第六章 皐月祭

 皐月祭の日が近づいていた。


 僕は毎日百合華さんの絵の制作に励んだ。一方で、渓川さんの出演する軽音の見学にも時々足を運んだ。


「実は彼女の曲、俺が編曲するつもりだったんだが、彼女、バンドの演奏一度聴いただけで楽器の音色覚えちゃって、彼女の編曲の方が俺が聴いてもいいんだよな。

 それに、彼女、他の曲にもピアノとバックコーラスで参加してくれる予定なんだ」

 と、寺内先輩は説明した。


「はあ、そうですか」

 僕はあいまいに答えておいたが、内心は、

(シンガーソングライター&アレンジャーか。すごい才能だな)

 と、舌を巻いていた。


 百合華さんは雑務がますます忙しく、話をする機会はなかなか無かった。


 美術部では、三年生の萩尾部長と小野寺先輩は、部員としての最後の制作として、いっそう力が入っていたが、一、二年生もそれぞれ少なくとも一点以上は出品するという目標は達成できそうだった。


 そんな中で、僕の作品は誰の目にも曝されることなく、静かに完成を迎えた。


 僕は皐月祭前日、その絵を額に納めて机に置き、確かに鍵をかけて資料室を出た。

 やれることはやったという満足感があった。


─そして、皐月祭の初日が来た。僕は時間通りに学校に行き、美術室に向かった。


あれ、やけに廊下が混んでいるぞ。ちょっと、通してくれないかな。あれ、この先に人が集まるような出し物があったっけ?


 反対方向から人混みをかき分けて、一年の美術部員廣瀬さんがやってきた。


「ああ、廣瀬さん、何この人混みは?そろそろ最終チェックをしなければいけないんだけど」


「結城君、それが大変なのよ、部長が部屋の鍵を開けた途端に人が雪崩れ込んで…」


「何、うちの部にそんな人を集めるようなものがあったっけ?」

「姫野先輩の絵よ!あれ、結城君が描いてたのでしょう?」


「まさか、あの絵は僕が朝一番に飾ろうと思っていて、資料室の鍵もここにある!」

 僕は行列を押しのけて遮二無二前に進もうとした。


「おい、順番とばすなよ!」

 と、途中で罵声を浴びたが、

「美術部のものです。通してください!」

 と、叫びながら何とか美術室にたどり着いた。


 美術室の中も見学者—と言うか物見高い見物人で一杯だった。僕の絵—百合華さんの絵は?


「立ち止まらないで順路に沿って前に進んでください!」

 と、小野寺先輩が叫んでいた。


 僕は生徒の一番密集している場所に強引に割り込み、ようやく壁に突き当たった。


 百合華さんの絵が飾られるはずだった場所、そこには…百合華さんの絵が間違いなく飾られていた。


 それは確かに僕の描いた絵に間違いなかった。"Sinobu"のサインもある。

 ふと見ると、足下には萩尾部長がへたり込んでいた。


「部長、あの絵、部長が飾ったんですか?」

 僕が聞くと、部長は無言で首を横に振った。


 じゃあ、誰が?合い鍵を持っているのは山内先生だけのはず。でも先生がやるとは…あ、百合華さん!彼女は鍵も開けずに資料室に忍び込んだ。


「魔導師総代」と称する彼女なら。でもなぜ、何のために?


