第十章 私闘
その年の夏休みは静かに過ぎて行った。僕はほぼ毎日美術室に通い、下後はカフェ・ノワールか、日曜日にはフレーズ・ルージュに寄って行った。
僕は新しいモデルを見つけた。
それは─生徒会長にして美術部長、秋山美優先輩。
彼女は夏休みでも忙しいので、毎日会うことは出来なかったが、美術部に来て絵を描く彼女の姿を描くことは楽しかった。
生徒会長と美術部長という重責を担うことによって、彼女は新しい魅力を発揮するようになったと僕には感じられた。魔導師の力とは違うようだったけれど。
新学期、学園内は林檎祭を前にして、セクト間で次第に殺気立った空気が流れるようになっていた。ギルドは一年生が多いので、他のセクトから何かと目の敵にされることが多くなっていたんだ。
そして、事件はついに起こった。
土曜日、僕はいつものように美術室で絵を描いていた。そこに、突然佐伯祐二が飛び込んできた。
「大変だ、ノブオ、沙織ちゃんが…」
「喧嘩か?」
僕は直感して聞き返した。
「あ、ああ…」
「相手は?」
「空手部の二年生」
「(ギルドは精霊連盟と仲が悪いって聞いてたから、柔道部か応援団かと思ったが、まさか妖魔連合とは…)で、勝ったんだろうな?」
「もちろん」
「相手の怪我は?」
「右肩を脱臼…病院に運ばれた…って、どっちがしかけたか聞かないのか?」
「沙織は自分からしかけることはない…俺以外には」
「…あ、ああ」
「学校はどういう処置を下した?」
「沙織ちゃんの正当防衛と見なしておとがめなし」
「…そうか、まあ、不幸中の幸いだな」
「でも、空手部相手だとあとが怖いぜ」
「何が?」
「知らないのか?空手部は必ず復讐するって」
「…俺、沙織に会ってくる」
「あ、沙織ちゃんなら、教室に…」
「…わかった」
僕は一年L組の教室に向かった。教室に入ると、沙織と、早瀬菜希さんがいた。
「沙織、ついにやったんだってな…あれ、早瀬さん?」
「ああ、シノブか…もう聞いたのか」
沙織は元気なく答えた。
「あの…私のせいなんです」
早瀬さんが言った。
「早瀬さんのせい?」
「私が空手部に絡まれているところを、通りがかった結城さんが割って入って…結城さんは悪くないんです」
「学校もおとがめなしだったって聞いたが…」
「でも、主将からは私闘は厳禁の道場訓に反するって、一週間の謹慎だってさ…」
沙織は不機嫌そうに言った。
「それはともかくとして、空手部は必ず復讐するって聞いたぞ。気を付けろよ」
僕は沙織に注意した。
「それなら大丈夫。あたしが負ける訳ないじゃん…それより、また謹慎が延びて林檎祭に出られなくなるのがこわいんだよね…」
沙織の憂鬱の原因はそう言うことか…だが僕は、その時空手部を甘く見ていたことを、後になって思い知ることになる。
二日後の夜、僕は家でCGを描いていた。午後八時。突然電話が鳴った。不吉な予感がした。叔母さんからだった。
「沙織がまだ帰らないの。信ちゃん、何か知らない?」
「いえ。部活はとっくに終わっているはずですが(僕は沙織が謹慎中だってことを忘れていた)」
沙織は夜遊びをするような女の子じゃない。性格は粗暴だし、直情径行で、喧嘩は好きだが正義感は強く…正義感!一昨日の喧嘩のことを、僕は無用な心配をかけまいと叔父さん、叔母さんには教えていなかった。沙織はまた、空手部との抗争に巻き込まれたのではあるまいか…?
