第三章 フレーズ・ルージュ

第三章 フレーズ・ルージュ


 百合華さんに逢った翌日の火曜日、僕は七時に起きた。顔を洗い、歯を磨くと、コーヒー作りに取りかかった。


 昨日の晩、カフェ・ノワールのマスターにもらったテキストには目を通してある。

 ハンドミルで豆を挽き、ドリッパーにフィルターペーパーを敷いて粉を平らに置く。


 十分沸騰したお湯を粉に少し注いで20秒ほど蒸らしてから、三回くらいに分けて注ぐと、粉がふつふつと泡を吹いて膨れあがる。


 こんな場面はコーヒーメーカーではお目にかからなかった。早速昨日貰った、ジャスパーウェアのカップに注いで飲もうとした瞬間、ガチャガチャと音がして、玄関のドアが開いた。


 うちの玄関の鍵を持っているのは三人だけ。僕と親父と叔母さんだけだ。叔母さんが持っているのは僕が学校に行っている間、時々掃除に来てくれるためだ。従って選択肢はひとつだけ。


「おお、シノブ、帰ったぞ」

 親父だった。


「父さん、帰るのは昼過ぎじゃなかったの?」

「ああ、飛行機の便が早まってな」


 親父は答えた。親父はプロのポートレートカメラマン。友達がオカズにしているようなグラビアアイドルやモデルを被写体にして、国内外を飛び回っていて、家にはいないことが多い。


 今度も一週間前からハワイにロケに行っていた。もちろん息子の入学式など、最初から親父の知ったことではない。


 親父は玄関に荷物を投げ出すと、ふんふんと鼻を鳴らした。


「いい香りだな。ドリップコーヒーか?」

「ま、まあそうだけど」

「一杯くれんか?」


「父さん、これから寝るんじゃないの?」

「俺はカフェイン不感症だから関係ない」

 僕はしぶしぶ一杯のコーヒーを差し出した。


「おお、ジャスパーウェアじゃないか!買ったのか?」

 親父は大袈裟に驚いて言った。


「…知り合いに貰ったんだ」

「ふーん、いい香りだな…」

 親父はゴクリ、ゴクリ、ゴクリと僕が淹れたコーヒーをわずか三口で飲み干した。


「どう?味は…?」

 僕はおずおずと聞いた。


「ふーむ、ちょっと酸味とえぐみがあるが、まずまずだな。この味はコーヒーメーカーじゃ出せない。シノブ、このコーヒー、お前が淹れたのか?(酸味とえぐみが強いってことは、豆を細かく挽きすぎたか、抽出時間が長すぎたかな…)」

 親父は僕の淹れたコーヒーを的確に批評した。


「そう…だけど。昨日、ミルとドリッパーと豆を買ってきたんだ」

「どこで?」


「慧傳町駅前のカフェ・ノワールって喫茶店」

「カフェ・ノワール?お前あそこに行けたのか?」


 なぜカフェ・ノワールに行けると驚くのだろう?だが問題は、親父もカフェ・ノワールを知っていたと言うことだ。


「父さんもカフェ・ノワールを知っているの?」

「ああ、あの店が開店した頃からの常連だったさ。先代のマスターの時のな。懐かしいなぁ。そういえば佳帆ちゃんはどうなったかな…」


 親父は学生時代から僕が生まれるまで、訳あってこの町を離れていたんだ。


「佳帆?麻帆さんってウェイトレスさんなら今でも働いているよ」

「麻帆?その人の名字は?」

 親父は何気なく聞いた。


「た…たしか『白籏』だったと…フレーズ・ルージュってケーキ屋さんの娘さんだって」

 僕はうろ覚えで言った。


「白籏…そうか、あいつもフランスから帰って来てたのか…佳帆ちゃんはあいつのものになった訳か…」


 僕はその時、カフェ・ノワールに張ってあった色あせた若い美女の写真を思い出した。あれがひょっとして麻帆さんのお母さんだったのだろうか?ひょっとしてそれを撮ったのは…