「部長、とりあえずこの喧噪から脱出しましょう」

 僕は、頷く萩尾部長の手を取って立たせた。


 それから僕たちは順路を回って、声をからして叫んでいる小野寺先輩にも声をかけ、廊下に出て、壁沿いに行列を逆行して下階に降りた。


 廣瀬さんは途中で僕たちに気付き、ついてきた。他の部員の行方は知れなかった。


「構内放送してみましょう」

 小野寺先輩が言った。


「でも、美術室が無人と知れたら泥棒するやつがいるかも。特に姫野先輩のなんか…」

 廣瀬さんが言った。


「こんな人混みで盗むやつもいないだろう」

 僕は答えた。


「じゃあ、絵夢、どこに集まる?」

「げ、げ、玄関」


「そうね。正面玄関なら出て来る怪しいやつもチェックできるし。放送室に誰か行ってくれる?」


「僕が行きます」

 僕は放送室に向かって駆け出した。


 やがて、構内放送が流れた。

「連絡します。美術部員は正面玄関前に集合してください。繰り返します…」


 三十分後、美術部員八人は無事に集合することが出来た。


「何が起こったの、いったい?」

 最初に駆けつけた秋山先輩が尋ねた。


「私が来たときにはもう通路が人で一杯で、一歩も前に進めなくって…」

 葉山先輩が言った。


「私も列に並んで待ってて、隣の男の人に聞いたら、美術室に姫野先輩のヌードが展示してあるから見に行くんだって…本当なの?秘密の絵ってそれのこと?結城君?」

 美術室にたどり着けなかった榊原さんが僕に聞いた。


「嘘だよ!…姫野先輩の絵なのは本当だけど…」


「あはは…私、寝坊して今来たとこ」

 最後に来た室伏先輩が頭を掻いた。


「このぼけっ、肝心の日に遅刻してどうする!?」

 秋山先輩が室伏先輩の頭をこづいた。


「何かあるわね…どうもこの件には作為を感じる…結城君が来る前に絵が飾られていたのももちろん不思議だし、百合華の絵だってことも、あんなに秘密にしていたのに開門と同時に人が殺到して来たってことは、その前に既に知られてたってことだし、ヌード云々は噂に尾ひれが付くよくあるパターンだけど…」