「僕、心当たりを探してきます!叔父さん、叔母さんは家で待っていてください。警察とかに知らせるのはまだ控えて。それじゃ、またあとで連絡します」
心当たり、と言ったものの、僕の推測は沙織がまた空手部とやり合ったのではないか、ということでしかない。沙織が今どこにいるのかは、憶測しか出来ない。
家を出ようとしたとき、ずいぶん大きくなったキャリーがドアをすり抜けて外に飛び出した。玄関先で金目銀目を光らせてニャーと鳴いた。着いてこい、と言っているように僕には感じられた。
キャリーは駅まで走っていった。それは僕の予想と同じだった。キャリーは改札の下を器用にすり抜けて上り電車に乗り込んだ。
そして、慧傳町駅で降りた。それはわかってるんだ。沙織がたぶん、学校にいることは…でも、なぜ、学校に来たこともないキャリーに学校がわかるんだ?
慧傳学園の正門の保安機構は旧式で、僕でも乗り越えることが出来た。キャリーは既に門を飛び越え、構内に侵入していた。
問題はここからだ。キャリー、沙織がどこにいるのか、わかるのなら教えてくれ。
キャリーは体育館裏に走っていった。僕も後を追った。
水銀灯に照らされて、そこに沙織が逍遥として横たわっていた。
制服はずたずたに引き裂かれ、顔や手足の肌が露出しているところには、無数のあざ─打撲傷が刻まれていた。
そして、素足の内腿からは、鮮血がひとすじ流れ落ちていた…それを見たとき、僕は心の中でブツンと何かが切れるのを感じた。
「沙織、無事か…」
僕はしわがれた声で囁いた。無事じゃないことは見ればわかる。
「信ちゃん…あ、あたし…やられちゃったよ…悔しいよ…」
「心配するな、仇は俺が取ってやる」
「無茶だよ、あたしだってかなわなかったんだよ、信ちゃんにかなうわけが…」
「まあ、とりあえず帰ろう。病院に行くか、家に帰るか?」
「家に帰る」
そう言うと沙織は気を失った。
僕は携帯でタクシーを呼び、沙織を乗せて叔母さんの家に送った。
「沙織…なんて姿に…」
沙織の姿を見た叔母さんは絶句した。
「いや、命に別状のある怪我ではない。しかし、沙織がこれほどまでに痛めつけられるとは…シノブ君、相手の姿は見たのか?」
叔父さんは(叔母さんもだが)武術の達人なので、沙織の怪我が見かけほどひどいものではないことを見抜いたが、娘の沙織が陵辱されていたことはショックだったようだ。
僕はもう、ショックを通り越してはらわたが煮えたぎっていたが。
「いえ、僕が駆けつけたときにはもう…でも、心当たりはあります。警察に通報しますか?」
「そ、それはちょっと…」
叔母さんはためらった。当然だ。娘が陵辱されたなんて、公に言える親はそうはいない。
「う、ううん…」
その時、沙織が気が付いた。
「沙織、大丈夫か?」
「沙織…」
叔父さん、叔母さんが声をかける。
「沙織、やったのは空手部か?」
「シノブ…うん…」
「どうやっておびき出された?」
「『早瀬菜希は預かった。返して欲しければ体育館裏まで来い』って…」
「…早瀬さんはそこにいたのか?」
「…ううん」
「電話とかで本人に確認してから行くだろ、普通。バカ…」
「…どうせバカだよ」
沙織は力無く笑った。
「叔父さん、叔母さん、このことは明日僕が学園当局に報告します。その後の処置は学園に任せましょう」
僕は落ち着いた口調で言ったが、内心は違っていた。
「ああ、そうだな」
「ええ、そうね。お願いするわ」
叔父さん、叔母さんも同意した。
僕はそれで自宅に帰った。
畜生、沙織を傷だらけにした上に沙織の純潔まで奪いやがって、このまま無事に済ませてたまるものか。空手部のやつらめ、いや、妖魔連合め。
僕の内心は憤怒の炎に燃えさかっていた。一方で冷静な心が囁いた。相手は柔術の達人、沙織をボロボロにしたほどのやつだ。何人がかりでやったか知らないが、僕の小学生レベルの柔術の力ではかないっこない…僕にも力があれば…魔導師の力が…どうしたら魔導師になれるんだ?