「俺は寝る。夕方まで起こすなよ」

 僕の回想とは無縁に親父は寝室に歩き出した。


「俺、学校なんだけど」

「…じゃあ遅刻するなよ」

「あーあ、俺が淹れたコーヒー全部飲んじゃった!」


「また淹れればいいだろ。それからそのジャスパーウェア、もう一個買ってこい」

 親父は寝室のドアを閉めて姿を消した。


 僕はもう一度コーヒーに挑戦する気になれず、サーバーの底に溜まった一滴を味見だけして、今日の朝食はミルクで我慢した。ジャスパーウェアは洗って使ったけれど。


 その日のクラス委員会では、二、三年から「皐月祭」の出し物の応募が数点出されたが、一年からは出なかった。黒輝も今日はおとなしくしていた。


 百合華さんは僕の顔を見て一度だけ、にこりと笑ったが、後は知らんふりをしていた。


 委員会終了後、五時には間があったので、テニス部に行って北本先生にスケッチを終了することを告げ、お礼を言って百合華さんが置いて行ったパイプ椅子を美術室に戻そうとしたが、ちょうど五時を回った。


 百合華さんには会わなかった。美術室に行ったときには鍵がかかっていた。仕方なく僕は部屋の前に椅子を置いて学校を後にした。


僕はその日の帰りがけ、カフェ・ノワールに寄った。不思議なことに今日は迷わずに行くことが出来た。


「こんにちは、マスター、こんにちは、麻帆さん」

「まあ、昨日、百合華と来た少年…ええと、シノブ君だったわね。今日は百合華は来てないけど」


「今日はマスターにお願いがあってきました」

「なんだね?、コーヒーは淹れてみたかね?」


「はい、淹れたんですが親父に飲まれてしまいました。実は、その親父が昨日貰ったジャスパーウェアのカップをもうひとつ買ってこいと」


「…君のお父さん、もしかして『行信』という名前じゃないかね?」

「そうです。実は、親父もこの店を昔なじみだと言っていました。それから、『佳帆さん』という女性はどうしているかと」


「やはりそうか。佳帆は麻帆の母親だよ。フレーズ・ルージュに行けば会えるよ」

(やっぱり…じゃああの写真は…)


「あのぉ、カップは?」

「昔のよしみだ。くれてやろう。その代わり言っておきなさい。暇があったら顔を出せと」


「いえ、そう言うわけには。市価で結構ですから」

「仕方ないな…五千円。市価だよ」


(やっぱり高価なカップだったんだ…(僕はその後これよりはるかに高価なカップを何度も目にすることになるが))


「ありがとうございます」

「ねえ、今日は飲んではいかないの?」

 麻帆さんが声をかけた。


「え、ええと、そうですね…どんなのが良いと思いますか?」

 僕は迷って麻帆さんに聞いた。


「…そうねぇ、ストレートの味をひとつずつ覚えるのも悪くないと思うわ」

 麻帆さんは唇に人差し指を当てて少し考えてから答えた。


「じゃあ、ええと…」

「ちょっと待ちなさい」

 僕が注文を選んでいるとき、マスターが言った。


「な、なんでしょう?」

「カップを買ってもらったから、今日はひとつご馳走しよう…少し待っていたまえ」


 そう言うと、マスターは一杯、コーヒーを淹れた。そして、見たことのないデザインのカップに汲んで、僕の前に出してくれた。


「ジャワ・アラビカ─ジャバ・アラビカとも言うが─カップはニンフェンブルク・パーペルタペストだ」


「はあ、頂きます…」

「ジャワ島のアラビカコーヒー栽培の歴史は古く、かつては風味絶景と讃えられたが、最近では大半は病気に強いロブスタ種に取って代わられ、アラビカ種はごく少数が残るだけになってしまった。その希少なジャワ・アラビカがこれだ」

「…」


 コーヒーの飲み分けの出来ない僕には、なんと答えたらいいかわからなかった。ただ、マスターが本当にコーヒーを愛しているんだな、という気持ちだけは伝わってきた。


「マスターはね、どんなブレンドでもそれにどんな豆がどれだけの割合で入っているか飲み分けすることが出来るのよ。コーヒーメーカーのカップテイスター並ね」

 麻帆さんが誇らしげに言った。


 まだ豆の固有の味もわからない僕にはブレンドを構成する味もわかろうはずもない。いつか僕にもマスターのようにわかる日が来るのだろうか?


