第2話

 彼女に連れられるまま彼女の家に着いた。同級生の家に呼ばれるのは何年ぶりだろう。小学生以来ではないだろうか。



「濡れちゃったね」



 しっとりとした髪やスカートを撫でながら彼女が言う。

 それは私は別に逃げないというのに頑なに腕を掴んで離さなかったから一つの傘しか使えなかったせいだろうと思うのだけど、言うのも面倒だった。



「ね、泊まって行きなよ。お風呂入って、また制服着るの、なんか嫌じゃない?」


「え、あー……」



 確かにそれなら親への言い訳が楽かもしれない、と思ってしまう。そしてまんまと親に電話して相手の親御さんに迷惑かけないようにね、という言葉にうんうんと頷いて電話を切ってから思う。

 よく知りもしない同級生の家に泊まるのは絶対楽じゃないだろう、と。



「ねえ、お風呂ってさ、先に入る? ご飯の前になるけど」



 まるで家族に問うように軽い言い方だ。実際家族にはこんな風な態度なのだろう。

 上着とリボンを取った気怠げな様子に何故か目が合わせられなくて、曖昧に頷くと先に入ることになっていた。



「こっち」



 そう言いながら脱衣所まで連れて来られる。

 なんでこんなことになったんだっけ、と今更のように思いながらリボンを外していると、申し訳なさそうに眉を下げられた。



「ごめん、私、お姉ちゃんにするみたいにしてるね」


「え? ああ、そうなの?」



 私、あなたのお姉ちゃん知らないけど。とは言えない空気だった。



「お姉ちゃんね、四月から大阪の大学に行っちゃって。それまでね、私ほとんどお姉ちゃんと一緒にお風呂入ってて、だからいなくなってからはお母さんと入ってるんだけど、もう高校生なのにってすっごくぐちぐち言われるんだ」



 シャツのボタンを外しながら、わざとなんてことなさそうに言おうとしているのがわかった。



「お母さんとお父さんね、お姉ちゃんに会いに行ってるの。泊まることになったって言ってたけど、多分、私が一人でもお風呂に入れるようにって思ったんじゃないかな。それでね、帰って来たら言うんだと思う。ほら、一人でも大丈夫だったでしょうって」



 ぱっと顔を上げたその顔に滲む不信感を綺麗だと言ったら怒るだろうか。



「大丈夫じゃないのにね」


「……そうだね」


「お姉ちゃん、帰ってあげなよって言ってくれなかったのかなぁ」



 ほとんど裸体となった彼女の目が私へと向いていないのが、何故だか無性に悔しかった。



「いいじゃない。今は一人じゃないんだから」



 今日、あなたと一緒にお風呂に入るのは私でしょう。と言外に滲ませる。

 そうだね、と彼女は笑って風呂場の戸を開けた。私も最後の砦のような下着を脱いで中に入る。



「お湯、さっき入れ始めたから、溜まるまで待ってね」



 そう言いながら当たり前のように体を洗い出す彼女を見つめていいものかもわからず目を逸らす。



「いるだけでいいの?」



 なにかする必要はないのかとつい尋ねてしまった。



「いるだけでいいの」



 綻ぶような笑顔に少し背中を押された気になる。

 本当にただ髪や体を洗うだけでよくて、お湯が溜まったら二人でお湯に浸かった。溢れたお湯が外に流れる。二人だとこうなるのか、とぼんやり思った。



「すごいよね」


「……なにが」


「普通、友達でもないただの同級生が困ってたからって、ここまでしてくれる?」



 そんなつもりはなかったのだけど、じゃあどういうつもりだったのかと聞かれると答えられない。



「変なのって思ってるでしょう」


「……それは、まあ。でも多分、私も変だから」



 今まで誰にも言えなかったことが今なら言える気がした。



「私、雨音を聴くのが好きなの。多分、雨が好きなんだと思う。人と人との間に透明な壁を作ってくれる気がするから」


「ふうん」


「私、人のことが好きじゃないのかもしれない」



 そう、と軽く流されるのが嬉しかった。深刻に受け止められたらどうして良いのかわからない。



「だから私、人とこんな風にするの初めてだよ」


「……なんで私とお風呂に入れてるの?」


「さあ、なんでだろう。同じ水だからかな」



 ふふ、と笑って手のひらに掬ったお湯を肌にかけられた。なんてことのない雑談の間の戯れみたいな演出がじわじわと沁みる。



「あーあ、私ってこんなだからずっと実家暮らしから逃れられないのかなぁ。大学どうしよう。もう決めてる?」


「ううん」


「東京の大学にも興味はあるんだけどね。でも、そうなると一人暮らしでしょう? お風呂も一人で入れないのに、ねえ? 一人暮らしなんて、夢のまた夢じゃない? 銭湯通いするしかないのかなぁ、なんて」



 笑うように言いながら、濡れた髪を耳にかける時のうつむく顔に楽しげなものは見られない。



「親には良い機会だって言われるけど、他人事な言い方だなぁって思うんだよね。一人でお風呂に入れないのは私であってあの人たちじゃないもん」



 何かを考えるより先に口が動いていた。



「二人暮らしならいいの?」


「うん?」


「二人暮らしなら、お風呂は二人で入れる」



 きょとん、と見返される。何を言われているのかわからないのだろう。私だってそうだ。



「私じゃだめなの?」



 どうして私はこんなことを言っているのだろう。



「……東京、人いっぱいだよ?」


「当たり前じゃない」


「人助けが過ぎるんじゃない?」



 そんなつもりで言ったわけではない。



「あなたは雨に似ていて心地良いからいいの」



 口にして初めて、ああ、そうだ、そう思ってるんだ。と自分の気持ちを知れた。



「雨、かぁ」


「……そうなの」


「だからお風呂が怖いのかな。溶けてひとつになってしまいそうで」



 彼女が明かりに手を透かすように広げる。つう、と伝った雫がお湯の中に混ざって、きっと私の肌に触れた。

 この人となら、雨で壁を作る必要はない。



「あなた、名前なんだっけ」


「……坂井さん、それ、いまさらぁ?」



 この人は私の名前を知っているのかと、ふふっと笑ってしまった。裸を見せ合っておいて名前を聞くなんて、確かに今更過ぎたからだ。


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雨音に耳を傾け、私は貴女に雨を見出す 蒼キるり @ruri-aoki

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