その時、不意に、僕は百合華さんの言葉を思い出した。
(力が欲しいときには私を呼びなさい…私が力をあげる…)
「百合華さん!」
僕は声に出して叫んでいた。
「呼んだかしら」
その直後、背後から声がした。
「ゆ、百合華さん…どうやってここに?」
背後には私服の姫野百合華が立っていた。
「君が呼んだんでしょう?私はその声に応えて来たまでよ」
百合華さんは謎めいた笑みを浮かべて言った。
「空間転移?」
「そう呼ぶ人もいるわね。でも、私を求める者のもとへはいつでも道は通じるのよ」
「百合華さん、でも何をしにここへ?」
「だから、君の求めに応じて来たと言ったでしょう?君は力が欲しいんでしょう?従妹の復讐をする力が」
「どうしてそれを?」
「あんなに強い思念で叫んだら、千キロ離れていてもわかるわ。特に君の心なら…」
百合華さんはまた謎めいた笑みを浮かべた。
「…それで、どうすれば、力を…儀式とか必要なんですか?」
「儀式…まあ、儀式と言えば儀式ね。簡単なことだけど…その前に、シャワーを貸してくれるかしら?」
「え、ええ…」
親父は今晩も出張中だった。百合華さんは勝手知ったる家のように浴室に入っていった。
「タオルも借りるわよ」
百合華さんの声が浴室から響いてくる。
「あ、タオルは洗面台の下の…」
「わかるからいいわ」
まもなくシャワーの水流の音が響いてきた。
やがて、百合華さんはなんとバスタオル一枚を纏っただけで浴室を出てきた。均整のとれたプロポーションがバスタオルの上からでもはっきりわかった。
「君も浴びてきなさい。これは儀式に必要なことよ」
百合華さんは威厳を込めて告げた。
「は、はい…」
(身を清めるのが儀式に必要なのかな?)
僕は呆然として百合華さんの言葉に従った。
脱衣場には、百合華さんの服が下着の一枚に至るまで残されていた。僕はなるべくそれを見ないようにしながら服を脱ぎ、浴室に入ってシャワーを浴びた。
服を着て、居間に戻ると百合華さんの姿はなかった。もしかして、また消えてしまったのでは?僕が不安になりかけたとき、声がした。
「こっちよ、シノブ君」
百合華さんの声は僕の寝室から聞こえた。
「百合華さん!」
僕が寝室のドアを開けると、百合華さんは僕のベッドに潜り込んで、肩から上だけを出していた。そして…ベッドサイドにはバスタオルが落ちていた。
「いらっしゃい…「儀式」を受けなさい…」
「は、はい…」
彼女の眼差し、彼女の微笑み、彼女の言葉には、これまで彼女から感じた中でも最大級の蠱惑が込められていた。僕は呆然としたままそれに従うしかなかった。僕はシーツを剥いで百合華さんの隣に滑り込んだ。白い裸身が露わになった。百合華さんが顔を近づけてきた。僕は生まれて初めて女性と口づけを交わした。
「口づけのように甘く…」ゲーテの詩が思い出された…
…我に返ると、いつの間にか百合華さんは服を着てベッドサイドに座っていた。僕を見下ろして、穏やかな笑みを浮かべていた。
「…僕は夢を見ていたんでしょうか?」
「いいえ。夢ではないわ。ただ魔法をかけただけ…」
「これが魔導師になるための儀式?」
「そうよ。必要不可欠なものではないけれど、君のような気が優しくて真面目な子には有効な…私が「チェリーボーイキラー」と呼ばれる訳がわかった?」
「いえ、百合華さんはやっぱり学園のマドンナです。百合華さんに魔法をかけられて、光栄です」
「ふふふ、ありがとう。では、行きなさい。今の君には何をなすべきか全てわかっているはずよ」
百合華さんは威厳のこもった口調で告げた。