 それまで黙って考え込んでいた小野寺先輩がいぶかしげに腕を組んで言った。。


「絵夢、あなたはどう思う?」

「そ、その、ぷ、ぷ、プログラム」


「ああ、プログラム?そうだ!今日の今の時間帯の講堂の演目は?」

 小野寺先輩がみんなに聞いた。すかさずプログラムを取り出した秋山先輩が答えた。


「九時半から3Bの「夕鶴」です」

「その前は?」


「九時から…音楽部!」

「音楽部ですって?!」

 小野寺先輩が愕然として聞き返した。


「は、はい…」

 秋山先輩も釈然としない様子で答えた。


「ひょっとして…これは音楽部の発表を妨害するために誰かが仕組んだことでは…」

 僕はおそるおそる口にしてみた。


「う、うん…」

 萩尾部長が頷いた。


「まさか、誰が、何のために?だいたい、初日の朝の発表っていうのは普通でもがらがらよ。去年もそうだったもん」

 室伏先輩が反論した。


「それに、音楽部の発表は三日目の午後にもありますよ」

 プログラムを見た廣瀬さんが指摘した。


「うーん…」

 みんなは考え込んだ。


 その時、目の前に寺内先輩が現れた。

「おい、結城、顔貸せや」


「あ、寺内先輩、何でしょうか?」

「まあ、いいから、来い」


 僕は軽音の部室につれて行かれた。

「失礼します」


 やかましい楽器の音が響いてくる部室に挨拶して入ると、キーボードを弾いていた渓川さんが僕に気が付きにっこり笑って挨拶してくれた。


「こんにちは、結城君。美術部大変なんですって?」

「ええ、それがもう、なにがなにやら…」


「いづみちゃんはいいから、俺の話を聞けって」

「は、はい…(「いづみちゃん」なんて馴れ馴れしいな。僕の方が先に知り合ったのに…)」


「俺はさっきまで生徒会室に呼ばれてたんだけどさあ…」


 先輩が生徒会室で聞いた話とはこうだった。


―九時四十分頃、生徒会室に音楽部部長春日駿輔が怒鳴り込んできたという。


「何の用ですか?」

 生徒会長、姫野百合華さんは落ち着いて答えた。


「び、美術部のせいでうちの発表は滅茶苦茶ですよ!」

 春日部長は怒髪天を突く勢いで叫んだ。


「まあ、どうして?美術部が音楽部の妨害でもしたというの?」

「そうです!美術部が強引な人集めをしたおかげでうちの発表中、聴衆はたったの三人しかいなかったんですからね!」


「美術室に人が集まっているという話は聞いていますが、別に不当な集人行為をしているとは聞いていません。音楽部は何を要求したいのですか?」

「こうなったら、もう一回発表の追加を要求します」


「音楽部はあと一回発表の予定が入っているじゃありませんか?」

「さらにもう一回の追加を要求します。さもないと面目が立ちません!」


「そうねぇ…スケジュール的に無理ではありませんけど、ひとつの部だけが三回も発表を行ったのでは他の演目との兼ね合いがちょっと…そうだ、他の演目の代表者を集めて追加発表を希望する演目にはそれを認めることではどうですか?冬野君、並木君もそれでいいかしら?」


「原因はともかく、確かに音楽部は美術部の影響を受けたかも知れませんが、まあ、いいでしょう」


「希望する出し物があるなら、結構です」

 副会長の冬野大地、書記の並木静夫も結局同意した。


「…わかりました。では、うちの追加発表の時間は?」

 春日部長は二日目の午前十時を取って行った─と、ここまでは寺内先輩からのまた聞きだ。



「それで、他の演目の代表者がさっき集められて、追加発表を希望するか聞かれたんだが、希望者は三人だけだった。俺はもちろん希望したさ。で、希望時間を聞かれたんだが、うちは三日目の午後二時半に入れてもらった」


「せ、先輩、三日目は午後三時で皐月祭は終わりだから、それってぎりぎり最後の時間じゃないですか!」


「そうさ。その日は二時から音楽部の三回目が入ってるのさ。あいつらトリを取るつもりだったからな。こっちは大トリをいただきよ。それから俺たちの初回は今日の午後三時だけど、俺は今日はいづみちゃんの歌は出さねぇつもりだ」


「ええっ!どうして?渓川さんメインで行くって…」

「もちろん、ピアノとバックコーラスはやってもらう。彼女はそれだけでも存在感あるからな…いづみちゃんの歌は最終日のラストステージでバーンと、フルコーラス歌わせるのよ」


