよ!」

 秋山先輩が手早く命じた。


 息つく暇もなく、新たな敵が現れた。野球部とバスケット部だ。

「前衛白兵戦用意、魔導師隊、応じ返し、後衛遠隔攻撃!」


 戦術はさっきのサッカー部と同じだったが、今度は数が多く、しかもタフだった。応じ返しやテニスボールを顔面に受けても平然と立ち上がってきて、合気道部、剣道部は激しい白兵戦ののち、ようやくこれを撃退出来た。前衛は何人かが負傷した。


「前衛に治癒魔法!」

 百合華さんが叫ぶ。


「ヒーリング!」

 魔導師隊が一斉に叫ぶ。やわらかな波動が前衛を包み、倒れていた、前衛数名が立ち上がる。これが治癒魔法か。早瀬さんに受けた覚えはあるが自分でやるのは初めてだ。


 さらに、吹奏楽部の音楽と応援団の叫びとチアリーディング部のかけ声が近づいて来た。


「強敵よ!総員戦闘用意!」

 百合華さんが叫ぶ。


 吹奏楽部の音楽に前衛が硬直する。応援団が遠当てを飛ばす。前衛の数名が直撃を受けて倒れる。戦闘不能になって飛ばされた者もいる。チアリーディング部もバトンを回転させながら飛ばす。本隊はかろうじてこれをたたき落とした。


「テニス部、弓道部、指揮者・団長を狙撃」

 秋山先輩が命じる。


 吹奏楽部、チアリーディング部の部長、応援団長は魔導師のひとり、弓道部二年の高千穂眞弓の指揮する弓道部の狙撃を受けて戦闘不能になり、応援団は混乱に陥った。


 前衛は勢いを取り戻し、なんとか撃退に成功した。


「前衛にヒーリング!」

「ヒーリング!」


 本隊が治癒魔法を施したのもつかの間、合唱が聞こえてきた。音楽部だ。

 前部長の春日駿輔が指揮棒を手にこちらを振り向いて、ニタリと笑う。


「いけない…混乱魔法よ…」

 百合華さんが呟く。


 前衛の大半がふらふらと倒れる。


「指揮者を狙撃!」

 秋山先輩が叫び、ボールと矢が春日に集中するが、ひとつも当たらない。


 その時。


 渓川いづみさんがマイクを手に歌い始めていた!


「ディスペルソングだわ…」

 百合華さんが呟く。


「みんな、一緒に歌って!」

 百合華さんが魔導師隊に呼びかける。魔導師隊に続き後衛も歌い始める。解呪の歌だ。


「軽音、サポート!」

 秋山先輩が軽音楽同好会に命じる。バッテリーとPAを引きずって来ていた軽音は、咄嗟に渓川さんの歌のサポートを始めた。


 音楽部に混乱が生じた。旋律と音程が乱れ、部員の多くは頭を抱えて失神した。部長の春日もついに耐えきれず倒れた。


「やったぜ!」

 寺内先輩達、軽音のメンバーが歓声を上げる。


 音楽部を撃退して僕たちはようやく一息ついた。木はもう目の前に迫っている。


「佐伯君、残りの敵戦力は?」

 百合華さんが祐二に尋ねた。


「はい、精霊連盟は、柔道部、放送部、新聞部、物理部、天文部、演劇部、手芸部。妖魔連合は、卓球部、空手部、生物部、化学部、電脳部、落語研究会」


「戦力の逐次投入は最低の戦術だけど…たぶん私達を足止めするのが狙いね…攻撃力のある運動部は、残りは柔道部、空手部くらいか…魔力のある文化系クラブは物理部、天文部、演劇部、生物部、化学部、電脳部…力のある精霊使い、妖魔使いがまだあまり出てきていないのも不気味ね。温存しているんでしょう…」