 帰りがけ、僕はマスターに呼び止められた。


「待ちなさい。いいものを貸してあげよう」

 マスターはそう言って分厚い本を二冊僕に差し出した。


「『原色世界の洋食器図鑑』・『珈琲大辞典』?」

 その本にはそう書いてあった。


「興味があったら読んでみるといい。デザインの勉強にもなるだろう」

 マスターはそう言ってその本を僕に手渡した。


「ありがとうございました」

 そう言って僕はカフェ・ノワールを去ろうとした。


「ちょっと、それじゃお店とお客様が逆でしょ。ありがとうございました、またお越しください」

 麻帆さんはそう言って僕を送り出した。


 家に帰ると親父はまだ寝ていた。寝起きの親父は著しく機嫌が悪い。そのまま寝かせることにして僕はひとりで夕食を摂った。


 翌日水曜日、僕は初めてひとりで淹れたコーヒーを飲んだ。昨日より挽き方を若干荒くしてみた。評価は…まだまだだなぁ。


 親父は僕が起きたときにはもういなかった。「都内スタジオ****」と張り紙がしてあった。親父は売れっ子ポートレートカメラマンで、多忙なのだ。五千円で買ったカップはまだ渡していない。


 その日の放課後、僕は百合華さんの絵の下書きを美術室に持ち込んだ。


「うわー、なにこれーっ!」

「これって姫野先輩よね?」


 一目見るなり、秋山先輩と室伏先輩が声を上げた。


「うわー、過激!これってパンチラ…じゃないけど、みたいなもんでしょ?」

 秋山先輩が二の句を継いだ。


「でも、本人の承諾は得てありますよ」

 僕が断った。


「なに、君、姫野先輩と話をしたの?うらやましー!、あたしだってしたことないのに」

 室伏先輩が叫んだ。


「茜、そういうことじゃなくてね」

 秋山先輩がなだめる。


「で、でも、こ、この絵は、と、とても良いと、お、思うわ」

 萩尾先輩が覗き込んで言った。


「そうね。この絵が皐月祭で公開されれば、大きな反響を呼ぶと思うな」

 小野寺先輩が同意した。


「私もそう思います」

 葉山先輩も言った。


「でも、どうせなら、皐月祭当日いきなりバーンと発表しなきゃ。いい部の宣伝にもなるわよ」

 室伏先輩が提案した。


「そうね、そのためには制作過程が外部に漏れないよう秘密にしなきゃね」

 秋山先輩も同意する。


「はあ…(なんだか大ごとになってきたぞ)」

 僕は内心思った。その時、ドアがノックされ、


「こんにちはー」

 と、複数の女の子の声がした。


「か、隠すのよ、結城君。そう、資料室に持って行きなさい!」

 小野寺先輩が慌てて叫んだ。


「は、はい」

 僕は美術室とドアで繋がっている美術資料室に百合華さんの絵をイーゼルごと持って行き、何食わぬ顔で戻ってきた。


 美術室には見たことのない顔の女の子が二人、立っていた。ひとりは背が高く細面でもうひとりはやや低めで丸顔。容姿は二人とも十人並みと言ったところ。


「あ、あの、ゆ、結城、君…」

 萩尾先輩が例によってどもりながら話し出したのを制して、小野寺先輩が続けた。


「昨日までいなかったから結城君には紹介してなかったけど、彼女たち、一年生の新入部員よ。君と同期生ってことになるわね」


「はあ、一年A組の結城シノブです。よろしく」

 僕は二人に挨拶して、頭を下げた。


「私は一年L組の榊原章子です」

 背の高い子が名乗った。


「私も一年L組の廣瀬順子です。結城君ってうちのクラス委員の結城さんの従兄なんですって?」

 小柄な方の子が名乗り、沙織との関係を聞いてきた。


「え、どうしてそれを?(また沙織か)」


「結城さん、『うちの従兄のシノブなんて、男のくせに絵なんて描いてる軟弱者だ』ですって。そんなことないわよね。男の人で絵が描けるなんて繊細でロマンチックよねー」

「ねー」

 二人はハモった。


 それにしても沙織のやつ、またしても俺の評判を下げやがって…でも、また二人女の子と知り合いになれたから、まあ、いいか。


「私達、絵は初心者なの。これからよろしくね」

 そう言って二人は頭を下げた。


「なんだ、身内ならあの絵、別に隠すことも…」

 僕が言いかけたとき、室伏先輩が僕の口を手でふさぎ、耳打ちした。


(敵を欺くには味方から、いい、あの絵のことは私達六人だけの秘密よ)

