第11話 カフェ
ノックがして、ヨハンが入って来た。時計を見たらもう昼に近い。色々話しているうちに時間がきてしまったようだ。
今日は授業をすることは念頭に入れてなかったし、イレーナという女性のことを少し知ることができたので、これでいいことにする。
クロエはお辞儀をして退出した。
恋人同士の時間を邪魔するほど野暮ではない。
ドアの向こうにクロエの姿が消えると、イレーナはほうっと溜息をいた。
ヨハンは彼女の亜麻色の髪に口付ける。
「緊張した?」
イレーナは婚約者の胸にこめかみをつけ、小さく首を横に振った。
「ううん。わたしばっかり話しちゃったけど、クロエ先生、嫌な顔全然しなかった。なんか本物のお嬢様って感じ」
早くあんな風になりたいなと呟くと、ヨハンが顎を掴んで持ち上げた。
「無理はしなくていい。今の君で充分……」
「あなたのことを助けられるようになりたいの」
イレーナは遮るように言った。
「わたしもあなたのことが大事なの。だからお荷物にはなりたくないの」
もっと言いたいことはあったが、ヨハンに横抱きにされて言葉がつかえて出なかった。
「ありがとう。その気持ちは嬉しいよ」
「ちょっと、何するの? 重いでしょ、下ろして」
「軽いお荷物だ。可愛くて仕方ない」
ヨハンは抱きかかえたイレーナにキスを落とし、部屋の左のドアを開けた。
家庭教師は週二回で、初回以降はヨハンの屋敷で行われることになった。ホテルでは他の宿泊客もいるので迷惑になるためだった。
二区にあるヨハンの屋敷に行く時には屋敷から迎えの馬車が来て、付き添いにはエリーゼがつく。
アルトキール二区は中心部からも近く、ホテルからも馬車で二十分くらいで、外国の商品を取り扱う大きな商店や国内貴族の別荘や邸宅などがあり閑静な高級住宅街としても有名だ。
ヨハンの屋敷は名士の家に相応しく立派な大邸宅を想像していたのだか、壁や門扉が堅牢ではあるが、屋敷はこじんまりとして部屋数もクロエの実家の半分もなさそうだった。
人を招いたりするための家ではないからだとヨハン自身が語っていた。
催事があれば会社の大広間やベルタホテルがあり、場所も人員も事足りる。
貴族と富裕層の違いといえばそれまでだが、社交のあり方もそれぞれなのだと改めて知ることになった。
最初に来た時に使用人と挨拶をした。
家令のザッカーと通いの料理人の女性のフランカ、執事はいたのだが辞めてしまい、御者をしているまだ十代後半くらいのクリスティアンが執事見習いも兼ねている。そして十二歳のメイドのニコラの四人。
屋敷は最新の器具や魔鉱石が随所に配備されていて、やかんを置くだけでお湯を沸かす火の魔鉱石を使った調理器具や、ボタンを押せば勝手に排水されるトイレや、冒険者ギルドが管理しているレンタル掃除スライムなど様々取り入れているので、充分この人数で回っている。
効率や利便を念頭に適材適所で新進のものを使っているあたり、さすがに実業家だとクロエは感心している。
高貴なる者の義務として雇用を創出するという貴族的な考えもまだこの時代では必要かもしれないが、それも技術の進歩と共に変わってゆくのだろうと感じる。
「……先生、クロエ先生」
呼ばれてはっとした。考えに没頭していたらしい。
イレーナは心配そうにクロエを覗き込む。
「先生の頼んだタルト、来ましたよ」
目の前にはリンゴのタルトがあった。
今日の授業は終わり、イレーナもこの後何も用事がないので彼女がかねてから行ってみたいと言っていた二区のカフェに来ていた。
クロエは気を取り直してタルトを一切れ口に入れた。
バニラの香りの強いカスタードクリームとリンゴの酸味が丁度いい。貴婦人や令嬢で評判の店だけあって味は確かだった。
「んー、美味しい! やっぱり、噂は本当ですね」
エリーゼはフォークを握り締めて感動を素直に顔に出す。
「私もこの店、前から来たかったの。でも、どちらかというと女性の多いお店だから」
今は昼過ぎの平日ということもあるだろう、店内を見渡すと、イレーナの言う通り全員女性だった。
店内も明るい色調でまとめられており、男性同伴より女性同士の方が入りやすい雰囲気だ。
もしかしたらヨハンは気にしないかもしれないが、イレーナの方はヨハンに集まる視線が気になって美味しいケーキを堪能できないかもしれない。
「いいですよねえ、二区は美味しくておしゃれなお店が多くて」
エリーゼはイチジクのケーキを頬張ってしみじみ呟く。
ホテル付きのメイドらしく最新の流行には敏い彼女は、雑誌や同僚の話などで話題のものをよく知っている。
クロエが授業をしている間は終わるまで待つしかないので、時折外へ出て話に上がった店を見に行ったり、家族のお土産に焼き菓子を買ったりしてそれなりに楽しんでいる。
「ここのマドレーヌ結構有名なんですよ。帰りに買ってきてって同僚に頼まれてるんですよね。夕方には売り切れることもあるらしいですよ」
「本当? じゃあ、私も弟に買って帰ろうかな」
他愛もないおしゃべりをして美味しいケーキを食べるのは久しぶりなので、クロエもこのひと時がとても楽しかった。
勘定を済ませて、帰りにガラスケースに山積みになって入っているマドレーヌを数個買い、クリスティアンの待つ馬車に戻った。
馬車に乗り込むとまだ温かいマドレーヌの香りが立ち込めて充満する。
食べたばかりなのに、匂いにつられてまた食べたくなるのは不思議だった。
馬車は屋敷に向かって走り出した。
少ししてから外が騒がしいことに気づいたのはエリーゼだった。
「なんか、人の声がしますね。何かあったのでしょうか」
馬車が停まった。
「どうしたの、クリスティアン」
「通りの向こうが騒がしいようです、イレーナ様。迂回しますので、念の為に鍵を掛けてください」
建物の向こう側から物音や悲鳴のようなものなどが聞こえて来る。馬車は通りから遠ざかるように角を曲がって狭い路地に入った。
再び馬車が停まった。
どうしたのか尋ねる前に馬車が揺れた。窓を覗くと御者台からクリスティアンが二人の男に引き摺り下ろされていた。
扉の前にも男が現れ、鍵を壊す勢いで扉を開けようとする。
鍵が掛かって扉が開けられないとわかると男は腰に佩いていた剣を取り出し、柄の部分で窓のガラスを叩いた。
割れたところから手を入れて鍵を外し、扉を開けてイレーナの腕を掴んで引きずり出した。
「イレーナ様!」
「その娘から手を離しなさい」
イレーナは男に背後から抱きすくめられ、剣の切っ先が喉元に突き付けられる。
「おっと、動くなよ。この娘がどうなってもいいのか?」
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