第7話 パトリス
「いた、お嬢様!」
通りに面した柵を掴んで、ホテルの制服を着た男が叫んだ。
よく通る声は店内の客や従業員、通りを往来する人々の耳目を引き、視線がクロエらに向けられる。
ホテル従業員の声を聞きつけてマティウス・ロートバルターが駆け寄り、柵を軽々と乗り越えてクロエのテーブルに歩み寄ってきた。
「こちらにいらしたのですね、クロエお嬢様。今、ホテルでは大変な騒ぎになっておりますよ」
総支配人が供の者を人選中に勝手に抜け出したので、クロエは行方不明扱いになっており手の空いている者を駆り出して大捜索になっているという。
宮殿に立ち寄っていないか訪ねてきたホテル従業員によって都長の耳にも入り、マティウスが捜索に助力するよう命令が下された。
「でも、わたくしは本屋へ行くと申し伝えたはずですが」
「お一人で、ですか?」
外出する時は供の者をつけるようにとヨハンにも言われていた。
だが、ホテルから本屋まで十分くらいだし、昼で人通りの多い目抜き通りだから一人で行っても大事になる可能性は限りなく低い。
実際に、今現在まで何事もなかった。
しいて言うなら、ソニーに鰺のフライ定食を横取りされたくらいである。
マティウスは乱れて額にかかっていた銀色の髪をかき上げてホテル従業員の所へ行き、クロエを後で送っていくから無事なことを知らせるようにと各所への連絡を頼んだ。
「すみません。ご迷惑をかけるつもりはなかったのですが……」
つもりはなくても、結果としては多くの人の手を煩わせてしまった。ホテル従業員もマティウスもそれぞれの仕事があるのに、クロエ一人を探し出すのに街を駆け回っていたのだろう。
クロエは席を立とうとしたが、マティウスは逆に空いている椅子に座った。
「ご無事で何よりです。お送りしますので、帰るのはお召し上がりになってからで構いません」
席に座ると空かさず、給仕の男性が注文を取りにきた。飲食店では椅子に座ったら何か頼まなくてはいけない不文律がある。
マティウスはコーヒーを頼んだ。
「きゅう」
甲高い鳴き声がした。
鯵のフライ定食を完食したソニーがテーブルの上を歩いてクロエの目の前まできた。紺碧の瞳でクロエを見つめている。
パトリスが首根っこを掴んで摘み上げた。
「早く食べな、クロエ。またこいつに狙われるよ」
小さい体で、人間でも満腹になる量の定食を平らげたのに、これ以上まだ入るのだろうか。
だが、細い足をばたつかせて、きゅうきゅうと鳴く姿はさすがに憐れだった。
「可哀想ですよ。離してあげてください」
パトリスは目を眇めてからパッと手を離した。彼の肘の高さから落とされたソニーは難なく着地し、クロエの腕を伝って肩に乗った。
「きゅう」
クロエの頬に鼻面をなすりつけた。
少しうねりのある金色の体毛は子猫の毛のように柔らかく、クロエは手を伸ばしてソニーの首元を撫でると気持ちいいのか、紺碧の瞳をうっとりと閉じた。
可愛い。
魔獣という未知の野生の生き物でなかったら連れて帰りたい。
クロエはずっと撫でていたい思いに切りをつけて、ソニーの体を持ち上げてテーブルに下ろした。
機嫌良く金色の大きな尻尾を揺らし、ソニーは店内へと行ってしまった。
いつの間にか満員になっている店の中を走り回り、若い女性からの歓声を集めている。
「あいつ、あざといな」
テーブルからテーブルに飛び移ってその度に食べ物をもらっている。
「いやあ、でもお陰でうちは満員御礼ですよ」
給仕の男性がいい笑みでマティウスの前にコーヒーを置く。
「何せ、縁起物のソニーがいるってんで、客入りが増えてねえ。おまけにおにいさんのような色男がいるんじゃ、今日の昼はいい売上なるんじゃないかな。だからごゆっくりどうぞ」
同性の賛辞にも慣れているのか、マティウスは鼻を鳴らしてコーヒーを飲んだ。
これ以上彼の機嫌が悪くなって午後の仕事に支障が出ては周りの人が大変なので、クロエは少し冷めた食事を再開させた。