「今から?でも、どこに行けば?」
「それは君の使い魔が教えてくれるわ」
「使い魔?」
「この猫。ヘテロクロミアのキャリコのオス。強力な魔力を持った使い魔よ」
いつのまにか百合華さんの腕の中にはキャリーが座っていた。
「あ、そう言えば、キャリーは沙織の居場所も教えてくれました」
「じゃあ、行きなさい」
「でも、あの、百合華さん、ちょっと居間に行っててくれませんか…その…服を着るまで」
「…もう、恥ずかしがるような仲じゃないでしょ」
百合華さんははにかんだ笑みを浮かべた。
玄関を開けると、キャリーはすかさず飛び出した。その後、どういう道を辿ったのかよく覚えていない。
電車に乗った記憶はないし、第一電車の走っている時間ではないはずだったが、僕とキャリーは気が付くといつの間にか慧傳学園の体育館裏にいた。瞬間移動したのかも知れない。
「ウゥー、フゥー」
キャリーが警戒感を込めたうなり声を発した。見ると、前方から数名の人影が近づいてくる。
「なんだ、早瀬ってスケじゃなくてヤローか…」
先頭の男が呟いた。
(こいつら、沙織をおとりに早瀬さんもおびき出そうとしていたのか…)
「空手部か?」
「それがどうした、お前こそ何モンだ?」
「沙織をやったのはお前達か?」
「沙織って言うと昨日やった合気道部の生意気なスケか?お前、ひょっとしてあのチビのヤローか?おう、あいつをやったのは俺達さ。だったらどうする?」
僕は腹の底からマグマのようなエネルギーが湧いてくるのを覚えながら言った。
「許さない」
数人の男達から嘲笑の波動が伝わってくる。
「ほう、どう許さないって?」
先頭の男が殴りかかってきた。僕はよけず、ただ意識に気を込めた。
(応じ返し…)
男の拳は僕に届かず、自分自身の顔面を殴りつけていた。男はその場に崩れ落ちた。
「や、野郎」
数人の男が立て続けに襲ってきた。僕は身動きもせず、男達の攻撃にだけ意識を集中した。数秒後。男達はあるいは自分の膝で顎を蹴り、あるいは股間を蹴り合って同士討ちをしたり、ともかく全員戦闘不能になった。
(おかしい…この程度の相手に沙織がやられるわけが…)
僕は勝利の高揚感とともに名状しがたい違和感を覚えていた。その時、キャリーが叫んだ。
「ギャアァゥゥアァァ…」
明らかな警戒音だった。その見ている先を僕も見ると、長身の人影がうっそりと暗闇から姿を現した。
「空手部主将、夏目勲だ」
長身の男は言った。
「お前が沙織をやった張本人だな?」
「そういうお前は皐月祭でも活躍した美術部の結城シノブだな。どうやら魔導師になったらしいが、あいにく俺も妖魔使いだ。しかもお前はまだ経験不足のようだな。俺に勝てるか?」
空手部主将の夏目は自信たっぷりに言った。
「沙織の仇は取る!」
僕は決然として叫んだ。
「それじゃあ、受けてみろ」
夏目は上段突きと中段蹴りのコンビネーションを放った。が、間合いが遠い。余裕で避けられる…と思った直後、衝撃が顔面と脇腹に走った。しまった…遠当て…沙織はこいつにやられたのか…
「この程度も避けられんのか…とどめだ!」
夏目が後ろ回し蹴りを放とうとした刹那。フラッシュが光った。光を浴びた夏目は動きを止めていた。いや、動けないのだ。
僕は背後を振り返った。黒輝、音無瀬、早瀬さん、そして沙織までもが間近に立っていた。
「お前達何で?」
「説明は後。早くとどめを刺しな!」
黒輝が叫んだ。
「そう言われても、俺、攻撃魔法はまだ…」
「えーい、菜希、結城君にヒーリング!」
音無瀬が叫ぶ。
「は、はい…えい!」
全身に波動が走り、見る間に痛みが引いていくのがわかる。