「ひ、姫野先輩、大変です!敵戦力多数、木の前方に集結中!」

 佐伯がうろたえて叫んだ。


「敵も決戦に出るつもりね…やはり私達を足止めして先に木の前に出るのが狙いだったか…」


 百合華さんは口元に苦笑を浮かべて言った。


 前方には、多数の生徒の中に、前生徒会副会長、冬野大地と、前書記、並木静夫の姿があった。冬野大地は精霊連盟の代表、並木静夫は妖魔連合の筆頭だ。


「姫野君」

 マイクを通して冬野が口を開いた。放送部がPAを持ち込んでいるのだ。


「これ以上戦っても君たちに勝ち目はないことはわかっているはずだ。我々も無駄な戦いは好まない。諦めて降伏したまえ」


 冬野は高圧的に言った。

 百合華さんは渓川さんのマイクを借りて答えた。


「それはどうかしら?木の実を手にすることが出来るのはひとつのセクトのみ。あなた達が総攻撃に出るなら、私達ギルドは戦力の大きい精霊連盟を集中攻撃するわよ。 

 私達が全滅した後、あなた方は拮抗した戦力で互いに戦い合い、消耗し尽くした果てに、生命の木の守護者と戦うことになるでしょう。過去、誰も勝ったことのない、炎の剣を持ったケルビムと…」

