雨音に耳を傾け、私は貴女に雨を見出す

蒼キるり

第1話

 学校の渡り廊下から雨音を聴くのが好きだ。この高校に入ってこの場所が一番よく聴こえると気づいてから、雨の日の放課後はいつもここで読書をする。

 変わった趣味だという自覚はあるから誰にも話したことはない。家族には友達と遊んでいて遅くなったと言っている。放課後にまで遊ぶような友達はいないのだけど、嘘も方便というやつだ。

 図書室で借りたばかりの本に目を落とし、時折目を閉じては雨音に耳を澄ませる。これ以上ない幸福な時間だ。

 それを打ち切るような人の声が聞こえ、私はため息を吐いた。遠回りになるから滅多に人は通らないのに、今日は運が悪い。

 校舎から人が出てくる。困った顔をしながらスマホ越しに声を上げている女子生徒は電話に必死で私に気づいていないようだった。



「帰って来ないの? 明日まで? なんでもっと早く言ってくれなかったの」



 なんで、どうして、と何度も言っているのが聞きたくもないのに耳に届く。彼氏に怒ってでもいるのだろうかとなんとなく思う。



「じゃあ、私のお風呂どうするの」



 早く通り過ぎてくれないかな、なんて思っていた時に響いたその言葉は、ほんの一瞬だけど雨音より鮮明に聞こえた。

 お風呂? なんだそれは。どうするのってなんだ。一人で入れば良いじゃないか、高校生なんだから。幼い子どもじゃあるまいし。

 ぱっ、とその子が顔を上げた時、私も本から顔を上げていたので真っ正面から目が合ってしまい、少し気まずい。

 彼女は私がいることに今ようやく気づいたらしい。顔がじわじわと青ざめているように見えるのは多分見間違いではないだろう。



「ごめん、聞くつもりじゃなかったんだけど」



 なんで私が謝ってるんだろうと口にしてから思う。別に私が悪いわけじゃないし、聞き耳を立てたわけでもないのに。

 でも彼女の顔を見ていると、なんだか悪いことをしてしまった気分で居た堪れない。



「言わないで」


「え?」


「私が一人でお風呂に入れないこと、誰にも言わないで」



 ものすごく必死そうな顔で懇願される。言っている意味がすぐにはわからなくて何度か瞬きをしてしまった。言葉の意味を理解してすぐ、ひく、と誤魔化すように口が動く。



「そ、こまでは、聞いてなかった」


「え、あ」



 言わなきゃよかった、と彼女が思っているのが強く伝わってくる。私も言わないでいてくれればよかったのにと思う。そんな確信的なことを聞かなければきっと三日後には忘れていただろうに。

 私たちの間に言いようのないじめじめとした空気が流れているのがわかる。彼女ほどは気まずくない私は手持ち無沙汰に髪を弄りながら彼女の顔を見る。

 同級生だという覚えはなんとなくあるのだが、名前もクラスもわからない。体育は一緒にしたことがあるような気がするけど。

 下を向いていた彼女がふと私の手に目を向けたのがわかった。



「その本、好きなの?」



 え? と思わず聞き返してしまうところだった。そういえば本を読んでいたんだった、と急に現実に引き戻された気になる。



「あー、うん。今日初めて読んだけど、多分、好きだと思う」


「そう……私も好き」



 このまま話を変えて流すつもりだろうか。それならそれでいいのだけど。



「すごく怖がりな子が出てくるじゃない? それ」


「ああ、うん。なんで怖いのかもわからない、でも怖いって言ってる子でしょ」


「私、それなの」



 ぐ、と一歩近づいてきて強く言われる。見上げてくるその視線が痛かった。



「なんで怖いのか、わからないけど、怖くて」


「……えっと一人でお風呂に入るのが?」


「そう!」



 そんなに力強く肯定されても、と苦笑いしてしまう。



「今日ね、家に家族が一人もいないの。夜までには帰ってくるって言ってたのに、やっぱり一泊するって」



 困ったなぁ、と笑いながら言う。その顔に誤魔化し切れない恐怖が隠れている気がしたのは私の気にしすぎだろうか。

 渡り廊下から身を乗り出して、彼女の手が外に出る。手のひらにひたひたと雨が滴った。



「いっそ、雨に打たれて帰ろうかな」



 その憂いを帯びた彼女の表情が、ハッとするほど綺麗だった。

 私の気持ちが動くのがわかる。初めて雨音を美しいと感じた時のように。



「私が一緒に、入ってあげようか」



 口にしてすぐ、何を言っているんだと自分で言っておいて驚いた。

 なんで、と言われるだろうと思った。怖がられるかもしれない。変な人だと思われるかも。

 けれど彼女は笑っていた。髪の先から一筋雨の雫が落ちる。



「うん」



 彼女が近づいて来て私の手を取る。迷いのない仕草からは逃げられなかった。腕を組まれる。生々しい熱さだ。



「うちに来て」



 その誘いからは逃げられなかった。だって自分から言ったのだから。

 人の家で風呂に入ってから帰ることを家族になんて言い訳しよう、と現実逃避のように頭の隅で思った。

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