第五章 いづみの歌
第五章 いづみの歌
月曜の朝、僕はキャリーの鳴き声に起こされた。居場所は段ボールから、沙織に借りたキャリングケースに替わっている。
(腹が減っているのかな?)
昨日、沙織に教わったとおり、ミルクに離乳食を混ぜてくれると美味しそうに食べた。
僕は自分の朝食の準備をすることにした。
湯を沸かし、パンをトースターに入れると、コーヒーをミルで挽く。ドリッパーに入れてお湯を注ぐとかぐわしい香りが立ち上る。
「いい匂いだな」
その時、寝室から出てきた親父が言った。
「あ、父さん、昨日帰ってたんだ。気付かなかった…あ、これ」
僕はカフェ・ノワールで買ったジャスパーウェアを差し出した。
親父は昨日まで与論島に行っていたので、まだ渡していなかったんだ。
ちなみに親父は一年中南の島に行っているので、真っ黒に日焼けしている。うらなりびょうたんみたいに蒼白い僕とは大違いだ。
「おお、どこで買った?」
「カフェ・ノワールで、マスターから直接。五千円だったよ。市価だって」
「そんなに安いのか?昔はたしか一万円以上したと思ったが…まあいい」
「コーヒー入ったよ」
「おお、早速もらおうか」
僕はふたつのカップに均等にコーヒーを注いだ。
親父と朝飯を一緒に食べるなんて年に数回あるかないかだ。僕には母親の記憶はほとんどない。
小学生くらいまでは叔母さんの家で沙織と一緒に朝食を食べさせて貰っていたが、中学くらいからは自分で作るようになった。
たいていはパンとコーヒーか紅茶だけの粗雑な食事だが。
「パンとケーキがあるけど」
「俺が甘いもの苦手なのは知っているだろう?」
「白籏さんちのなんだけど」
「なに?どこで買った?」
「慧傳町のフレーズ・ルージュ。『佳帆さん』って奥さんにも会ったよ」
「どれ、ひとつ見せてみろ」
「はい、これが店のオリジナル、「フレーズルージュ」」
「これが白籏のケーキか…佳帆ちゃんはいちごが好きだったからなぁ…」
「それから、奥さんが父さんに会いたいって言ってたよ…あっと、カフェ・ノワールのマスターも」
「そうだな…そのうちに…暇を見て…」
親父はフレーズ・ルージュを丸一個平らげた。
自分の食事を平らげたキャリーが親父の足下にすり寄って甘えた。
「なんだ、この猫どうした?」
コーヒーを飲み干した親父はキャリーを抱き上げた。
あれ?キャリングケースに入れておいたはずなのに、ドアを閉め忘れたかな?
「昨日拾ったんだ。飼ってもいいでしょ?」
「ほう、珍しいな、金目銀目の三毛か…お前が世話するんなら別にいいが…」
「昨日、沙織に少し習ったよ」
「そうか、美佐枝は昔から猫が好きだったな」
「あと、その仔、オスだって」
「なに、オスの三毛?…確かにそうだな…確かオスの三毛は舟に乗せると舟が沈まないと言って漁師が珍重するそうだが…本当に捨て猫かこいつ?」
「そうだよ、『誰か拾ってください』って張り紙して家の前に置いてあったんだから」
「…まあいい。今日は東京のスタジオだ。お先に…」
親父は車で出て行った。
僕も身支度を調え、沙織の家に寄って学校へ向かった。
「なあ、合気道部って何やるんだ?」
駅への途中、僕は歩きながら沙織に聞いた。
「ん…皐月祭?道場で試演」
「ありがちだなぁ…」
「屋台とか喫茶店よりましでしょ」
「まあな」
その日は何ごともなく終わった。
僕は火曜日の放課後、クラス委員会でまた百合華さんに会ったが、百合華さんは忙しいのか、僕にちらと目配せしてかすかに微笑んだだけだった。
下校後、僕は駅前の瀬戸物屋で大きな土瓶を買った。茶こしも買った。
水曜日の朝、今日はコーヒーではなく、フレーズ・ルージュで買った紅茶を淹れた。今日も親父はいるが、寝坊している。起こさない方がいい。
(普通の茶葉は一杯につき茶さじ一杯くらいとポット一個にもう一杯…一杯分だと二杯か…お湯は熱湯、ただし沸かしすぎないこと…時間は普通は三分くらい…)
麻帆さんに借りた本の解説を反芻しながら、僕は淹れた。急須は家にあった二~三人用の小さいやつ。
もちろん、今日からの美術部のティーブレークの予行演習だ。