 百合華さんは嘲笑を口元に浮かべて冬野に答えた。


「…だ、だまれ、我々がどうしようと我々の勝手だ。確かなことはお前達魔導師ギルドに勝利がないと言うことだ!」


「冬野、ギルドを滅ぼした後、俺たちを滅ぼすつもりと言うのは本当か?約束ではくじ引きで平等に決めると…」

 並木が不審の目で冬野を見る。


「待て、今はギルドを滅ぼすのが先だ」

 冬野が並木をなだめる。


「魔導師ギルド現役生徒全員に命じます。攻撃目標、精霊連盟。総攻撃開始!」

 精霊連盟と妖魔連合の不協和音を無視して、百合華さんは攻撃を命じた。


 合気道部、剣道部は柔道部を撃破して文化部に襲いかかった。渓川さんは強力な魔法の歌で精霊連盟の文化部を混乱させた。

 もちろん、軽音がサポートする。


 テニス部、弓道部は文化部の部長を狙撃する。写真部は魔導師の黒輝とともに文化部の部長にカメラのフラッシュによる行動停止をかける。


 映画研究会も小規模ながらスローモーションの魔法をかける。


 連盟は指揮系統が混乱して有効な攻撃が出来ない。


 僕は…美術部は何をすれば…僕は迷った。


「結城君、美術部は「人形使い」よ!」

 小野寺先輩が叫んだ。


「ええっ?」

「スケッチブックを使って、敵をクロッキー!」

 後衛の指揮官、秋山先輩も同じことを命じていた。


「描きましたが…」

「私と君で動かすわよ!」

 小野寺先輩が命じる。


「は、はい」

「動け、人形よ、我が意のままに!」


 美術部の絵に描かれた精霊連盟の生徒は、わずか八人とは言え、文化部の中を暴れ回り、多数を負傷させた。


「やい、音無瀬!」

 声が響いた。佐上の声だった。


「なんだ、佐上。あんた、精霊連盟だったのか」

 音無瀬が答える。佐上は無所属だったはずだが。


「俺と一対一で戦え!」

「どうして?」


「お前は学校に来なかったくせに期末テストで俺と同点の一位だった。こんな屈辱は耐えられない。俺はギルドに入ったお前と戦うために連盟に入ったんだ」

 佐上は怨恨に燃えるような表情で音無瀬に憎悪を吐きつけた。


「佐上、お前も一位だったんだからいいじゃないか?」

 僕は佐上に言った。


「黙れ、結城、お前や早瀬が音無瀬にノートを貸したこともわかっているんだ。それさえなければ、俺のダントツ一位に終わったものを。音無瀬、ここで復讐してやる!」


 佐上の怨恨は逆恨みにしか見えなかったが、今は戦いの最中だ。


「静ちゃん、やめときなさいよ」

「心配いらないよ、菜希。適当にあしらって来る」

 音無瀬さんが前に出た。


「はっ!」

 音無瀬さんが気合いを発すると、目に見えない波動が佐上との間を短絡した。


「うぎゃああああ!」

 おぞましいうめき声を上げて佐上は感電したように全身をしびれさせ、失神した。


「何をしたの?」

 早瀬さんが尋ねた。


「いや、今までに読んだ本の内容を全部送り込んでやったんだけど、あいつ意外と頭の容量が少なかったんだな」

 と、音無瀬は淡々と答えた。


「音無瀬さんに倣って、文芸部、読書攻撃!」

 後衛の秋山先輩が命じた。音無瀬が合図すると、波動が空間を短絡し、さらに数名の精霊連盟の生徒が失神した。


 ギルドの優勢は一方的だった。しかし、連盟は諦めてはいなかった。精霊使い達はほとんどダメージを受けていなかったのだ。


「魔導師隊、敵の…」

 百合華さんが指揮に気を取られた瞬間だった。


「捕縛!」

「あっ!」

 冬野のかけ声と同時に、百合華さんが宙に舞った。


「魔導師総代の体は俺たちが預かった」

 並木が叫んだ。妖魔連合の妖魔使いも協力していた。百合華さんは目に見えないロープのようなものに絡みつかれて自由を奪われ、敵陣に引き寄せられた。


「わははは、俺たちが不和を装ったのは貴様達を油断させるため。姫野が無防備になる瞬間を待っていたのだ。連盟と連合の精霊使い、妖魔使いは合わせてお前達の魔導師の二倍の二十人。しかもお前達の魔導師の半数は素人だと言うことはわかっている。姫野を失いたくなければ降伏しろ!」


 冬野が自信に満ちた態度で叫んだ。その隣で並木もニタリと笑う。


「どうします?次席指揮官は。三年生の魔導師は、姫野先輩の他には小野寺先輩だけですよ」

 本隊に寄って来た秋山先輩が囁いた。


「そうね。じゃあ、私が指揮を執るしかないわね…」

 小野寺先輩が頷いた。


「みんな、私を信じて…魔導師ギルドは降伏しません。最後のひとりまで戦います!」

 小野寺先輩が冬野と並木に向けて叫んだ。


「そうか。だが、姫野を生命の木の生け贄に捧げる、と言ってもそう強気でいられるかな!」

 冬野が叫ぶ。


「生け贄?」

 僕は呟いた。魔導師ギルド全体がざわついた。


「生命の木の守護者よ!我は生命の木の実を欲する者なり!」

 並木が叫ぶと、巨木の袂に炎の剣を持ち、四枚の羽根を背負った御使い─第二位の天使、智天使ケルビムが現れた。


「我の眠りを妨げるのは何者か?また性懲りもなく、我に挑もうとする愚かな人間どもか?」

 ケルビムは重々しい声で告げた。


「木の実を欲するのはこの女だ!」

 冬野が叫ぶと、百合華さんは連盟と連合の魔導師達の念動で木に引き寄せられて行く…


「いけない、このままでは百合華が!…」

 小野寺先輩が叫んだ。


「で、でも、戦闘不能になっても転送されるだけじゃ…」

 佐伯が言った。


「炎の剣だけは別よ…炎の剣に斬られて帰った者はいないわ…伝承による限り…」

「そ、そんな…」

 僕は呆然として立ちつくした。百合華さんがこの世から消えようとしている!


「魔導師ギルド、最後のチャンスだ。降伏しろ。そうすれば姫野の命は助けてやる!」

 冬野が叫ぶ。小野寺先輩は迷っていた。


 その時。


「拒否…します。ギルドは…降伏しません」

 息も絶え絶えにそう言ったのは百合華さん自身だった。


「そうか、ではこの世から消えるがいい…やれ!」

 百合華さんは木の幹に運ばれ、ケルビムの炎の剣が百合華さんを薙いだ。その瞬間、百合華さんの体は炎に包まれ、一瞬にして消滅した!