 寺内先輩はにやりと笑った。


 まさか…もし、もしもだが、美術部の騒動を仕組んだのが百合華さんだとしたら、ここまで見越してのことだったのだろうか?でも、僕も期待に胸が熱くなるのを感じた。


「あの…先輩」

 後ろで話を聞いていた渓川さんがおずおずと話しかけた。


「ああ、なんだい、いづみちゃん?」

「本当に新参者の私がメインでいいんですか?引退して行く先輩方を差し置いて…」


「心配するな、いづみちゃんと一緒に演奏できるだけで一生自慢話の種にならぁ」

「そ、そんな大それたこと、私…」


「僕も音楽は素人だけど、渓川さんの歌はきっと多くの人を感動させると思います」

「ありがとう、先輩、結城君にもお世話になって…私、精一杯やります。本当にこの数日、音楽がこんなに楽しいって感じたの私初めてで…」

 渓川さんは涙ぐんで言った。


「ほら、それより、アンコールの歌間に合わせてくれよ。必ずやるからな。俺たち徹夜で練習するからさ」


 寺内先輩は小柄な渓川さんのおかっぱ頭を優しく撫でた。そうか、さっきのキーボードはアンコール曲の作曲中だったのか…


「お前も聴きに来てくれよな。最終日は絶対だぞ」

「はい、二日とも必ず聞きに行きます」

 と、答えて僕は軽音の部室を後にした、


 十一時過ぎ、百合華さんのヌード、という情報がデマだとわかったためか、美術部の混雑は次第に引いていった。


 しかし、姫野百合華のテニスウェア姿しかもパンチラ(本当は違うけど)という確定情報が広まって、人だかりが絶えることはなかった。


僕たちは所定の配置に着くことが出来た。僕は部員の作品を印刷した、絵はがきの販売を担当していた。


「なあ、姫野先輩のあの絵のはがきはないのかい」


「あいにくですがありません(昨日完成したばかりだし、出来ても絶対作るもんか)」

 と、いう会話が何度となく交わされた。


 それから、小野寺先輩や秋山先輩の、

「写真撮影はお断りしまーす」

 と、いう再三の呼びかけにも関わらず、百合華さんの絵を写真に撮る観客が絶えなかった。


 昼前、山内先生が部屋に入ってきた。先生は僕の絵をしばらく見つめてから、部屋の奥に歩を進めて言った。


「遅くなってごめんなさい。今朝は大変なことがあったそうね。でも、大事に至らなくってさいわいだったわ。まだ皐月祭は二日半あるわ。みんな頑張ってちょうだい」


 それから先生は僕の前に来て、

「完成作、今初めて見せてもらったわ。立派な出来よ。自慢していいわ」

 と言って誉めてくれた。


「あ、ありがとうございます。でも、今朝、僕の絵を飾ったのはひょっとして先生じゃないんですか?」


「まさか。教師にそんな権限はないわ。結城君こそ鍵の管理はしっかりしてたの?」

 と先生は聞き返した。


「もちろんです」

「だとすると…」


 先生は少し考え込み、何か思いついたようだったが口には出さず、

「…まあいいわ。また見に来るわ。みんな無理せず頑張ってね」

 と、言い残して去った。

 

 お昼前、萩尾先輩が言い出した。


「あ、あの、お、お昼だから、み、みんな…」

「ああ、そうね。お昼は交替で摂りましょう。途中休憩したい人はあらかじめ申し出て」

 と、小野寺先輩が通訳した。


「あの、すみませんが、今日の午後三時から三時半と、三日目の二時半から三時は抜けさせてください。お願いします」

 と、僕は申し出た。


「残念ね。その時間は交替は出来ないの」

 小野寺先輩が悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。


「ええっ、そんな…」

 僕は大いに失望した。渓川さんの歌が聴けないなんて…


「なぜならその時間は、美術部は部屋を閉めて、全員で講堂に軽音の発表を聴きに行くからよ!」

 秋山先輩が溌剌として叫んだ。


「うん」

 萩尾部長も笑って頷いた。


 僕は昼飯に前庭でテニス部の屋台で買った焼きそばをつついていた。そこに道着を着た沙織が通りかかった。


「どうした、沙織、お前も昼飯か?」

「あ、うん、まあね…」


「どうした?元気ないぞ」

「実は…さっき試演で受け手に選ばれたんだけど…捕り手の先輩を思わず投げちゃって、今日は出なくていいって…えへへへ」


「しょうがないやつ…そうだ、暇なんなら三時から講堂に行かないか」

「講堂…何やるの?」


「軽音の発表」

「軽音?あたしは好きじゃないな。ロックとかでしょ?」


「渓川いづみが出るんだ」

「いづみ先輩が?うそー。どうして?」


「軽音に移籍したんだ」

「…初めて聞いた」


「でも、今日はまだ顔見せだけだ」

「今日は、ってことは?」


「あさっては彼女のオンステージだ」

「行く。場所取りしといてよ」


 そう言って、沙織は歩き去った。


 その日の午後三時の講堂。場内は七分の入り。僕たち美術部の八人に沙織を加えた九人は、中央の特等席に並んで軽音の登場を待っていた。


 軽音楽同好会というのが正式名称だが、実質はロックバンドである。


 大多数の生徒からは不良の集団のように思われているらしいが、現リーダーの寺内先輩を筆頭に、ガラは悪いし勉強は出来ないが、気さくで人の良い人達ばかりだ。


 その中に入って、渓川さんがどんな個性を発揮するのか興味があった。


 三時三分、幕が上がり、演奏が始まった。いきなり寺内先輩のリードギターの早弾きに合わせて渓川さんもピアノを早弾きする。


 セカンドギター、ベース、ドラムス、キーボードが加わり、先輩は歌い始めた。やがてバックコーラスに紅一点の渓川さんの声が加わる。


 場内からどよめきが湧き起こる。

 