「もが…ふぁ、はい、分かりました」


 僕たちの仕草を榊原さんと廣瀬さんは不思議そうに見ていた。


「え、別に何でもないわよね、あ、そうそう、彼、神経質だから、絵を描いてるとこ人に見られるの苦手だそうだから、しばらく資料室で描くからね」

 秋山先輩が宣言した。


「えー、そんな、私達結城君に教えて貰おうと思ったのに」

 廣瀬さんが残念そうに言った。


「絵のことなら私達じゃ不満?」

 室伏先輩がむっとして言った。


「ちょっと茜、そう高圧的に言ったら新入生が萎縮しちゃうでしょ」

 秋山先輩が注意した。


「私達に出来ることは何でも教えてあげるわ。それぞれ得意な技法は違うけどね」

 小野寺先輩が温厚に言った。


「はーい、よろしくお願いしまーす」

 榊原さんと廣瀬さんが同時に言った。


「でも、せっかく美術部に来ても結城君と話せないんじゃがっかりね」

「ねー、それに結城君が絵、描いてるとこ、ちょっとでいいから見てみたいなぁ…」

 榊原さんと廣瀬さんは互いに言い合った。


「こら、人のことは詮索しなーい!」

 室伏先輩が一喝した。


「二人とも、結城君の絵なら皐月祭には見られるし、それに、うちの部では三時半にティーブレーク摂ることにしてるから、その時に結城君とも話せるわ」

 小野寺先輩がそう言って二人をなだめた。


(ティーブレーク…そう言えば初日に出して貰ったのはインスタントコーヒーだったよな…俺が淹れるってのは…まだ無理か)


 その時、ドアが開いて山内先生が入ってきた。


「先生、こんにちは」

 全員が挨拶した。もちろん萩尾先輩はどもってたけど。


「お、結城君が戻ってきて、新メンバーもようやく陣容が揃った感じね…北本先生から聞いたわ。テニス部はもういいんですって?」

 先生は僕の顔を見て言った。


「あ、先生、部長が相談したいことがあるそうです」

 小野寺先輩が言った。


「は、は、はい」

 萩尾先輩が頷いた。


「ふーん、そう、何かしら?」

 先生が問い返した。


「ちょっと、皐月祭のことで。ね、絵夢」

「は、はい」


 何の相談かは僕には薄々見当が付いた。


 やがて山内先生と萩尾部長と小野寺先輩が資料室に入って行き、しばらくして僕も呼ばれた。


「…つまり、あなた達はこの絵を皐月祭で公開するまで秘密にしたいから、結城君はこの部屋で制作したい、ということね…面白そうじゃない」

 山内先生が確認した。


「はい」

「は、はい」

 僕たちは頷いた。


「結城君、この下絵の段階で姫野さんに制作公開の許可は取ってあるというのは本当なの?」

 先生は僕に尋ねた。


「本当です」


「そう、ならば問題はありません。この部屋の鍵は君が管理しなさい。制作はこの部屋だけで行い、絵は皐月祭当日までこの部屋から持ち出さないこと。ところで、君は下絵を描くのに写真を撮っていたわよね?」