「わははは、ギルドも姫野がいなければ、所詮ここまでだ!」

 冬野と並木が哄笑する。


 その直後。


 僕たちギルドの魔導師本隊のただ中に百合華さんが姿を現した!制服はだいぶ焦げていたけれど。


「ただいま」


「百合華さん!」

「百合華!」

「姫野さん!」

 ギルドのメンバーは口々に叫んだ。


「姫野…貴様どうやって?」

 冬野がうろたえて言った。


「炎の剣にぶつかった瞬間、捕縛が解けたのよ。その時瞬間移動をしたまで。だいぶ火傷はしたけど…」

 百合華さんは不敵な笑みを浮かべて答えた。


 百合華さんがそう言った直後、強烈な波動が魔導師ギルドを包んだ。

「…これは治癒魔法…そう、麻帆さんが…」

 百合華さんは東の窓を振り向いて呟いた。


 僕は、中庭に面した窓で麻帆さん達卒業生が戦況を見守っていることに気付いた。中庭に入れない卒業生が、百合華さんの危機を知って魔法を送り込んできたのだ。


 百合華さんの汚れた制服も一瞬にして真新しくなっていた。


「全魔導師、冬野大地に全力で混乱魔法!前衛、後衛、連盟の戦力を各個撃破せよ!」

 百合華さんが叫ぶと、僕たち魔導師は冬野に向けて混乱の波動を送った。


 混乱魔法なんて使ったこともないのに、なぜか僕にはわかった。冬野は頭を押さえてもがき苦しんだ。


 敵の精霊使いが立ちふさがったが、百合華さんを捕縛するのに消耗していた彼らはまともに抵抗できなかった。


 冬野が失神して消滅すると、僕たちは標的を精霊使いに変えた。


 僕たちはたった今強力な治癒魔法を受けたばかりでエネルギーに満ちており、精霊使いを撃破していった。


 敵首脳部の混乱に乗じて、魔導師ギルドは精霊連盟を分断し、一気に殲滅した。妖魔連合の一部も、精霊連盟の攻撃に参加した。


 精霊連盟の組織的抵抗が終結した後、百合華さんは次の命令を下した。


「続いて、妖魔連合を殲滅します!」

「ば、馬鹿な、俺達はお前達に協力したではないか!」

 並木が反駁した。


「私を炎の剣にぶつけるのにもね。それに、空手部の事件が何もなかったとは言わせないわ。全員、仇を取るのは今よ!」

 魔導師ギルドは一気に妖魔連合に襲いかかった。


「畜生、せめて、あのチビとは差し違えてでも消してやる!おい、結城、出てこい!」

 空手部主将夏目が歩み出た。


「望むところよ」

 沙織が前衛を押しのけて前に出た。


「おい、やめとけ、沙織」

 僕は沙織を止めようとした。


 しかし、百合華さんは、

「好きにさせなさい」

 と、言って、沙織を止めなかった。


「行くぞ、はあぁーっ!」

 夏目が連続突きから遠当てを放つ。


「応じ返し!」

 沙織は夏目の突きを跳ね返すと、念動で夏目を持ち上げて、言った。


「お前も炎の剣にぶつけてやろうか?」

「や、やめてくれ、助けて、助けてくれ!」

 夏目は体をじたばたさせて助命を乞うたが、沙織の捕縛は固く、びくともしない。


 沙織は夏目をいきなり、地面に頭から叩きつけた。直後、失神した夏目の体は消失した。


「お前などいまさら殺す価値もない」

 沙織はうそぶいて戦列に戻った。


「あの…不思議だったんですが、なぜ僕たちは教わってもいないのに、魔法が使えるんですか?」

 僕は先ほどからの疑問を百合華さんに聞いてみた。


「魔導師は産まれながら魔導師なの。それに気付いたときに魔導師になる。そして、訓練は魔導師の力を思い出すためのもの…魔導師は最初から魔法を知っているのよ…さあ、話をしている暇はないわ」

 姫野さんは手短に説明すると、次の命令を下した。


「渓川さん、敵に混乱の歌を!」

「は、はい」

 渓川さんに合わせて僕たち魔導師も歌う。

 当然軽音がサポートする。


 出雲さんが並木を竹刀で倒した。


 高千穂先輩に指揮された弓道部が妖魔使いを狙い撃ちにする。


 渓川さんの歌に混乱した敵は有効な防御をすることが出来ない。

 