 三曲立て続けに演奏した後、先輩は挨拶を始めた。


「みんな、今日は俺たちの演奏に付き合ってくれてありがとう。ここでメンバーを紹介するぜ、リーダーでメインボーカル・リードギターはこの俺、寺内隆二。セカンドギター・コーラス、越智健。ベース、高松貞彦。ドラムス、三沢敏。キーボード・コーラス、鈴本彰。

…そしてピアノ・コーラスは俺たちの紅一点、渓川いづみだ!」


 渓川さんはふっと立ち上がり、ひょこりとお辞儀した。


 渓川さんが紹介された瞬間、聴衆から大歓声が起こった。歓声が収まるのを待って、寺島先輩が先を続けた。


「ここでみんなに言っておくことがある。あさって、俺たちはもう一度ステージをもらった。あさってのステージのメインヴォーカルは渓川いづみだ!みんな楽しみにしてろよ!」


 さらに大きな拍手と歓声がステージを包んだ。


 その後さらに三曲先輩達は演奏を続け、惜しみない拍手を浴びて軽音の初日の演奏は終わった。


「紗織、どうだった?」

 僕は右隣の紗織に感想を聞いてみた。

「うーん、いづみ先輩カッコよかったなぁ…」


「あさっては、全部渓川先輩の作詞作曲編曲ヴォーカルだぜ」

「あさってがますます楽しみだね…」


「あさっては席取りが難しくなりそうですね」

 僕は左隣に座っている秋山先輩に言った。


「そうね。気に入らないけど、前の音楽部の時から席取りするしかないか」

「それでも遅いかも知れませんよ」

「じゃあ、午後は全部つぶして陣取りだ!」


そして、僕たちは美術室に戻って展示を再開した。


 四時過ぎ、佐伯祐二がやってきた。

「なんだ祐二、遅かったな」


「いや、それが天下の生向委としたことが出遅れてしまってな、『美術部に姫野先輩のヌードが展示されている』って情報が入ったのが午前九時に学校に来てからで、慌てて並んだんだが、他校の生徒も含めてぎっしり埋まってて、十時過ぎ、ガセネタだって情報が入って引き返したんだが、『パンチラ』って再情報が入って昼過ぎに見に来たら部屋は閉まってるし、それでやっと見に来たってわけさ。

 でも、パンチラだけでも姫野さんのじゃ生唾もんだよな。な、あれもとは写真から起こしたんだろ?」

「そ、それがどうした?」


 僕はいやな予感を感じて聞き返した。


「あれの生写真のデータ持ってるんだろ?譲ってくれよ、いや、売ってくれよ。ブロマイドにしたら飛ぶように売れるぜ」


「持ってない。もうデータは消去した」


「嘘つけ、一枚ぐらいプリントしてあるんだろ?」

「ない。デッサンの参考にプリントしたけど、もう焼却炉で燃やした。そういう約束なんだ」


「ちぇ、じゃあ、やっぱりこれを撮って我慢するしかないか…」

 そう言って祐二はコンパクトデジカメを取り出した。


「作品の写真は撮らないでくださーい」

 廣瀬さんの言葉を無視して佐伯はフラッシュを光らせ、足早に歩み去った。


 午後五時、皐月祭初日は終わった。


 皐月祭二日目は静かに過ぎて行った。


 秋山先輩の情報によると、メインピアニストの渓川さんの抜けた音楽部は二回目の発表でピアノが大ミスをし、聴衆の失笑を買ったと言うことだった。


 そして三日目、皐月祭最終日。僕たちは展示を午前中で切り上げ、みんなで食事をした後、午後はずっと講堂に詰めていた。


 やがて二時過ぎ、音楽部の発表の順になった。会場は既に超満員。現れた指揮者の部長、春日駿輔は尊大そうな顔に満足そうな笑みを浮かべていたが、超満員の原因が音楽部の演奏が目的ではないことを、僕は悟っていた。