「はい?」


「その写真もこの部屋に保管しなさい」

「分かりました(マスターは家のパソコンのHDとCD-Rにあるんだけどな…)」


「いい絵を期待しているわよ。疑う訳じゃないけど、姫野さんには後で確認しておくわ。肖像権の問題ですからね。それじゃ」


 最後に先生は言った。


「ありがとうございます」

 僕たち三人は頭を下げた。


 僕は資料室でひとりになると、彩色の準備に入った。


 僕の好みはアクリル水彩絵の具。使い方によって、透明水彩のようにも油絵のようにも使える。家ではパソコンでCGも描いているけれど、僕は手描きの風合いが好きだ。


 まだ今日は初日だからいきなり色は入れない。A4サイズに印刷した写真を見ながら色彩設計を頭の中にイメージする。


 そうこうするうちに三時半になった。コンコンと美術室と繋がるドアがノックされた。念のためドアには鍵がかけられている。


「結城君、お茶にしましょう」

 声をかけたのは榊原さんだった。うわ、いきなり一年。危ないなぁ。


「ちょっと待って、すぐ行くよ」

 と、だけ答えて、絵にカバーを掛け、鍵を開けて誰もドアの前にいないことを確認してからドアを開け、すぐ閉めてまた鍵をかける。


 まるでスパイ映画だ。


 既に部員達は机を囲んでお茶を汲んでいた。今日はティーバッグの紅茶とお菓子はクッキー、ビスケット。


「結城君、どのくらい進んだの?」

 廣瀬さんが早速尋ねてきた。


「まだまだこれから。色も塗ってないよ」

 僕はそう答え、逆に聞き返した。


「廣瀬さん達も何か描いてるの?皐月祭には二人とも出すの?」


「えへへへ、小野寺先輩の指導で静物デッサンを初めて見たんだけど…」

 廣瀬さんが照れ笑いして言いかけた。


「…みんなへんてこりんなわけわかんないものになっちゃうのよね」

 榊原さんが後を継いだ。


「そんなに変でもないわよ」

 珍しく無口な葉山先輩が口を開いた。


「抽象画としてはね」

 室内に爆笑が巻き起こった。


 マグカップにティーバッグの粗末なお茶会だけど、三年生二人、二年生三人、一年生三人、計八人。


 山内先生はいなかったが、これだけ大人数でお茶会をするのは僕にとっては生まれて初めてだった。


 僕と親父と沙織の家族を足してもわずか五人にしかならないのだ。


 その日、僕は絵に絵の具を入れないまま部室を後にした。家に持って帰れれば、夜なべ仕事が出来るのだが、山内先生と部屋から持ち出さない約束をしてしまった。


 幸い、元の写真だけはこっそり見ることが出来るが。


 翌日、木曜日から僕は本格的に絵を塗り始めた。

 

 土曜の午後、次第に格好が付いてきた。


 亜麻色の髪にヘアバンドを巻き鳶色の目でラケットを見据えて、サーブを打とうとしている百合華さんの姿。


 写真はあるが、躍動感は絵でしか表現できないものだ。


 僕は夢中になって筆を走らせていた。


 その時。


「シノブ君」


 背後で女の人の声がした。


「えっ?」

 僕は思わず振り向いた。


「どう、私の絵は進んでる?」

 そこには姫野百合華さんが立っていた。


「そんなはずは…鍵はかけてあったはず…」

 僕は唖然として百合華さんを見つめた。

 

 百合華さんはその顔に悪戯っぽい笑みを浮かべていた。


「ふふふ、魔法で開けたのよ」

「魔法?」


「言わなかった?私が女魔導師だってこと」

「女魔導師?百合華さんが?」

 僕は呆然として意識がくらくらするのを覚えた。


「嘘よ」

「え?」

「私は生徒会長よ。合い鍵くらい持ってるって普通思わない?」


「お、脅かさないでください。僕は声をかけられたのが山内先生か美術部の先輩以外だったらどうしよう、って本気で心配したんですから」


「私だったら?北本先生にスケッチはやめるって聞いた後、山内先生が確認に来て、いよいよ描き始めたんだなって思って様子を見に来たのよ」


「百合華さんなら、他の誰にも内緒にしてくれればいいです。でも、まさか百合華さんだとは思いませんでしたけど…」


「実はそれも嘘。本当は誘いに来たのよ。明日、午後暇はない?」

「誘い?明日も絵を描くつもりでしたけど、百合華さんのお誘いなら…でも、何の誘いですか?」


「約束したでしょ。『フレーズ・ルージュ』に一緒に行くって」

「あ、ああ、もちろん何時でもいいです」


「じゃあ、慧傳町駅前、午後二時にね…あ、絵の具垂れてるわよ」

「えっ?」


 僕は思わずかがみ込んだ。絵の具は垂れてなどいなかった。


「百合華さ…」


 もう一度振り返るとそこには誰もいなかった。僕は資料室の鍵を確かめてみた。閉まっていた。


 そう言えば、描くことに集中していたとは言え、開く音を聞いた覚えもなかった。第一、扉が開閉する音を聞いた記憶がない。


 本当に魔法だったのだろうか?それとも幻覚?明日の午後二時、駅前に百合華さんはいるのだろうか?