 勝敗は最初から決していた。混乱した連合はあっさりと崩壊し去った。


「さすがです、姫野さん。二倍の敵に対して」

 祐二が言った。


「まあ、ここまでは予定どおりね。問題はこれからよ」

 百合華さんは唇を引き締めて答えた。


「でも、時間があと一時間弱しかありません」

 祐二が言った。現時刻午前十一時五分。終了時刻は正午。


「さて、生命の木に挑戦するわよ。ここから先は魔導師本隊だけで行くわ。みんな見ていて」

 百合華さんは僕たち十人の魔導師と佐伯の先頭に立つと、ケルビムに向かった。


「お前は先ほど炎の剣に斬られた者ではないか?どうやって逃れた?」

 ケルビムは百合華さんを見て意外そうに言った。


「私はこれでも、多少の魔導の力を心得ている者です。智慧を司る第二階梯の御使い、ケルビムよ、我らは生命の木の実を求める者、どうか生命の木の実を渡して頂けませんか?」

 百合華さんはなんと、ケルビムを説得しようとしていた。


「それはできない。生命の木の実が欲しければ、私を倒していくがよい」

 ケルビムは拒絶した。


「あの、前から疑問に思っていたのですが、生命の木を守るのに、なぜ第一位の御使い、熾天使セラフではなく第二位の智天使ケルビムなのですか?」

 音無瀬がケルビムに尋ねた。


 ば、馬鹿、ケルビムを怒らせたらどうするんだ?


「勇気ある少女よ、答えよう。それはセラフであったら、お前達人間が生命の木の実を手に入れる可能性は全くなくなるからだ。これは神の慈悲だ。事実、かつてこの木は人間に奪われたことがある。実ではなく枝だったが…この木がここにあるのがその証拠だ」

 ケルビムは淡々と語った。


(人間に奪われたことがある…失われた十八氏族のことか…ならば僕たちにも可能性がない訳じゃないってことだ!)


「…仕方がないわね。全員、炎の剣の攻撃圏内から離れて、全力で消火のスペル!」

「消火!」


 手をかざすと手の先から水流が吹き出し、炎の剣に降り注いだ…しかし、炎はいっこうに衰えない。


「姫野先輩…化学消火に切り替えたら?」

 黒輝が言った。


「化学消火?炭酸ガスでも使ってみる?」

 百合華さんが苦笑いして答えた。


(水では炎を消せないか…そうだ!ひょっとしたら…)