 二時二十分頃、扉を開けて沙織がずかずかと通路を入ってきた。僕の右側の席に座ると、

「よかったぁ、間に合った」

 と、大声で言った。


「しっ、大声出すな、つまみ出されるぞ」

 と僕は注意したが、聴衆から非難の声は上がらなかった。


 その直後、ピアノがミスしたが聴衆はほとんど関心を払わなかった。


 音楽部の発表が終わった後、おざなりの拍手が湧いた。春日部長は不機嫌そうな顔で礼をして、舞台を去った。


 扉が開くと、さらに大量の聴衆が流れ込んできた。もちろんもう座る席はない。立ち見だ。講堂はぎっしりと隙間なく人で埋め尽くされた。


 …そして二時三十五分、幕が開いた。バンドのメンバーが黙礼をすると、寺内先輩がマイクを取った。


「待たせたな。これが俺たちのファイナルステージ、そして渓川いづみのオンステージだ!いくぜ!」

「ワオウゥー!」


 講堂全体が震えるほどの大歓声が応じる。その余韻が消えないうちに前奏が始まった。


 僕たちは一度聞いた「いづみさんの歌」。しかし、これはさらにバンド用のアレンジバージョンだ。


 いづみさんの歌が始まる。先輩達のコーラスがカバーする。ピアノに合わせてバンドの各楽器が繊細に雄大にメロディを、リズムを奏でる。聴衆は息を呑むのも忘れて聴き入っていた……そして、やがて後奏が終わりを告げた。


 万雷の拍手と歓声。いつまでも続くそれを寺内先輩が手で制して止めた。


「みんな、ありがとう。今日の主役、いづみちゃん、ひとこと」

「え、あ、えと、ギルドの皆さん、会場の皆さん、私に歌う機会を与えてくださってありがとうございました。私、一生今日のことは忘れません!さようなら!」


 拍手の中、幕が下りていく。やがて拍手に「アンコール」のかけ声が加わり次第に大きくなっていった。


 幕が再び開く。彼女にスポットライトが当たる。彼女が叫ぶ。

「ワン、トゥー、ワントゥースリーフォー!」


 今度はアップテンポな曲が始まった。聴衆は曲に合わせて拍手する。彼女の出来たばかりの新曲だ。今度の曲はコミカルにリズミカルに彼女の違った側面を表現していた。


「ありがとう、いづみちゃん、君と歌えて俺たち幸せだったぜ!」

 寺内先輩の声の後、ふたたび幕が下りた。


 しかし、聴衆の拍手と「アンコール」の声は鳴りやまない。


 その時。


「午後三時になりました。全生徒は片づけに入ってください」

 と、構内放送が入った。


 しかし、それでもアンコールの拍手は鳴りやまない。


 無理だ。もう皐月祭は終わったんだ。解散するしかないんだ…と思ったとき、再び幕が上がり始めた!


「ありがとう、もう一曲だけ歌わせてくれるそうです。私の一番歌いたかった歌を歌わせてください。皆さんも一緒に歌ってください。他校の方には申し訳ないけれど」


 渓川さんはそう言って前奏を弾き始めた。


「あ…」

「うちの校歌…」

 僕と沙織は呟いた。


 そしてこれまで聞いたこともない我が校校歌の大斉唱が始まった。その中でも、マイクを通して響く渓川さんの伸びやかで澄み渡った声は印象的だった。


(歌だけでもこれだけ人の心を動かせる…これも魔導師の力なのか…?)

 僕は自分にもこんな力が持てるのだろうか?と疑問に感じていた…


 こうして皐月祭は終わりを告げた。

 しかし、次の週に出た新聞部の皐月祭特集号には軽音と渓川さんのことは一行も触れられていなかった。

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