「うおりゃー!」
夏目が硬直を無理矢理振りほどいた。
「ちぇっ、まだこの程度が限度か…」
黒輝が呟く。
「結城君、下段左蹴りから中段右正拳突き!」
音無瀬が叫んだ。敵の攻撃を予測しているのだ。
僕は、
「応じ返し!」
と叫んで、夏目の遠当てを跳ね返した。
夏目は己の打撃を打ち返されてぐらついたが、まだ致命傷にはほど遠い。
「シノブ、どいて、あたしがケリをつける!」
沙織が前に出てきた。
「沙織、まさか、お前も…?」
「こいつなんかにもう負けない」
「…わかった、自分の仇は自分で取れ」
僕は沙織の後ろに下がった。
「…なんだ、昨日のチビか。また返り討ちにしてやる!」
夏目がまた遠当ての距離で構える。
「結城さん、正拳二段突き、左膝蹴り!」
音無瀬が叫ぶ。沙織が遠当てをかわし、夏目の体を念動で持ち上げると後ろに放り投げた。
夏目の体は常人の力では不可能な距離を飛び、体育館のコンクリート壁に叩き付けられて落下した。夏目は夥しい血を喀血して、ひくひくと痙攣した後、動かなくなった。
「こんなやつ、首をへし折ってやる」
沙織はなお怒りが収まらず、夏目に近づいた。
「あ、おい、沙織、やめろ!」
僕は叫んだ。
「こんなやつ死んだ方がいいのよ!」
沙織が、夏目の頭に足を乗せた刹那、
「それまで!」
男の声が聞こえた。声がした方を見ると、合気道部の顧問、西先生、空手部の顧問、東先生、そして南波先生が立っていた。声を発したのは西先生だった。
「セクト争いとはいえ、学園内で死人を出すわけにはいきません」
南波先生が言った。
「今回の件は空手部の非を一方的に認め、ギルドの行為は全て不問に付す。それでどうだね、姫野君?」
東先生は途中で後ろを振り向いて言った。背後には、白いフクロウを肩に止まらせた、百合華さんが立っていた。
「結構です。沙織さんには気の毒なことをしたけれど、連合は妖魔使いがひとり大けがをし、我々ギルドは新たに五人の魔導師を得ました。林檎祭に備えるには十分な収穫です」
「百合華さん、どうしてここが?」
僕は百合華さんに尋ねた。
「私の使い魔に探してもらったのよ」
「使い魔?」
「この白いフクロウ。名前はミネルヴァ」
「私達も白いフクロウの行く先にシノブがいるって姫野さんに聞いて来たんだよ」
沙織が言うと、黒輝、音無瀬、早瀬さんが頷いた。
「僕だけでなく、沙織、黒輝、音無瀬、早瀬さんも魔導師になったってことですか?」
「そういうことね。きっかけはそれぞれだけど。沙織さんは暴行を受けたことで。黒輝さんはカップを受け取った時には既に。音無瀬さんはテストで。早瀬さんはティーカップの件で」
百合華さんは説明した。
「では、教えてください。魔導師になったら教えてくれる約束でしたよね。林檎祭とは何なのか、セクトは何のために争うのかを」
僕は百合華さんに皐月祭が終わって以来の疑問をぶつけた。
「それには私が答えよう。審判者のひとりとして」
「西先生…」
僕たち一年生五人が驚きを込めて西先生を見つめた。いつも温厚な西先生が威厳に満ちた口調で話し始めたからだ。
「少し長い話になるのを許してくれたまえ。まず、そもそも慧傳学園がどうやって作られたかだ。君たちはユダヤの『失われた十八氏族』というのを知っているかね?」
「たしか、日本に渡ったとか言われている氏族ですね」
音無瀬がさすが読書家らしく、答えた。
「そうだ。確かにその氏族は日本に渡り、この慧傳町に住み着いた。というより、彼らが住んだところに慧傳町が出来たと言うべきだろう。
