第2話 三途の川の太夫 来店
都会の路地裏。古民家風の美容室。
たわわに実ったレモンの木は、凍てつくような寒さの中でも、冴えわたる月に照らされ、異様な雰囲気を放っていた。
…やっぱり、この場所がアタシがいるべき場所よね。
いつから、そんなふうに思うようになったのかは覚えていない。
そもそも執着という意味さえ理解できなかったはずのセキが、今では…何ものにも代え難い存在を見出したのは奇跡だと言えよう。
ゴォーン……。
どこからか聞こえる除夜の鐘。
寺の
古来から続く日本の習わしに
だが幽霊にとっては、そんな純粋な願いなどない。
怒り、悲しみ、恐れ。
それらを満たされたいという強い欲求。
年始めに、そんな幽霊達の大巡礼を越す客で溢れるようになった理由は、この美容室に負を彷彿させないオーナーがいるからだ。
「去年は、全部のお客をさばくのに、三日かかったのよねぇ」
そして…今年はうるう年。
セキ達にとって厄介な年だ。
うるう年の
今夜だけは、雪でも雨でも構わなかった。
数百人に及ぶ幽霊の来店客と、レモンの木の契約者。
オーナーは、どう動くつもりなのか…。
だが、月が出た以上セキが選ぶ道は他にない。
「守りたい人がいると、人は強くなれるって言うけどほんとよねぇ」
「…ラッキーだよな。一人じゃねぇってのは」
「…っ!」
返事が返ってくるとは思っていなかった独り言に、驚いて振り返ると、木目の扉に背中を預けているゲンスケがいた。
からかうよう片眉を上げてニヤけて見せるが、丸メガネの奥の鋭い目は笑っていない。
「おかえり」
「…ただいま」
「麗奈を不安にさせたまま帰すなんて、おまえらしくねぇんじゃねえ?」
「不甲斐ないわね。…あんたなら、気の利いた言葉をかけてあげれた?」
「無理だね。そもそも俺にそんな役目は務まんねえよ。ま、俺達も、扉の前で招かざる客を追い払うくらいしかできないがな」
ゲンスケが指差す方向には、エモトが律儀に両手を広げて通せんぼをしている。
「まあ、年始の挨拶ってのは、年が明けてからがお約束だからな。気合いいれて追い払えば大抵の奴らは納得する」
「でも、ずいぶん行列ができているわねぇ」
「まあな。ただ、おまえが出て行ったあと、バアさまには軽く突破されたぞ」
「っ。…あの老婆っ。事態を大きくしている自覚あるのか」
珍しく、吐き捨てるような口調になってしまった事に、セキ自身も気付いていたが、ゲンスケの前では取り繕う必要もない。
互いに気づかぬふりをして余裕の無さを懐に隠し、セキは店へと入った。
「おや、セキ。久しいのう」
すぐに声をかけてきたバアさまに、セキは心情を隠して駆け寄り、笑顔を売る。
「バアさ…ねえさまも、おかわりなくぅぅ〜」
「今、バアさんって言ったかえ?」
「やあねぇ。聞き間違いよぅ」
鏡の前に座っている女は、確かに年老いた老婆には見えない。
朱色の肌襦袢に、菊と紅葉の長襦袢。その上に鳳凰が描がかれた着物を重ね、豪華絢爛な帯を花魁のように前で結ぶ。
髪は今まさにオーナーの手によって艶やかな簪が飾られたところだ。
「ねえさまの、本日のお姿も華やかで〜」
「そうやろ? ところで、セキや。年内に通る魂がたりんだが、あんさん、何か心当たりあるかえ?」
通る魂とは、三途の川。この女は三途の川の渡し守り。世間には
生前の罪を見定める女相手に、セキはやんわり笑ってうそぶく。
「…さあ。アタシには」
「そうかえ? じゃあ、あんさんがさっき一緒にいたあの娘から、もろうてええんか?」
「?!」
途端、セキの髪と着物が揺れた。
「セキ…」
「ぶ、わははは」
わずかな殺気を見せたセキを、オーナーは落ち着き払ってたしなめ、花魁の姿に化けている老婆は、豪快に笑う。
「ええのぅ。ええのぅ〜。わっちの周りは萎びたキュウリみたいのばかりでつまらん」
「ウイ様、ウチのスタッフで遊ばないで」
オーナーは、見事な島田髷を女の頭に結い上げていた。
髪を折り曲げて髷を作り、
『ウイ』とは、
「さ、ウイ様。いかがですか?」
「相変わらず、大した腕じゃ。世話になりんした。お代は、ヌシさんが惜しんだ魂の数でええんかの?」
「恐れ入りますわ」
にっこり微笑むオーナーに、女は、ため息まじりで肩を落とす。
「なあ…わっちが言うのもおかしな話だが、ヌシさんが守ってはるレモン、そろそろ代替えが必要じゃ。腐蝕が激しい」
「ええ」
それはセキ達も気付いていた。
土を盛ったり、葉を落として陽の光を当てたりと、できるだけの事は続けて来た。
だが、今年の秋の彼岸、火事に巻きこまれたのがよくない。
「…この地に契約者が必要なように、レモンの木にも同化させる契約者が必要じゃ」
…承知している。
「わっちも三途の川との契約で、あの川から離れれん。契約とは厄介な物でありんす」
奪衣婆は、三途の川の契約者。
オーナーは、この地の契約者。
ならばレモンの木の契約者は…。
「アレの代替え候補は、いるんかえ?」
姿に似合わず、女のしわがれた声には、どんな罪人もその悪行を話てしまう力がある。
そんな女が、オーナーの何かを感じて目を眇めた。
「
悠久の年月を経た灰色の瞳。
それを揺るぎ無く、まっすぐと見つめ返すオーナー。
こんな時、何かをするつもりでいるのかと問いただせる者などいない。
大きく息を吐きだした奪衣婆は、それ以上の詮索は諦め、長いキセルを取り出した。
ユナが刻んだ葉を先端に詰め、火をつける。
ゆるりと立ち上がる煙は、この老婆が好む清涼な香り。
その時、煙に誘われるようガタン!と、扉が揺れた。
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