ジャスパーウェアに注いだ。カップの地色が空色なので、水色はよくわからないけど、ちょっと濃いような…味見してみる。
やっぱり濃いぞ。
その時、親父が起きてきた。
「なんだ、今日はコーヒーじゃないのか?」
「こ、紅茶なんだ。今淹れるよ」
僕はカップのお茶を湯呑みに戻し、電気ポットのお湯で適当に割って二杯に分けた。
「…どう?」
「ちょっと薄いかな」
「そう?」
その日の放課後、僕は土瓶と茶こしと茶葉とティーカップと、昼休みに購買で買った牛乳パックを持って美術室に入った。
「こんにちは」
「こんにちは…なにそれ?」
「まさかそれが結城君のモチーフ?まさかね」
僕は既に来ていた一年生の反応を無視して、萩尾先輩に向かって言った。
「あの、今日のお茶は僕が淹れます。お湯だけ沸かしておいてください」
「え、ええ」
それから僕は三時二十五分頃まで作画に没頭した。アラームに知らされて、僕は資料室を出て、土瓶にセイントジェイムスを茶さじで計って入れた。
「あら、結城君、今日はリーフティー?」
「先生、リーフティーって何ですか?」
「ティーバッグじゃなくて、茶葉から入れる本式の紅茶よ」
今日は山内先生も入れて九人。今朝の失敗があるので、九杯で止めた。九杯も十杯もあまり変わらないと思うけど。
お湯を入れて三分。めいめいのカップを集めて回し注いでいった。
「あら、結城君のカップ素敵」
榊原さんが言った。
「ジャスパーウェアね」
山内先生が答える。
「先生、ジャスパーなんとかってなんですか?」
廣瀬さんが尋ねる。
「イギリス最大の陶磁器メーカー、ウェッジウッドの代名詞的製品よ」
陶芸にも造詣がある、彫塑が得意な葉山先輩が興味深げに覗き込んでいる。
ジャスト三時半。
「出来ました。お好みでミルクと砂糖を使ってください」
「ちょ、ちょっと、ま、待って…」
萩尾先輩が言いかけた。
「どうしたの?絵夢」
小野寺先輩が何ごとかを察した。
萩尾先輩は荷物の中から包みを取り出した。
「あ、萩尾部長のケーキね!」
秋山先輩が叫んだ。
「でも、どうして今日突然?」
葉山先輩が不思議そうに尋ねた。
「いいから、早く切って、早く!」
室伏先輩が急かす。
「ちょっと待ってなさい…ええと九切れと…はい出来上がり」
小野寺先輩が手早く切って皿に盛り分けた。
「じゃあ、いただきます」
「いただきまーす」
山内先生に続いてみんなが唱和した。
「おいしい」
「ほんと。結城君の紅茶も萩尾部長のケーキも」
「でも、萩尾さんどうして急にケーキなんて作ったの?美味しいのは知ってるけど、めったに作らないのに。まるで結城君の紅茶に合わせるみたいに」
山内先生が萩尾部長に聞いた。そんなに珍しいことなんだ。
「ん…な、なんとなく」
と、だけ萩尾先輩は答えた。
「ねえ、これからお菓子は毎日交替で作ることにしない?」
秋山先輩が提案した。
「はい、私、ホットケーキなら作れる!」
榊原さんが手を挙げて言った。
「アホ。そんなの誰でも作れるし、冷えたらまずくて食われんわい!」
廣瀬さんが突っ込む。笑い声が弾ける。
話し声が途切れたとき、僕はふと気が付いた。歌声が響いてくることに。
「合唱…やってますね」
「合唱?…ああ、また隣が音楽室だから、音楽部が皐月祭の練習やっているのよ」
秋山先輩が当たり前のことのように言った。
そうか。僕はテニス部に行ってたり、奥の資料室にいたりして、今まで音楽部の練習に気が付かなかったんだ。
耳を澄ますと、伴奏のピアノのメロディも聞こえてくる。おかっぱ頭の淋しそうな顔をした少女の顔が思い浮かんだ。
渓川いづみさん─そう言ったはずだ。何がそんなに淋しいんだろう?あんなにピアノ上手いのに…
「音楽部って言えば知ってる?メインピアニストの渓川さん、春日部長と仲が悪いそうよ」
室伏先輩がタイミング良くうわさ話を始めた。
「あ、それ私も聞いた。渓川さん、ピアノ降りたがってるとか…」
葉山先輩が珍しく乗ってきた。
「ちょっと、学内でそう言う話は厳禁のはずですよ」
「はーい」