ところで、彼らはここに重大なものを運んできた。旧約聖書の創世記で、アダムとエヴァは智慧の木の実を食べて楽園を追放された。ところが、世界の中心の木はもう一本あった。生命の木だ。智慧の木の実を人間に食べられた神は、アダムとエヴァを楽園の東に追放し、生命の木は炎の剣と第二位の天使ケルビムによって守護されることになった。なぜかわかるかな?」
「それは…ふたつの実を食べたものは無限の叡智と永遠の生命とを得、神と等しい存在となるから…」
また、音無瀬が答えた。こいつ、旧約聖書まで読んでるのか。
「その通り。神は人間が生命の木の実までも食べて自らと等しい者となることを恐れたのだ。ところが、失われた十八氏族はケルビムの目を盗んで生命の木の枝を接ぎ木し、この地に持ち込んだ。その苗は数千年の時を経て巨木に成長した」
「あ、それじゃ、中庭のあの木が!」
黒輝が叫んだ。
「その通り。だが、神から「生命の木」の管理を委ねられた我々「審判者」は「生命の木」が容易に人の手に触れないように守護者として炎の剣とケルビムを置き、慧傳学園をその周りに造り、結界を作った。『慧傳学園』とは文字通り『エデンの園』なのだ。
しかし神は、人間にもう一度『生命の木』の実を取る機会を与えることにした。それが年に一度の『林檎祭』だ…」
「あの…『審判者』って何ですか?」
僕は質問した。
「よろしい。『審判者』とは、セクトの争いを裁定するために神より託された人間で、この学園では仮に教師を務めている。旧約聖書やミルトンの『失楽園』によれば、人間は悪魔の誘惑によって智慧の木の実を食べたとされるが、本来人間達は、『中心の木の実』を求め争い続けてきた。
この学園では各セクトがその代理として生命の木を争っている。神は年に一度、『林檎祭』の時半日だけ、中庭を解放し、生命の木の所有権を争わせる。人間をさらなる進歩に導くために。
しかし、慧傳学園創立以来生命の木の実を得た者はいない。それでも、『林檎祭』は毎年続く。いつになったら終わるのか、我々もわからない…」
西先生は言葉を途切らせた。
「私の話はここまでだ。では、諸君の健闘を祈る」
その時一陣の風が吹いた。風がやんだとき、先生方の姿は既にどこにもなかった。空手部の姿もなかった。
「百合華さん、僕たち魔導師はギルドが林檎祭で勝つために、養成されたってことですか?」
僕は百合華さんに尋ねた。
「まあ、そうね。あなた達には林檎祭まで魔導師としての訓練をしてもらうわよ。あなた達の力は、今はまだ連合の妖魔使いひとりを五人がかりでやっと倒しただけに過ぎないんですからね」
「姫野先輩が教えてくれるんですか?」
黒輝が百合華さんに尋ねた。
「いいえ。魔導師総代の私にそんな暇はないわ。卒業生の魔導師達がそれぞれ特訓してくれるはずよ」
「でも、僕は別に、空手部に復讐出来れば、林檎祭なんて…」
僕は、まだ気乗りがせずに百合華さんに言った。
「林檎祭に勝てば、全ての願いは成就されるわ。あ、そうだ。林檎祭が終わったら、次の魔導師総代にはシノブ君になってもらうつもりだから、承知しておいてね」
百合華さんは付け加えた。
「ええっ、僕、まだ一年ですよ!出来る訳ないでしょう?」
僕は愕然として言った。その無茶さは秋山先輩の比ではない。
「大丈夫。林檎祭で勝てば、セクトも永久に消滅して、魔導師総代もなくなるわ」
百合華さんは気楽に言い放った。百数十年勝てなかったものが、今年勝てるとは僕には到底思えなかったが…
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