第8話 銃
元々体が丈夫ではなかった母が亡くなったのは三年前。それから二年後に父も流感に罹り、発熱してから三日後に突然息を引き取った。
あまりに突然だったので、直後はそれが信じられず、葬儀になってもこれが本当の出来事なのかと半分疑っていた。
葬儀の後、親戚が集まり、伯爵家と領地のことで話し合いが待たれた。
フロレンス国では女子に相続権がないので叔父のギョームが継承すると言い出した。
だが一人娘のクロエには婚約者のジェロームがいて、彼が婿入りして伯爵を継ぐことは父が生前に作成していた遺言書にも書かれており、叔父の主張は認められなかった。
ジェロームは隣接する領地の男爵家の三男で、男爵としても家格が上の伯爵家に息子を出すことには納得していた。
クロエはそれを盾に叔父の継承を阻んできたが、二か月後、盾はあっけなく叩き落とされた。
肩を丸めたジェロームが伯爵家を訪れ、婚約破棄を申し出たのだ。
好きな人ができたのだと告げた。
相手は先月に茶会で出会った侯爵令嬢だという。
聞き慣れた柔らかい声が、聞いたこともない言葉を繰り出す。
出会った瞬間に恋に落ちたと。
それから何度も何度も謝って、泣き出してしまうのではないかと思うくらい許しを乞うてきた。
小さい頃から知っている男の知らない顔だった。恋をしている男の顔。こんな表情は長く一緒にいたのに一度も見たことはなかった。
彼もここで婚約破棄をしたらクロエがどんな立場になるか承知しているはずだった。
それでも叶えたい思いがあったのだ。それだけ思いは強いということの証だと思った。
ずっと彼と手を取って歩いていくと思っていたのに、彼は手を離して違う道へ行こうとし、クロエは道に取り残された。
婚約破棄は正式に決まり、叔父は早速伯爵位の継承権を主張して屋敷に移り住んできた。
クロエは喪があけるまでは屋敷にいてもいいが、それまでに身の振り方を考えておくようにと言われ、居住を屋敷の敷地内にある離れに移された。
クロエの乳母をしていたソフィーだけが使用人としてつけられ、屋敷への出入りはほとんど許されず、着替えはもちろん水汲みから食事、風呂の用意など生活のすべてを二人で分担しなくてはならなかった。
その生活の中でも身の振り方も考えなくてはならなかった。
一般的な教養を活かして家庭教師をするのが一番だと思い、知り合いの中で年頃の令嬢がいる家に話をしてみたが紹介状もないので難しいと言われた。
すでに決まっているのでこれ以上雇うのは無理だとも。
婚約破棄された経緯も知れ渡っていて、醜聞のある者を雇うのを忌避する様子も見られた。
何か欠陥があるから婚約破棄されたのではないかと、暗に言われたこともあった。
断られたら継続する意欲もその都度削られていった。
次に話を持っていく気力もなくなり、自分がいなくても充分に回っている社会の中で、誰かに相談もできずに孤立し、時間だけが過ぎていった。
そんな手詰まりな状況で、父の旧友であるアルトキール公爵から手紙が来た。
婚約破棄のことを聞きつけて心配してくれたようで、何か手伝えることがあればいつでも連絡してほしいとあった。
クロエはすぐに手紙を書いた。ギレンフェルド国へ行きたいと。
ギレンフェルド国なら言葉もわかるし、マナーや礼儀作法も習っていた。
公爵の紹介があれば仕事も容易に見つかるのではないか、という浅ましい考えがなかったとはいえない。
だが、ここで一人で頑張る気力はもうなかった。
ソフィーは老齢で膝の調子も良くないのでついてゆくことはできず、クロエが旅立ったら屋敷勤めを退いて娘夫婦のところで暮らすことになった。
叔父に出立のことを相談しても、自分の娘の社交界デビューの準備があるので人員は割けないと取り合ってもらえなかった。
一人で二週間も旅に出ることに不安は募ったが、取りやめることはできなかった。
ギレンフェルド国からは証書が届き、寝起きしているこの離れもクロエが出て行った後に改修工事をすることが決まっていた。
代々伯爵家に仕えている執事のサニエが訪ねてきたのは、離れの整理をしている時だった。
役に立つことがなければそれに越したことはないのですがと言って、小さな箱を渡した。
父が生前護身用に携帯していた拳銃だった。
残念なことに何度かこの銃を出した。
一人旅はそれだけ危険と隣り合わせだった。
宿の店主を買収してクロエの部屋の鍵をもらい侵入してきた男は、銃を見ただけで尻込みして逃げていった。
それから寝る前にはドアの前に椅子をかませたり、動かせるようならチェストを置いて寝るようにした。
小さな町で路地裏に連れ込まれた時はさすがに発砲した。
銃声を聞きつけた人がすぐに駆けつけてくれたので事なきを得たが、その日は怖くなって乗合馬車で知り合った里帰り中の母子連れと、子供の面倒を見るのにかこつけて一緒に泊まった。
旅の途中でローズ大聖堂に立ち寄って旅の安全祈願をした。気休めだとはわかっているが神のご加護に縋りたかった。
父の銃と神様のご加護で、これ以上この旅で怖いことも嫌なことも起こらず終わるようにと願い、祈った。
クロエは大聖堂で買ったネックレスを服の上から握りしめた。
旅は終わり無事に公爵と会えたが、これからまだ生きていく上で何度となくこの二つには頼ってしまうだろう。
ジェロームの手は他の人に差し出されていて、彼を頼りにすることはできない。
手を伸ばしても、もう届かない場所まで来てしまっている。
クロエは胸の奥に空洞ができて、冷えた風が通り抜けたように感じた。その冷たさは頭のてっぺんから爪先まで染み渡り思わず身震いした。
親が決めた婚約だったが、それでも彼の存在にどれだけ助けられていたことか、今になってようやく思い知った。
ドアをノックする音が聞こえて、クロエは慌てて銃を鞄にしまった。
客室係員が手紙を持ってきた。
ヨハン・ロートバルターからだった。
明日、家庭教師をする彼の婚約者と引き合わせるとのことだった。
クロエは姿勢を正し、大きく息を吸って吐いた。
気持ちを入れ替えなくては。ようやく掴んだ自活への第一歩なのだ。
実績のない自分に依頼してくれたヨハンには感謝する。
その恩に報いるには、彼の婚約者が不安なく社交界に乗り出していけるようにできる限りのことをしなくてはならない。
クロエは文机の上のランプの明度を最大にして、自分用に買った本を開いた。
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