山内先生に封じられて、その話はそれきりになったが、その噂は僕の耳に残った。
(部長と仲が悪い…ピアノ降りたがっている…)
その週は何ごともなく過ぎて行った。僕は毎日放課後には美術部に出て、独りで百合華さんの絵を描き進めていった。
日曜日のことだった。美術部は基本的に個人作業なので出席は任意だ。僕のテニス部(本当は姫野百合華)スケッチのような屋外、あるいは学外での活動も許可される。
基本的に日曜日は休みとされているが、皐月祭が近いので、何人か─その日は萩尾部長と小野寺先輩、秋山先輩がいた。
午後二時頃、僕はトイレに立った。
帰りがけ、ふと気が付くと、ピアノのメロディと歌声が聞こえてきた。合唱ではない。独唱だ。
流れるようなピアノのメロディ、透き通った澄み渡る歌声。僕はその声につられて音楽室をそっと覗いた。
渓川いづみさんがひとりでピアノを弾きながら歌っていた。
室内には彼女の他に誰もいない。彼女の顔は恍惚とした喜びに溢れている。僕が入学式の日に見た彼女とはまるで別人のようだった。
それにしてもなんて美しい歌声、なんて美しいメロディ、なんて美しい音色だろう。
僕はそれに聞き惚れ、彼女に見とれた。その途端、僕は思わず窓に触れガタンと音を立ててしまった!
「誰!」
ひしるような叫び声が走り、音楽室は静まり返った。
「誰かいるの?」
今度は少し柔らかい声で渓川さんが尋ねた。僕は逃げるか、名乗り出るか、しばらく迷った末、ドアを開けて 音楽室に入って行った。
僕の顔を見たとき、彼女の顔にありありと安堵の色が浮かんだ。
「すみません。あんまり素晴らしい歌声だったのでつい聞き惚れてしまって…僕は美術部の…」
「知ってる。君、美術部の男子でしょう。美優から聞いたから…確か…結城…ノブオ君ね」
僕はずっこけた。
「い、いえ、ノブオではなくてシノブです。美優とおっしゃると、秋山先輩のお知り合いですか?」
「あらごめんなさい。私は渓川いづみ。音楽部。美優とは同じ中学なの」
(それで秋山先輩はうわさ話に加わらなかったのか…)
「何故私がひとりで歌っていたか不思議?」
「ええまあ…今日は音楽部の練習はなかったんですか?」
「ええ、それで今日しかないと思って…」
渓川さんは憂鬱な表情で漏らした。
「ひとりで歌うのが?」
「そう」
「…深い事情がおありのようですね。僕で良ければ相談に乗りたいけれど、でもここは二人っきりで寂しいし、美術室に行きませんか?秋山先輩もいますし、萩尾部長も小野寺先輩も優しい人だから、力になってくれると思いますよ」
「でも、美術部はセクトが違うから私は…」
「セクト?セクトってなんですか?」
「あ、いえ…きみ、一年生だったわね…」
「ね、行きましょう、一緒にお茶を飲むだけでもいいですから」
「…そうね。お邪魔するわ」
「ただいま戻りました」
「あら、結城君、ずいぶん長かったわね。大の方?…ってあら、いづみ!」
僕を茶化そうとした秋山先輩が僕の後に部屋に入ってきた渓川さんを見て驚きの声を上げた。
「何があったの、結城君?」
小野寺先輩が尋ねた。
「ま、まあ、まず、す、す…」
「まず、座ってください。お茶でも淹れましょう」
僕にも萩尾部長の言葉が理解できるようになってきた。
「どうぞ。セイロン・ウバ・セイントジェイムスです」
僕は自分のジャスパーウェアを渓川さんに譲った。
「ありがとう。きれいなカップ…いい香り…」
渓川さんは美味しそうに紅茶を飲んだ。
「…で、いづみに何があったの?」
一息ついたところで秋山さんが切り出した。
「さっき、僕が見に行ったとき、彼女はひとりでピアノを弾いて歌ってたんです。あ
とで聞いたら、『今日しかないから』と、言って」
「さっきのピアノは音楽部じゃなかったんだ。どおりで合唱が聞こえないと思った」
小野寺先輩が言った。
「で、でも、とっても、す、素敵だったわ」
萩尾先輩が言った。
「そうでしょう。僕も思わず聞き惚れてしまったんですが、渓川さん、あの歌はひょっとして自分で?」
「…はい。自分の作詞作曲ですけど、もともとひとに聞かせるつもりはなくて、まったく自己流にただ自分の気持ちを表現したかっただけなんです」
