第9話 イレーナ

 翌日、十時過ぎに客室係員が呼びにきた。

 ヨハンと婚約者は仕事部屋に着いているとのことだった。


 数日前訪れた部屋に、ヨハンと彼の肩に届くくらいの小柄な女性が出迎えた。


「おはようございます、ロートバルター様」

「おはようございます、クロエお嬢様。今日はよろしくお願いします」

 早速ですがご紹介しますと言って、ヨハンは隣に立つ婚約者の背中に手を添えた。

「彼女が婚約者のイレーナ・ミュラーです」

 

 亜麻色の髪に緑の瞳をした、まだ少女の面影の残る顔立ちをした可愛らしいという表現が合う女性だ。

 だが、これから咲き誇る花の息吹を感じさせるそこはかとない色気があり、その不均衡が魅力でもある。


 イレーナは緊張しているのか、どうぞよろしくお願いしますと勢いよく頭を下げて挨拶した。

「こちらこそよろしくお願いします、ミュラー様。わたくしも人に教えるのは初めてですので、何かと至らない所もあると思います」

「わ、わたしのことはイレーナと呼んでください。『様』なんてつけて呼ばれる身分じゃないです」

「ではわたくしのこともクロエとお呼びください」

 イレーナは緑の瞳を丸くして頭を何度も振った。

「そんな、貴族のお嬢様で、これから教えてもらう方に呼び捨てはできません」

 上下関係をおざなりにしない人柄は好ましい。

 社交の世界では階級や肩書きなどで対応を変えなくてはならないので、自分で線引きができるのはいい気質だ。


「では『クロエ先生』では?」

「それ! それがいいわ」

 ヨハンの提案に顔を明るくしてイレーナは賛同した。

「あ、それでいいでしょうか、クロエ先生」

 クロエの了承を得る前にすでに呼んでいることはあまり考えていない様子だ。だが無邪気な目で見つめてくるので、クロエはどうぞというしかなかった。

 嫌味にはならず、思わず頬が緩んでしまうのは彼女の素直な性格故だろう。


 ヨハンが彼女に惹かれるのがわかる気がした。


 ノックがあり、ヨハンの秘書をしている男性が時間を告げに来た。

「クロエお嬢様、申し訳ありません。私は仕事で外さなければなりません。二時間後には再度参りますので、それまでイレーナのことをどうぞよろしくお願いします」

 クロエには丁寧に挨拶し、イレーナには髪に口づけを落としてヨハンは退出した。


 ドアが閉まるまでイレーナはヨハンの背中を追い続けていた。


「では、始めましょう」

 クロエの呼びかけに、頬を染めたイレーナははっと我に返ってソファに腰かけた。


 テーブルの上に昨日買った本を出して渡した。

「これは参考になればと思いまして。授業の後で何か確認したいときにお役に立てればと」


 ノックがあり、エリーゼがお茶を持ってきた。

 彼女の淹れてくれた紅茶を飲んでいると、イレーナがじっとこちらを見ているのに気づいた。

 目が合うと、イレーナは気まずそうに視線をキョロキョロさ迷わせる。

「す、すみません。なんか、やっぱり違うなあって思って」

 そう言って彼女は持っていたカップを置いた。

「わたし、クロエ先生みたくできるようになるのかな」

 不安を滲ませた声だった。


「大丈夫です。誰でも最初の一歩は心許ないものです。作法や礼儀は堅苦しく思われがちですが、相手に不快な思いをさせないようにするための心遣いなのです。こういうものは何度もやっているうちに様になりますので、あまり気を張らずにできるだけ楽しんでやってゆきましょう」

 イレーナが顔を上げてクロエを見たので、軽く微笑んだ。すると不安が少し和らいだのか、頬に色が差した。


「今日は初日ですから、授業よりもお茶を楽しみましょう。さあ、冷めないうちにどうぞ」

 イレーナは両手でカップを持ち上げて紅茶を飲んで、笑顔が戻った。今日のところはお茶が美味しく感じられればいい。


「イレーナはアルトキールの生まれなのですか」

「はい。生まれも育ちもアルトキール四区なんです。お祖母ちゃんが一階で薬屋をやっていて、その上の階に住んでたんです」


 四区は港で働く人々が暮らす下町だ。

 イレーナの家はそこで代々薬屋を営んでおり、扱うのはギレンフェルド国内の薬品のみで、主にアルトキールの住民に小売りをしている町の薬屋だったという。


 両親は朝から晩まで薬草の採集に出かけていて、イレーナは両親が帰ってくるまで祖母の薬屋で店番を兼ねて待っていたという。


「お父さんが冒険者だったんです。西の森の近くに薬になる貴重な薬草が生えていたりするので、何度も護衛を頼んでいるうちにお母さんのことが好きになって結婚したそうです」

 だが、両親は西の森で採集中に魔獣に襲われて他界してしまった。

 それから祖母と二人でどうにか薬屋を続け、細々と暮らしてきたとイレーナは語った。

 ご両親のことはお悔やみ申し上げるとクロエが言うと、彼女は小さく頭を垂れた。


「では、今はお祖母様と二人暮らし?」

「あ、お祖母ちゃんは今は友達の所です。家具屋をしていたお祖母ちゃんの友達が旦那さんを亡くしてから隠居したんですけど、寂しいから話し相手になってくれって言われて。もう一人のお友達と三人で郊外の家に住んでます。何度かお邪魔したことがあるんですけど、いつも誰かがしゃべっています」

 賑やかそうな光景が浮かんでクロエも笑みが浮かんだ。


「あと、弟がいます。今五歳で、もうやんちゃで」

 四区の薬屋は今は店を閉じていて、イレーナはこの弟と、ヨハンの屋敷に移り住んでいるとのことだった。

 

 数年前から四区の街改善計画が始まり、区画整備の対象にイレーナの薬屋も入っていた。

「でも、あの辺で薬屋をやっているのはうちだけだったし、医者は高いからよっぽどのことじゃないとかかれないから、うちがなくなると困るとみんなに言われて最後まで立ち退かなかったんです」


 だが、周囲も徐々に立ち退いていってイレーナの店だけになると嫌がらせが始まった。

 業者は日を置かず何度も来て、早く出て行ってくれたら工事も余裕ができて楽になると言われ、来客中に壁やドアを蹴られたり、柄の良くない人が来て長時間居座って本当に困って来店する人を追い出したりし始めた。


「まあ、大変でしたね」

「でも、うちがなくなると四区の外れまで行かなくちゃならないんですよ。薬って急に必要になったりするじゃないですか。店の通りを挟んだ向かいは区画整理外なんで、近所の人達が安心できるようにできるだけ立ち退きを最後まで伸ばしたかったんです」


 日々繰り返される嫌がらせに祖母と弟は怯えはじめ、イレーナは祖母の友達の所に、二人を預けて店には一人で出ていた。


 そんな時に、ヨハンが店に来た。

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