第6話 ソニー
ここ数日はエリーゼと共に観光に行ったり、都長のフィッシャーに面会したり、ヨハン・ロートバルターと家庭教師の授業内容について打ち合わせしたりと、常に誰かと一緒に行動していた。
今日はエリーゼが休みで、特に予定もないのでクロエは一人で街に出ることにした。
フロントで総支配人に見つかり、出掛けるなら供の者をつけるのでお待ちくださいと止められたが、本屋に行くだけだからと断って逃げるようにホテルを後にした。
アルトキールはギレンフェルド国の中でも治安のいい街であり、港や裏道、時間に気を付ければ女性が一人で歩いていてもさほど危険はない。
クロエは目抜き通りのリントナー通りを行き、先日観光中に見つけた街で一番大きい本屋へ入った。
ヨハンの婚約者にはこの国の礼儀作法と言葉遣いを教えることになった。
相手の女性にまだ会ったことはないが、歳は二十歳、平民で今まで社交とはまったく関りのない社会で生きてきたので、一から教えてほしいと依頼された。
クロエも人に教えるのは初めてなので、どこから教えていいのかもわからない。なので参考にできる本があればと思ったのだ。
間違えたことを教えて恥をかくのは彼女だけではない。
ヨハンやひいては彼の会社全体に及ぶ。そしてこれからの自分の仕事にも影響が出るだろう。
そうならないためにも、正しい知識を得る努力をクロエ自身もしなくてはならない。
本屋であれこれ迷ったが、手頃な厚さと値段の本を二冊買った。一つは婚約者に渡し、一つは自分用にする。
本屋を出て懐中時計を見ると午前十一時。
足も疲れたので少し早いが昼食にしようと決めた。
本屋から数軒離れたところにナイフとフォークが交差している飲食店の看板があり、その下に『ノイマン』と店の名前が入っている。
乗合馬車で一緒になった元漁師の男性が教えてくれた店だ。お勧めは鰺のフライ。
クロエは迷わずその店に入っていった。
昼前だが店内は三分の一の席が埋まっていて、茶色い髪の少し腹の出た中年の給仕の男性がクロエをテラス席に案内した。
メニュー表を見ると、鰺のフライとパン、スープとサラダが付くお得な定食があったのでそれを注文する。
「お嬢さん、運がいいね。最後の鰺フライ定食だよ」
メニューをよく見ると数量限定とあった。ギリギリで間に合ったようでほっと息をつく。
テラス席は板張りで地面より一段高くなっており、リントナー通りに面しているところは腰の高さの柵がある。
大通りは多くの人が行き交い、髪や肌、目の色も様々だ。外国船も寄港するので人種も多種雑多なのだろう。
少し高い声で歩きながら話している黒髪の男性二人は東の国の人種であると思われた。何を言っているのかは当然わからず、耳新しい難しい発音をしていた。
家の図書室で海の向こうの大陸の本があって読んだことがあり、土地が違えば多様な習慣があることを知った。
そして図書室では想像するだけだったものが、ここには目の前にある。
遠くに来てしまったのだとクロエは急にここが外国であることを意識した。
生まれ育った家を離れて、ここで暮らしていかなくてはならない現実も。
隣にはもうジェロームがいないことも。
鳶色の髪と目をした元婚約者の顔が浮かび、クロエは無理矢理頭打ち消した。
気持ちを切り替えようと、肩紐を斜め掛けにして膝の上に載せている鞄のふたを開けて先程買った本を出そうとしたその時、給仕の男性が現れた。
「お待ちどおさま」
トレイがそのままテーブルに置かれた。黄金色の鰺のフライは揚げたてで湯気がたなびいている。
これは熱いうちにいただかなくてはとクロエがナイフとフォークを取った時だった。
テーブルの上にぼとっと金色に光る玉のようなものが落ちてきた。
何事かと驚きのあまり動けないでいると、金色の光は次第に収まり、小さな犬のような狐のような生き物がそこに現れた。
そして、ぱくっと鰺のフライに食いついた。
金色の毛並みはすこしうねりがあり、細い足先と大きな三角の耳の先端だけが白い。少し尖った鼻と口で、ふわふわの尻尾は体長と同じくらいある。
特徴的な大きな目はこの先に広がっている海のような紺碧だった。
家にあった図鑑でも博物誌の雑誌でも見たことがない生き物だ。
クロエはナイフとフォークを持ったまま、目の前で楽しみにしていた鯵のフライが食べ進められていくのを呆然と見ていた。
「ソニーだよ」
隣に座っていた男性が親指で金色のそれを指し示す。
「西の森に棲む魔獣だよ。時々街中に現れるんだ。人間の食うものなら何でも食うからこういう席は狙われやすいんだよな」
男性はクロエのテーブルの空いている席に移ってきた。
短い砂色の髪と若草のような色の瞳をした男性は、三十代前半か半ば。革の上着の下のシャツは胸の半ばまで開いていて日に焼けた立派な胸筋が見える。
「街ではソニーが住みつく家は幸運が訪れると言われている縁起物なんだけど、もしなんなら駆除するよ」
「駆除?」
「西の森に返すだけなんだけど。俺、ギルドに所属する冒険者なんで」
魔獣と聞いて驚いたが、鰺のフライを一心不乱に食べている姿を見ていると不思議とこのままにしてあげたい気分になる。
余程お腹を空かせていたのだろう。せめて食べ終わるまで邪魔はしたくない。
「おや、ソニーだ。珍しいなあ」
声を掛けてきたのは先程の給仕の男性だった。テーブルの上のソニーを見て笑顔がこぼれている。
「お嬢さん、すまないね。鰺は終わっちゃったけど別のものをすぐ用意するよ」
給仕は足早に厨房に連絡しに行った。
「この生き物は人に危害を加えるのでしょうか」
「時々食べ物を盗み食いするくらいかな。今のところは」
「では、これはわたくしのおごりにします。縁起物を駆除しては罰が当たりそうですもの」
ふうんと唸るように言って、冒険者の男性は元いたテーブルからコーヒーとサーモンスライスの挟んであるバゲットを持ってきてこちらのテーブルでかぶりつく。
「あ、俺、パトリス。お嬢さんは……この国の人間じゃないよね?」
「はい。フロレンス国から参りました。クロエと申します」
何ですぐに外国人だとわかったのだろう。それを読み取ったのかパトリスはにやりとした。
「この国の人間とは違う匂いがしたから」
「匂い、ですか?」
雰囲気ということだろうか。ギレンフェルド国独特の隠喩か何かだと思ってクロエそれ以上深く聞かなかった。
「はい、お待ちどおさま」
給仕が新しいプレートを持ってきた。
「白身魚の香草焼きだよ。これも店の人気メニューだから」
スパイスの効いたいい匂いが漂う。ソニーも一瞬こちらをちらりと見たが、パトリスが睨むと鰺のフライに戻っていった。
「まったく、食い意地張ってんな」
パトリスは呆れていたが、クロエは思わず笑み崩れた。
白身魚の香草焼きは肉厚で噛むと弾力があり、淡白な味だが香草が効いて後を引く美味しさだった。
それだけでも美味しいのだが、皿の脇にあるタルタルソースやトマトソースをつけるとまた味わいが変わり、いくらでも食べられる。
「食べ方きれいだね。クロエはいいとこのお嬢様なの?」
美味しいので夢中になっていたが、パトリスにじっと見られていたようだった。
「ふふっ、褒められると嬉しいものですね。ありがとうございます」
出自について他人に語る必要はない。この旅で学んだことだ。クロエは社交用の笑みを浮かべて野菜のスープを啜った。
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