渓川さんは思いを吐き出すように言った。
「いづみ…春日部長と仲が悪いとか、ピアノやめたがっているとか言う噂と関係あるの?」
秋山先輩はいきなり核心に迫る質問をした。
「はい…いえ、春日先輩に不満があった訳じゃないんです。ただ、私は歌も歌いたいのにピアノだけさせられるのがいやで、いっそのこと音楽部やめようかと思ったこともあるんですが、私、やっぱり音楽が好きだから…」
渓川さんは訥々と語った。
「ふーん、みんなどう思う?彼女に好きな歌を歌わせてやる方法がない?」
小野寺先輩が腕組みして一同に問うた。
(音楽部やめるとまで考えてた、か。本当にやめたら音楽部は大変だろうな。もうすぐ皐月祭なのにメインピアニストが抜けたら…あっ、皐月祭!)
僕は天啓のように閃いた。
「そうだ、彼女を参加させるんですよ、皐月祭のステージに!」
「それだ!」
「それだわ」
「そ、それ」
「ええっ!そんな…」
美術部の三人は即答で同意した。
渓川さんだけがとまどっていた。
「ちょっと待って、もう皐月祭の出し物の申し込みは締め切られているわ。それでどうやって彼女を出演させる?音楽部の枠では認められないでしょう?」
小野寺先輩が指摘した。
「け、けいおん…」
萩尾先輩の示唆に気付いた秋山先輩が叫んだ。
「そうか、軽音楽同好会の客演ってことにすればいいじゃない!」
「なるほど…で、誰か軽音に知り合いいる?」
小野寺先輩が聞いた。
「あ、僕、三年の先輩に知り合いがいます!」
僕は同じ中学から慧傳学園に入った、中学からバンドとかやっていた先輩を思い出した。
「すぐ連絡しなさい」
小野寺先輩が命じる。
「あ、でも、校則で構内では携帯電話の使用は禁止で…」
「この際細かいことは気にしない!」
「わかりました……あ、寺内先輩ですか?結城シノブですけど」
(ああ、シノブか。悪いな、今バンドの練習中でさ。おう、皐月祭だよ。俺たちのファイナルステージだからな)
「実はその件でお願いがあるんですが」
(なんだよ。手短に頼むぜ)
「バンドにひとりメンバーを加えて欲しいんですが」
(無茶言うな、いまさらアレンジ変えられるわけないだろう!)
「そこをなんとか」
(誰だよ、その新メンバーって?)
「渓川いづみさんですが…ご存じですよね?」
(…あの音楽部の?嘘だろ?)
「嘘じゃありません。本人がここにいます」
(…いくらピアノが上手くてもそれだけじゃ…)
「ピアノだけじゃありません。彼女のヴォーカルは天下一品です」
(ヴォーカルねぇ…聴いたこともねぇしな…でも、お前がそこまで言うんなら…よし、今日中に場所を用意しな。聴きに行ってやるからよ。メンバーに入れるかどうかはそれから決める)
それで電話は切れた。
「今日中に聞く場所を用意しろ、だそうです」
「どうする、カラオケにでも行く?」
秋山先輩がとんちんかんなことを言った。
「何言ってるの、「彼女の歌」を聞かせなきゃ意味ないでしょ…だったら、ピアノがあるところね」
小野寺先輩が答えた。
「うちにピアノはないんですか?」
僕は渓川さんに聞いてみた。
「昔はあったけど、今は団地住まいだから捨てちゃったの」
彼女は答えた。どおりでわざわざ休みの日に学校で弾くわけだ。
「うーん…」
「うーん…」
小野寺先輩と秋山先輩が考え込んだ。
「あ、あの、か、かふぇ…」
「カフェ・ノワール!それだ!」
萩尾先輩の示唆に小野寺先輩が気が付いた。
「でも、カフェ・ノワールは今日休みですよ」
秋山先輩が指摘した。
「しまった、今日は日曜か!」
意外だったのは、美術部のみんながカフェ・ノワールを知っていたことだ。百合華さんとの秘密の場所のように思っていたのに。
「そうだ、無理じゃないかも知れません!」
僕は再び天啓を得て、携帯電話を手に取った。
かける先はフレーズ・ルージュ。そこにはまず間違いなく白籏麻帆さんがいる。
「……フレーズ・ルージュですか、結城シノブと申します」
運良く麻帆さんが直接出た。
(あらシノブ君。何?)
