第10話 なれ初め

 背が高く立派な身なりの男性が店のドアを開けて入ってきた時は、とうとう工事業者の社長が説得に乗り込んできたのだと思った。

 そう言ってイレーナは苦笑いをした。


 だが、顔色は悪く足元も少し覚束ない。

 イレーナは窓際の長椅子を勧めて、ミントを浮かべた水を差しだした。



「どこか具合が悪かったのですか?」

「二日酔いでした」

「まあ、それは場合によっては同情できないわね」

 クロエとイレーナはふふっと笑った。



 水を飲み干してもテーブルに伏してしまい、起き上がれそうもない様子だった。イレーナは念のためにバケツを傍らに置いて、二日酔いの時に飲む煎じ薬を用意しにいった。


 そして、戻った時にはバケツを渡しておいて良かったと思った。

 男性はバケツに顔を突っ込んでいた。


 こうなったら出し切ってしまう方が早く楽になる。そう言ってイレーナは男性の背中を擦った。


 落ち着いたところで煎じ薬を飲ませたが、すぐには回復するという訳ではないので、彼の乗ってきた馬車の御者を呼んで長椅子に横たえるのを手伝ってもらった。


 しばらくしたら男性は少し回復したのか起き上がったが、まだ本調子ではないようだった。


 胃の調子を整える薬とハーブティーを帰り際に持たせると、御者に肩を貸してもらい男性はどうにかお礼を述べてその日は帰っていった。



「印象的な出会いでしたね」

「……そうですね。人にはあまり言わないでおこうと思います」



 次の日、朝一番に男性はやってきた。昨日のお礼と失態の詫びをしにきたのだ。

 

 昨日は港のある三区へ行った帰り道で、急に気分が悪くなり御者に病院か薬屋があれば停めてほしいと言っていたそうだ。


 その前の夜にパーティーがあってつい酒が進んでしまったとのこと。


 醜態を晒してしまった気恥ずかしさもあるのだろうが、頬を少し赤らめて誠実に謝罪と感謝を口にする、昨日とは違う紳士然とした姿に、イレーナの胸は駆け足をした時のように鼓動が早くなった。


 男性が手土産の有名店のクッキー詰合せを手渡した時だった。


 店のドアが大きな音を立てて開き、柄の悪い業者の男が二人入ってきた。


 イレーナは来客中なので出て行くように言うと、こっちだって気分が悪くて来てる、早く薬を出せとがなり立てた。

 体調はまったく問題なさそうに見えた。

 いつもの嫌がらせだ。


 この男性を巻き込むことはしたくなかったので、イレーナは問診の紙とペンを出して、症状を具体的に書くように告げた。

 その間に男性には退出してもらおうと思っていた。


 業者の男は紙とペンを払いのけ、イレーナの手を掴んだ。


 だが、すぐに手は離された。


 男性が業者男の手を掴み、その腕を捻りあげたのだ。

 もう一人の業者の男が男性に向かっていったが、腕を捻り上げている男を突き出し、正面でぶつかった二人は壁に倒れ込んだ。


 何だてめえと凄んで立ち上がるが、背の高い彼を見上げる形になり睨みつけても様にならなかった。

 イレーナはその両者の間に割って入った。



「『お客様に手出ししないで』って言ったんです。だって、関係ないヨハンに怪我でもされたら大変だから」



 業者の男達の笑い声が響いた。だが、男性は笑わなかった。

 男性が人の名前を呼んだ。後にそれが彼の秘書の名前だったと知った。


 ドアが開き、二人の男は店の外に放り出された。

 秘書のゼーラーが襟首を掴んであっという間に店外に出したのだ。


 そこで男性は自分がヨハン・ロートバルターだと名乗った。


 今度は男達の顔色が悪くなり、イレーナも驚きのあまり普段では出ない変な声が出た。


 アルトキールに住んでいる者ならロートバルターを知らない者はいない。父の代から大きな商店を経営してる街の名士で、数年前に跡を継いだヨハンはそれだけに留まらず色々な分野に手を広げていて、次期商工会議所の所長になると噂のある人物だ。


 おまけに幾度となく、どこそこの御令嬢やら女性貴族などとの恋の噂も絶えない独身美男。


 ヨハンはドアを閉め、イレーナを長椅子に座らせて事情を尋ねた。


 これまでのことを話し終えたら、ヨハンは優しく笑ってイレーナの頭をぽんぽんと労わるように撫でた。

 事情はわかったと言って。


 イレーナはその時、喉の奥につかえていた重い石が取れて、胸から湧き上がってくる熱いものを押えることができなかった。

 気がついたら目からは涙が溢れて頬を伝った。



「最後の日まであと少しだから、そうすればこんな嫌な思いをすることもなくなるんだって、それまでの我慢だからってずっと言い聞かせてきたんだけど、無理をしてた分だけやっぱりもろくなってたみたい。ちょっと優しくされただけでぐしゃっと崩れて、子供みたいに泣いちゃった」



 ヨハンはその間、膝の上に乗せてずっと背中を擦ってくれた。


 その後、ヨハンが違法な立ち退き要求をしていると当局に申し出て業者は摘発され、嫌がらせや妨害行為はなくなり、イレーナは最終日まで営業をすることができた。


 女性の一人暮らしは危険なので、ヨハンの屋敷に移るように言われ、祖母はそのまま友人の家にいたいと言ったので、イレーナと弟だけ居を移した。


 薬屋の二階にはヨハンの屋敷で働いている当時の執事が寝泊まりして、朝ヨハンの出勤と共に会社の馬車でイレーナを店に送ったら執事を乗せて屋敷に戻り、夕方になったら執事を乗せて店に来て、イレーナを連れて屋敷に帰った。


 最終日までヨハンは毎日のように様子を見にきた。

 忙しい仕事の合間にお菓子を届けてくれたり、行列のできるパン屋のサンドイッチを買って昼休みに一緒に食べたり、何かと気に掛けてくれた。


 薬屋は廃業することになった。

 販売許可証を返納して祖母は隠居し、イレーナはヨハンの屋敷を出たら、どこかで下宿のできる働き先を見つけて弟を養っていけたらと思っていた。


 店の最終日、屋敷に戻ったヨハンに今後のことで話があると書斎に呼び出された。



「その時に求婚されたの?」

 頬を染めて口籠っていたイレーナの代わりにクロエが尋ねた。

 頬の朱が顔全体に広がり、はいと言って頷いた。

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