 翌日、慧傳町駅前に、姫野百合華さんは二時ちょうどに現れた。


 百合華さんの服装はその美貌に相応しい、僕が初めて目にするお洒落な私服姿だったが、幻のようには見えなかった。


「時間前に来てるなんて偉いわね」

 百合華さんはいつも通りの深い声音で言った。


「い、いえ、あの昨日は…」

 錯覚だったのか本当の魔法だったのか聞きたかったけど、僕は聞けなかった。


「昨日約束したでしょ、午後二時って」

「…はい」


「じゃあ、行きましょう」

 僕たちは並んで歩き出した。


 他人が見たら、僕たちはどう見えるだろう?恋人同士?…だったらいいけど、やっぱり釣り合いがとれないかな。


 友達同士?…だめだ、彼女は大人っぽくて僕は童顔だ。姉と弟?…妥当な線だけど全然似てない。


 ともかく、僕はこれから学園のマドンナ、姫川百合華とデートしようとしてるんだ。そう思うと胸がどきどきしてきた。


「ここよ」

 カフェ・ノワールのある通りの少し先で、百合華さんは足を止めた。


 そこに「フレーズ・ルージュ」はあった。今度はあの奇妙な失調感は起こらなかった。僕たちは一緒に扉を潜った。


「こんにちは」

「初めまして」


 レジに立っていた品のいい中年の女性が顔を上げて僕たちを見た。

「あら、百合華さん、いらっしゃい。そちらは、お知り合い?」


「ええ、後輩です」

 百合華さんが答えた。


 この奥さん、どこかで見た覚えが…麻帆さんにも似ているような…


「麻帆さんは?」

 百合華さんが奥さんに聞いた。  


「麻帆はティールームで支度してるわ。なんだかとっても張り切ってるみたい…」

 上品な奥さんは目尻に笑みを浮かべて言った。


 僕は直感した。


「あの、奥さん、失礼ですが、お名前は『白籏佳帆さんとおっしゃるのではありませんか?」


 奥さんは驚いた様子で答えた。

「ええ、そうですけど、どうしてそれをご存じなの?」


「結城行信をご存じありませんか?僕はその息子のシノブです」


「まあ、結城さんの息子さん!すっかりご無沙汰してますけど、お父さんはお元気で?」


「十五年ほど故郷を離れていましたが、僕の生まれた頃から隣町に戻っています。奥さんを懐かしがっていました」


「有名な写真家さんになられたそうで、お名前だけはうかがっていましたが、そんな近くにお住まいなら一度お立ち寄りくださればいいのに」

「それが、親父も貧乏暇なしの口で…そのうちにきっと」


 僕と奥さんの会話を、隣で百合華さんが興味深げに聞いていた。


「ふーん、人の縁ってどこで繋がっているかわからないものね」

 百合華さんが感慨深そうに言った。


「いや、僕もつい数日前に知ったばかりで。そう言えば、百合華さんと麻帆さんはどうやって親しくなったんですか?」


「ああ、それは彼女は慧傳学園の卒業生で先代の魔導師そうだ…」

 百合華さんは途中で言葉を飲み込んだ。


「は?」

「あー、だから先代の生徒会副会長だったのよ。任期が終わって私が生徒会長になってからも、色々助言してくれたわ。それ以来の付き合いね」


「はあ…」

 どう考えても百合華さんは別の言葉を言いかけたような気がするが…「魔導師」って言葉、昨日も聞いた覚えが…


 その時、ドアが開いて、シックなメイド服に身を包んだ麻帆さんが現れた。

「お待ちしていたわ。百合華、シノブ君、さあ中へどうぞ」


 僕たちはティールームに導き入れられた。


 フレーズ・ルージュの喫茶室は瀟洒で落ち着いた雰囲気だった。麻帆さんはまず、僕の頼んだミルフィーユと百合華さんが頼んだレアチーズを持ってきた。


 次に暖めたカップ&ソーサーを二脚持ってきた。


 僕のカップは白地に青、百合華さんのは色違いで赤紫、の唐草のような模様が入っていた。皿は六角形に突起が付いた(僕が見る限り)珍しいものだ。


 僕はカップを裏返して銘を見た。"Royal Copennhagen"と記されていた。