「少しの間、カフェ・ノワールのピアノを借りたいんですが。使えるでしょうか?」
(ええ、調律はしてるから使えるけど、今日は休みだから、マスターに断らないと。でも何があるの?)
「今は説明できないんです。無理なお願いですが、なんとかよろしくお願いします」
(ちょっと待って。一度切って、マスターに連絡するわ)
それで電話は切れた。
「誰に電話かけたの?」
秋山先輩が聞いた。
「白籏麻帆さん」
「あ、そうか、白籏先輩か」
先輩達は頷いた。
間もなく電話がかかってきた。
「はい、シノブです、麻帆さん?」
(私だよ。麻帆君はもう店に向かった。ところで、君らはどこにいるんだ?)
「あ、マスターですか?学校です」
(じゃあ、麻帆君の方が先に着いて鍵を開けているだろう。ところで、私も行った方がいいのかな?)
「いえ、お店の物品に迷惑をかけるようなことはないと思いますが」
(いや、私にも一聴の価値があるのかという意味だが)
「それは、是非聞きに来てください」
僕は一端電話を閉じた。
「カフェ・ノワール、即OKです」
「やった!」
秋山先輩が歓声を上げる。
僕は続いて寺内先輩に電話を入れた。
「カフェ・ノワール、これから即OKです」
(わかった。メンバー連れて聞きに行くよ)
軽音の先輩達もカフェ・ノワールを知っていた。
「ちょっと待って、彼女のセクトは音楽部だから「精霊連盟」、これはセクト破りにならない?」
小野寺先輩が急に言い出した。
「でも本人が自分の意志で移ろうとしているんだから、いいんじゃないですか?」
秋山先輩が答えた。
(『セクト』ってなんだ?『精霊連盟』も初めて聞くぞ?)
僕はふと思った。だが、考えている暇はない。
「ともかく行きましょう、渓川さん、いいですね?」
僕は渓川さんに確認した。
「ええ、でも、私、カフェ・ノワールって知らないんですけど」
「私達が案内するわ。さあ行こう、いづみ!」
秋山先輩が渓川さんの腕を取り部屋を出た。僕たちはそれに続いた。
駅前を曲がるところで秋山先輩が僕に指示した。
「結城君、いづみの手を持って。セクトやぶりだから、たぶん結界の反作用が強いからね」
「は、はい」
僕たちは渓川さんの両手を支えた。
「あ、ああっ…」
渓川さんがうめき声を漏らした。
僕も一度経験のある、空間識失調感を味わっているのだ。彼女のそれは僕より長く続き、カフェ・ノワールの前まで来てようやく収まった。
カフェ・ノワールに入ると、柔らかなピアノの音色が響いていた。奥に進むと、麻帆さんがピアノを弾いていた。
僕たちに気が付くと手を止めて振り返り、
「慣らしをしてたの。調律しているとは言え、しばらく弾いてなかったからね」
と、言って笑った。
「で、誰が弾くの?」
彼女の目が興味津々といった感じで動く。
「…はい、あの、私です」
「あなた?たしか渓川いづみさん、だったわね」
「覚えていてくれましたか?白籏先輩」
「もちろん…あなたをこの店に招くことが出来るとは思わなかったわ」
麻帆さんはそう言って渓川さんと握手した。麻帆さんは慧傳学園の去年の卒業生。生徒会副会長だったそうだから、今の二年生以上は直接面識がある。きっと、百合華さんにも劣らない人望があったのだろう。
やがて、マスターが駆けつけ、軽音楽同好会のメンバーも揃って姿を現した。
「おう、結城…げ、本当に渓川いづみじゃねえか。それにしても、よくここに入れたな」
寺内先輩は当然のことだが、相当に驚いていた。
「非常手段を使いまして」
僕は答えたが、先輩は別のことを言いたかったのかも知れない。ともかく渓川さんを連れてきたのも非常手段には変わりあるまい。