「僕に試させてください!」

 僕は叫んだ。百合華さんが不審な顔で尋ねる。

「シノブ君、何をするの?」


「水で炎が消せないなら…炎よ、天高く燃え上がれ、全てを焼き尽くすまで…」

 僕は火炎の呪文を唱え始めた。


 百合華さんがハッと気が付き、叫んだ。

「魔導師隊、全員火炎の呪文を!」


「炎よ、天高く燃え上がれ、全てを焼き尽くすまで…」

 魔導師隊が僕に倣い、火炎の呪文を詠唱した。


「炎よ、やがて灰となって燃え尽きよ!」

 僕は叫んだ。


 炎の剣は高々と燃え上がり、やがて、燃え尽きて、灰となって燃え落ちた。


「人間よ、炎の剣は消えた。お前達の智慧には敬意を表する…だが、私を倒さねば、生命の木の実は得られぬぞ!」

 ケルビムは宣告した。


「ちぇ、しぶといやつ、こうなりゃ素手で行くわよ!」

 沙織がケルビムに向かって行った。しかし、反対に投げ飛ばされる。


 つづいて黒輝がフラッシュを浴びせる。が、ケルビムは痛痒も感じず、逆に眼光で黒輝を硬直させた。


 次に、音無瀬が前に出る。

「くらえ、私の雑学を!」

 佐上をやったように思念を浴びせるが、自分が跳ね飛ばされ、地面に倒れる。


「知識を司る者が相手では、私ごときがかなうはずもなかったか…」

 音無瀬はくやしそうに呟いた。


「もうだめなの?今年の新人は他に…渓川さん、お願い」

 小野寺先輩が渓川さんを指名した。


「はい…」

 渓川さんが玲瓏とした歌を歌い出す。しかし、ケルビムもそれに合わせて歌う。ケルビムの歌は渓川さんの歌を凌ぎ、渓川さんは歌をやめて地面に膝を付く。


「私よりずっと上手い…やっぱり私なんて未熟だわ…」


「どうした、それで終わりか?」

 ケルビムがあざ笑う。


「私が行くわ」

 百合華さんが前に出た。魔導士総代の百合華さんなら、あるいは…僕も彼女の全力を見たことはない。


「サバイバルゲーム」

 百合華さんが宣言する。


「よかろう」

 ケルビムが頷く。


 銃声が轟いた。百合華さんが右手の人差し指を伸ばしてケルビムを指さしたのだ。一種の遠当てか。しかし、その瞬間にはすでにケルビムはそこにはいない。


 ケルビムのいた背後の木の幹にペイントが着く。ケルビムは百合華さんの後ろに瞬間移動して撃ち返した。百合華さんも瞬間移動してかわし、さらに撃ち返す。


 目まぐるしい攻防が暫く続いた。何十回目かの移動の後、百合華さんの胸にペイントがベッタリと着く。


「これまでだ」

 ケルビムが宣言する。


「この程度が私の限界か…残念ね」

 百合華さんは肩を落として言った。


「姫野先輩が負けた…」

「これじゃ、誰も勝てっこないわよ…」

 観衆から諦めの声が漏れる。


「これで終わりか?」

 ケルビムが傲岸とした表情で尋ねた。


「行きます!」

 出雲さんが竹刀を振りかぶって突進したが、無刀取りから羽根折り固めの前に敗れ去った。あれは叔父さんの技じゃないか。


「よくも鏡子を…くらえ!」

 高千穂先輩の弓術も返し矢を受けて破れた。


「次はいないのか?」

 ケルビムは余裕綽々で待ち受けていた。


「菜希…頼む」

 音無瀬さんが早瀬さんの背を押す。


「は、はい」

 早瀬さんはバッグの中からフレーズ・ルージュの箱を取り出す。


「ど、どうぞ。私が今朝ひとりで作ったケーキです。少し潰れてしまいましたが」

「えーっ!?」

 観戦していた生徒が意外さに驚きの声を上げる。


 ケルビムは早瀬さんが差し出したケーキをつまみ、口に運ぶ。

「うむ、誠意のこもった味だ。だが、スポンジがちとコシがなさすぎるな。まだまだだが、少女よ。これからも精進せよ」

 ケルビムは笑みを浮かべて早瀬さんに告げた。


「え?ケルビムが誉めた?確かにこれが彼女の修行だったけれど、ああいうのもあり?」

 観衆がざわめく。


「さあ、これで終わりか?」

 ケルビムが急かす。


「ちょっと待ってください」

 僕は言った。麻帆さんの渡してくれたバッグ…これを開けるとしたら、今をおいてないはずだ─僕は東の窓を見た。マスターと麻帆さんが合図しているのが見えた。


「私がやります!」

 小野寺先輩が名乗り出た。小野寺先輩は僕に囁いた。

「私が時間を稼ぐから、早く用意しなさい」

「は、はい」


 小野寺先輩は、スケッチブックを開き、ケルビムの顔をスケッチし始めた。


 僕は麻帆さんのくれたバッグを開けた。その中身は─ミネラルウォーター、カセットコンロ、トレイ、ポット、サーバー、計量スプーン、ネル、ティースプーン、生クリーム、グラニュー糖、「Sブレンド」と書かれたコーヒーの粉が入った袋と紙切れ、クリーマー、シュガーポット、ウェッジウッドの箱、などが入っていた。箱を開けると、マスターが百合華さんに出したコノスアーコレクションの色違い・模様違いが入っていた。早瀬さんはケーキ作りを修行して、ケーキで挑戦した。当然僕にはコーヒーで挑戦しろと言うことだろう。僕はポットにミネラルウォーターを汲み、コンロに火を着けた。沸騰するまで待ち、湯でカップを温める。Sブレンドを計ってネルに入れ、ポットの湯を注いだ…