「ロイヤルコペンハーゲン、君のはブルーフルーテッド・フルレース。私のは色違いのバーガンディーフルーテッド・フルレースよ」

 百合華さんは言った。


「ロイヤルコペンハーゲン…ああ、マスターに借りた本に載ってました。デンマークの窯ですよね」

 僕は聞いてみた。


「そうよ。君も勉強してるじゃない」

 百合華さんは誉めてくれた。


 実を言えば、夜は絵が描けないからあの洋食器図鑑をながめて過ごしているんだ。


「今日は全部私のおごりよ」

 と、言って麻帆さんは、カップと同じ絵柄の白地に青のティーポットからカップに紅茶を注いだ。


「ずいぶん薄く見えますが」

 思わず僕は言った。そう言えば、ミルクと砂糖も付いていない。


「水色(すいしょく)はね」

 百合華さんは答えた。


「どう、銘柄を当てられる?」

 麻帆さんが悪戯っぽい笑みを浮かべて百合華さんに問いかけた。


「……うーん、ダージリン、ファーストフラッシュ、FTGFOP1…いえ、SFTGFOP1、銘柄は…うーん…スタインタール…かしら?」

 百合華さんはカップを口元に近づけて紅茶の香りを嗅ぎ、ひとくち口に含み、少し考えてから答えた。


「おどろいた。正解よ。さすがね、百合華」

 麻帆さんは少しおどけた調子で言った。


「あの、そのSF…なんとかってなんですか?」

 僕は聞いてみた。


「ダージリンは知っているわね。インド北部高地で穫れるお茶ね。ファーストフラッシュは春摘みのこと。SFTGFOP1は、スペシャル・ファイネスト・チッピー・ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコ・1の略。

 ダージリンの最上級品以外にはめったにない、新芽を豊富に含む最高級品のグレードよ。スタインタールはダージリンで最も古い農園の名前。農園によって味も香りも違うのよ。あと、年によっても違うけどね」

 百合華さんは解説した。


「…百合華さんって、コーヒーだけじゃなくて紅茶にも詳しいんですね」

 僕は感心して言った。


「それほどでも…両方とも麻帆さんにはかなわないわ」

 百合華さんの謙遜ではない証拠に、麻帆さんは自信に満ちた笑みを浮かべていた。


 僕たちがダージリンを飲み終わると、麻帆さんはブルーフルーテッドを下げて別のセットを持ってきた。僕はそれに見覚えがあった。


「あ、それはヘレンドの「インドの華」ですね!」

 自信を持って言ったそれは、麻帆さんにあっさり否定された。


「残念。ヘレンドだけど、「清の花籠」よ。よく似てるけど、惜しかったわね」

 百合華さんは無言で笑っていた。わかっていたのだろう。


「さあ、二番目の紅茶は?」

 麻帆さんがカップに茶を注ぎながら言った。今度は普通の紅茶らしいオレンジ色だった。今度はミルク、砂糖も添えられていた。


 百合華さんは一口飲んだだけで、

「セイロン・ウバ・セイントジェイムスBOP」

 と呟いた。


 麻帆さんは両手を大きくシュラッグしてみせて、

「この程度じゃ百合華には問題にならないみたいね…あ、シノブ君、これはミルクにも合う紅茶よ」

 と付け足した。


 僕はミルクを入れて飲んでみた。確かにミルクに合うだけのコクがある。ダージリンとは全く違う紅茶だ。


 ヘレンドが下げられ、三番目のティーセットが運ばれてきた。僕はそれを見て目を丸くした。


「まさか、それって…セーブルですか?」

 僕が言うのと同時に百合華さんは

「麻帆さん…奢ったわね…」

 と、呟いた。


「そう。フランス国立セーブル製陶所製「ペイール」のティーセット。うちのお宝のひとつね」


「ブリュ・ド・ロワ(王者の青)」と言われる深い藍色と研ぎ出された二十四金の金彩がセーブルの特徴、全て限定品で入手は困難と数日前に読んだばかりだが、実物を目にするとは思わなかった。