「じゃあ、始めてもらおうか…あっと、後輩が無理言って悪かったね、マスター」
寺内先輩はマスターに謝った。
「なに、気にするな。めったに聴けないもんが聴けるとあれば、休みに店を開ける価値もあるというもんさ」
マスターは目尻を下げて笑った。
「さあ、いつでもいいわよ、いづみ」
秋山先輩が渓川さんを促した。
渓川さんは、
「はい…」
と、小さく頷くと、前奏を弾き始めた。
そして、やがてそれに歌声が加わる。
僕が聴いたのはほんの一部に過ぎないから、ここにいるメンバーが「渓川さんの歌」の全曲を最初に聴く人間になる。
彼女の歌は、早く遅く、細く太く、激しく緩やかに、遠く近く、かそけく雄々しく、川の流れのように、寄せては返す波のように、吹きゆく風のように、僕の貧弱な語彙力ではとうてい追いつかないほど千変万化していった…
…後奏の最後の一音の余韻が消え去るまで、聴衆からはしわぶきのひとつも聞こえなかった。
しばらくの間をおいて全員から力の限りを込めた拍手が送られた。見ると、女の子は皆泣いていた。麻帆さんまで。寺内先輩も涙をこらえていた。軽音の他のメンバーはこらえきれずに泣いていた。マスターも目頭を潤ませていた。僕も泣いていた。
ふと思った。
これが何百人の聴衆の前だったら、反応は何十倍かそれ以上になるだろう?、と…
「よかったよ、いずみ」
秋山先輩が渓川さんに背後から抱きついて言った。
「あ、ありがとう、ありがとうございます、皆さん…」
渓川さんも涙を溢れさせ、むせび泣いた。
「よし、決まったぜ、今度の皐月祭、軽音は彼女メインで行く!」
寺内先輩が宣言した。
「オス!」
軽音のメンバーが皆、同意した。
「え、彼女は客演のはずじゃ?」
僕は驚いて聞き返した。
「考えても見ろ。俺たちの歌なんざ彼女の歌の足下にもおよばねぇ。俺たちに出来るのは彼女を盛り立ててやることぐらいさ」
寺内先輩は涙混じりの声で語った。
「でも、渓川さんの主演を音楽部が認めるかしら?」
小野寺先輩が冷静な口調で言った。
周囲から失望のため息が漏れた。
「かまいません」
渓川さんが強い口調で言った。
「私、音楽部辞めますから」
「ええっ!?」
一斉に驚きの声が上がった。
パチパチパチ、と拍手が響いた。
マスターだった。
「わがギルドへようこそ。これは記念品だ」
マスターは渓川さんにウェッジウッドの箱を渡した。
「あ、ありがとうございます…」
渓川さんはおずおずと受け取った。
「あ、いづみ、いいなあ。あれ結城君とお揃いよ」
秋山先輩がうらやましそうに言った。
「あのカップ、魔導師候補生しか貰えないのよ」
小野寺先輩が付け加える。
「いや、彼女にはもう、魔導師の資格がある」
マスターが言った。
(魔導師候補生?僕も?魔導師候補生って何だ?)
「…これは『魔導師ギルド』と『精霊連盟』はもめるわね」
麻帆さんが呟いた。
「麻帆さん、その、『魔導師ギルド』と『精霊連盟』って何なんですか?『魔導師総代』とか言う言葉は百合華さんに聞いた覚えがありますが…」
「ああ、君はまだ一年だったわね。『魔導師ギルド』の現役生徒の代表者が『魔導師総代』。前の魔導師総代が私で、今が百合華。『精霊連盟』は魔導師ギルドに対抗する勢力のひとつで…まあ、詳しいことはおいおいわかるわ」
「おいおいっていつ頃?」
「まあ、皐月祭が終わった後には…たぶん」
結局、麻帆さんは詳しいことを教えてくれなかった。
確かなことは渓川さんの音楽部から軽音楽同好会への移籍が大問題になるらしく、その責任の一端は僕にあると言うことだけだった。
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