 その間に小野寺先輩は、スケッチを完成させ、

「出来ました!」

 と、叫んでスケッチをケルビムに示した。


 ケルビムはフッと鼻で笑って指をさらさらと動かし、小野寺先輩のスケッチブックの次のページに数秒で小野寺先輩のスケッチを描きつけた。


「どうだ?」

「…私の負けです」

 スケッチを見比べた先輩はがっくりと肩を落とした。


「出来ました!」

 その時、僕は叫んだ。


 トレイにカップを載せ、ケルビムの前に持って行った。

「どうぞ。カフェ・ノワール、スペシャルブレンドです。味見してください」


「ほお、コーヒーか。いい香りだな。このカップは前世紀の呪物、「ポートランドの壺」の技術を継いだ魔導器だな…どれ…抽出技術はほぼ完璧だ。それに、このブレンドは…コロンビア・メデリン・スプレモ30%中深炒り、モカマタリ30%中炒り、ブラジル・サントスNo2・30%中深炒り…グァテマラ・アンティグア・パストレス10%中炒り、スラウェシ・カロシ5%中炒り…残りの5%は…マンデリン…いや違う…これは…これは…わからぬ…」


 ケルビムはついに降参した。


「残り5%はジャワ・アラビカです」


 僕は同封されていた紙に記してあった処方を読み上げた。これがマスターの切り札だったんだ。


「な、なんと、あの幻の豆、ジャワ・アラビカであったか。私としたことがなんといううかつ…少年よ。私の負けだ」

 観衆から歓声が巻き起こる。


「でも、そのブレンドは僕が作ったものではありません」

 僕は素直に白状した。東の窓では、マスターが会心の笑みを浮かべていた。そして、マスターに寄り添い、麻帆さんが泣いている。


「それでも私の負けに変わりはない…私の役目は終わった。人間よ、お前達の勝ちだ」

 そう告げると、ケルビムは校長先生に姿を変えた。


「校長先生?」

「そうだ。『審判者の長』、私がケルビムだ。魔導師ギルドの諸君、百数十年目にして君たちは初めて勝利者となった。『生命の木の実』は君たちのものだ」


「人間が神と等しい力を得てもいいんですか?」

「神の力は果てしない。人間をさらに進化させるためならば、永遠の生命をも許すだろう。では、さらばだ」

 校長先生は消え去った。


「もう時間がないわ。シノブ君、女の子をひとり、梢まで運びなさい」

 百合華さんが僕に呼びかけた。


「女の子…なら、百合華さん、あなたを…」

 僕の言葉に百合華さんは首を横に振った。


「…私もシノブ君と百万年後にも逢いたい…でも、それは許されないの…」

 百合華さんは涙をぽろぽろとこぼしていた。


「なぜです?魔導師総代の百合華さんこそ、永遠の命を与えられるのに相応しいのに!」


「訳を言います。たった今、校長先生によって解かれた禁言を。『生命の木の実』を手にする資格があるのは一年生の魔導師の男女一名ずつだけなのです」


「そんな…僕たちはそんなつもりでこの「林檎祭」を戦ってきた訳じゃ…」


「いいから、早く決めなさい!」

 百合華さんは毅然として叫んだ。


「…は、はい」

 僕は浮揚の呪文を唱え、ちらりと後ろを振り返って百合華さんを見た。


「シノブ君、いつかまた会いましょう」

 百合華さんは涙を流しながらも、穏やかに微笑んで言った。その後ろでは在校生達が、さらにその後ろの窓際では卒業生達が、祝福の拍手を僕に送ってくれていた。


 僕はもう振り返らなかった。沙織を指差し、

「沙織、飛べ!」

 と、叫んだ。


 沙織は「生命の木の実」が生っている梢まで飛び上がり、木の実をもいで一口齧ると、僕に投げてよこした。僕もその木の実を一口齧った。


 それは口づけの味がした。


(完)

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