「ところで、彼は?」
少し剣のある言い方でマティウスはパトリスを見た。
「あ、彼はパトリス様です。隣り合わせただけでしたが、ソニーのことを色々教えてくださったのです。冒険者をしていらっしゃるそうですよ」
「そうですか。どこのギルドに所属している。階級は?」
最後はクロエではなく、パトリス本人に直接問いかけている。
「アルトキール冒険者ギルド第一支部、パトリス・ケラー、剣士で階級はA」
革の上着の内側につけていた所属ギルドと身分を証明するバッジを外して、マティウスに差し出した。
クロエはそれを見てもよくわからないが、マティウスはじっくり検分した後でパトリスに返した。
「あんた、その紺色の制服は宮殿勤めの役人だろう。こんなところで油売ってると税金泥棒って陰口たたかれるぞ。クロエは俺が送っていくから、とっとと仕事に戻んなよ」
「チンピラがお嬢様を気安く呼ぶな。ふん、役人を泥棒呼ばわりできるほどお前は高額納税してるのか。食い終わったなら早く出て行け」
「誰がチンピラだ。俺は貴族からの依頼もあるA級だぞ。あんたと違って体張ってんだよ。飯時くらい好き勝手したっていいだろう」
「つべこべ言ってないで、依頼を一つでも多く減らして、世のため人のためにその無駄な筋肉を使ってしっかり働いてこい」
クロエはギレンフェルド国の標準的な言葉はわかるが、二人が話す言葉はアルトキールの独特の言葉遣いなのか、半分も理解できなかった。だが、決していい雰囲気ではないことはわかる。
だから、ここで自分にできるただ一つのこと、早く食べ終えて帰路につく、それだけに専念するしかなかった。
「ごちそうさまでした」
いつもより早いペースで食べたので少しお腹が苦しい。
それよりも火花を散らしている二人に挟まれている状況の方が息苦しいので、クロエは給仕を呼んで手早く勘定を済ませた。
またいつでも来てねと給仕は愛想よく送り出してくれた。クロエではなく、マティウスやパトリスに向けての言葉だろう。
満席の店内はほぼ若い女性だ。
通りに出ると、パトリスはふんふんと鼻を利かせて周囲を見回した。
マティウスは肘を突き出し、エスコートすると示している。
ホテルまで十分くらいなのにと思いつつ、拒否するのも失礼なのでクロエは手を添えた。
「じゃ、俺ここで。クロエ、これからはあまり一人で出歩かないようにね」
「いろいろありがとうございました、パトリス様」
パトリスは笑うと目が糸のように細くなり、口がきれいに半月形になる。人懐っこい笑顔だった。
それからマティウスを見た彼の顔は、気のいい青年の面影はかけらもなかった。
二人は顔を合わせると頷いた。
「私は都長補佐のマティウス・ロートバルターだ。守衛に私の名前を言えば取り次いでもらえるだろう」
何の話だろうかとマティウスを見ても、答えは聞かせてもらえない表情だった。
パトリスは踵を返して人混みの中を進んで行った。
クロエはマティウスに促されて通りの反対方向に歩き始める。
ホテルに着くまでマティウスからこんこんと説教をされ、今後外出する時には必ず供の者をつけるように厳命された。もし守れなかったら外出制限するとまで。
大袈裟と思わないでもないが、マティウスの顔は冗談の欠片もなく、それを破れば抗弁も許されずに軟禁されそうだった。
部屋に着くと総支配人が即座に来て、無事で良かったと泣きつかれた。
ホテル全体に迷惑をかけたのは間違いないので、クロエもこれからは自重すると申し出た。
各所にお詫びをして回り部屋に戻ったらどっと疲れが出た。
クロエは文机の上の鞄から今日買った本を取り出した。
そしてその時に触れた、鞄の底にしまっておいた拳銃も。
「みんな心配しすぎだわ。わたくしはここまで一人で来た実績もあるのに」
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