「一問目、二問目が分かれば、三問目は簡単に分かるわね」

 と、言いながら、麻帆さんはセーブルに赤茶色の紅茶を汲んだ。


「これは…中国茶?」

 僕は匂いを嗅ぎ、直感で言ってみた。


「その通り。安徽省のキームン特級よ」

 百合華さんが断定的に言った。


「正解。これで今日の紅茶はおしまい。百合華には最初からわかってたかも知れないけど、今日の紅茶は「世界の三大紅茶」と呼ばれるものから選んだのよ」


 セーブルのカップでキームンを飲み干すと、今日のお茶会は幕を閉じた。


 僕は麻帆さんに聞いてみた。


「麻帆さんはいつもカフェ・ノワールのウェイトレスをしているんじゃないんですか?今日は特別?」


「まあ、特別だったけど日曜日はいつもカウンターかティールームにいるわよ。カフェ・ノワールは日曜日休みだから」


「平日は?」

「カウンターは宗像君って男の子、ティールームは母さんがやってるわ」


「じゃあ、麻帆さんは休む日がないじゃないですか?」

「まあ、そうだけど好きだからね」


「ところで、コーヒーと紅茶と上手く淹れられるようになるにはどっちが簡単ですか?」


「うーん、どっちもそれなりに難しいけど、時間と量を守ればいい点では紅茶の方が易しいかな」


「あの、一度に十杯くらい入るポットってありますか?」

「ふつう洋式のポットは六杯分くらいなのよね…見栄えにこだわらなければ土瓶でもいいのよ。お茶を淹れるのに変わりはないから」


「午後のお茶に適したお茶ってありますか?」

「うーん、数え切れないほどあるからひとつ選ぶのは難しいけれど、私のお薦めはさっき出したセイントジェイムスBOPかな…」


「それ、頒けてくれますか」

「私のお薦めの茶葉はカウンターに置いてあるわよ。今日は出さなかったけど、フレーバードティーなんかも色々あって楽しいわよ」


「フレーバードティー?」

「いろんな香りを付けてあるお茶。ミルクや砂糖、アイスティーに合うのも多いわ」


「今度試してみます」

 僕たちはティールームを出て店に戻った。


「シノブ君、コーヒーに続いて紅茶も始めるの?」

 百合華さんが興味深げに言った。


「美術部のティーブレイクに使いたいんです。インスタントコーヒーやティーバッグじゃ、あんまりみすぼらしいでしょう?」


「でも、コーヒー・紅茶やカップにこだわらずに、みんなでわいわいするのがティーブレイク、コーヒーブレイクの醍醐味だと思うけどな…」

 百合華さんが憧れるような表情で言った。


「そうだ、じゃあ、この本貸してあげるわ」

 麻帆さんがそう言って差し出したのは、「世界の紅茶を味わう」というタイトルのかなり厚い本だった。


 僕はカウンターで麻帆さんのお母さんから紅茶とケーキを買った。


「百合華さんは買わないんですか」

 と、僕が聞くと、百合華さんは少し淋しそうに笑って、

「うちはいつも家族いないから…」

 と、答えた。


 僕はその時初めて、僕が彼女に抱き続けてきた親近感の理由の一端をかいま見たような気がした。


 駅までの帰り道、百合華さんは僕に言った。


「君、小さい頃から家に家族がいなかったでしょう?」

「どうしてわかるんですか?」


「淋しい人は目を見ただけでわかるわ」

「百合華さんもそうなんですか?」


「今はそうでもない。生徒会長だし、テニス部主将だし、魔導師総代だし…」

「その魔導師総代って何ですか?(たしか麻帆さんにも同じことを)」


「…力が欲しいときには、私を呼びなさい。私が力をあげる…」

(どういう意味だ?…でも、今はこれ以上聞く気には…)


「じゃあ、ここでね。絵の完成、楽しみにしてるわ」

 百合華さんは手を振って駆け出していた…

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