第5話 ホテル
扉を開けると客室の廊下に出た。
従業員用の空間は効率を重視しているのか簡素であったが、表である客室空間は絨毯も壁紙も凝った意匠が施され、華美だがけばけばしいきつさはなく上品にまとまっている。
ヨハンは一番奥の扉の前で鍵を出した。
「仕事用なのであまり広くはありませんが」
ソファが四角く配置された部屋は両隣にドアがあり、右側は書斎で左側は寝室になっているとヨハンは説明した。
リビングになっているここでは会議や打ち合わせなどにも利用されるらしい。
お茶が運ばれてきたのでクロエ達はソファに腰を下ろした。
「ところでクロエお嬢様、道中で鞄を盗まれたということですが、何かご不便はありませんか?」
ヨハンは自身もソファに座りながら尋ねた。
置き引きに遭ったのはフロレンス国内だった。宿で精算をしている時に足元に置いていた鞄を盗まれたのだ。
中に入っていたのは、母が以前舞踏会に着ていたドレスと冬の防寒具類、靴と本数冊だけ。貴重品の入った鞄はテーブルの上に置いていたので盗まれなかった。
旅をする上では特に不便はなかったが、公爵が近いうちに晩餐に招待すると言っていたのでその時に着ていく服がない。
その旨を説明し、街に貸衣裳の店があるか聞いた。
「ではドレスメーカーを紹介しましょう。話は私の方で通しておきます」
「いえ、貸衣装で充分ですので」
これからの生活を考えたら、新しく仕立てても着ていく機会などほとんどないだろう。
ジェロームとの婚約破棄で慰謝料はたっぷりはずんでもらえたので若干余裕はあるがこの先何があるかわからないので無駄遣いはしたくない。
「おい、お前がそんなことをしたらクロエお嬢様に好奇の目が向けられるだろう」
声の低さも言葉遣いも当初とはまったく違うマティウスが兄を睨む。
男性が女性に身につける物を贈れば仲を疑われても仕方ないが、店を紹介するくらいならよくあることだ。
だが、ヨハン・ロートバルターが、となるとそれだけでは済まなくなるのだろう。
金持ちで独身の美男というのは何かと人の口に立ちやすいものだ。
「うるせえな、お前は黙ってろ。ああ失礼しました、お嬢様。ちょっと、ご相談があります」
相談とは意外な言葉が出たのでクロエは続きを待った。
「家庭教師の仕事お探しとのことでしたが、クロエお嬢様はどちらの国の礼儀作法と語学を?」
母国フロレンス国の他に、東隣のギレンフェルド国、西隣のイスパール国、海峡を隔てた北の島国エグラン国だ。
それを聞いたヨハンは腕組みをして考え込んだ。
「やはりクロエお嬢様にお願いしよう。家庭教師の仕事を紹介します。ドレスは給金の一部で支払ったことにすればいいと思います」
クロエはピンときた。
「もしかして、婚約された方にですか?」
正解だったようでヨハンは見事に赤くなり、マティウスは口にしていた紅茶を吹き出した。
「こ、婚約⁈ なんだそれ、お前結婚すんのか」
マティウスは袖で口元を拭う。ハンカチを出す余裕もないくらい驚いているようだ。
「うん、まあお前にも近々説明するつもりではいたんだが……」
「ごめんなさい。わたくし、マティウス様もすでにご存知かと……」
兄弟だからすでに知っているのかと思ってつい口にしてしまった。
兄弟とはいっても事情は様々ある。
いずれわかるにしてもヨハンの中での順序があるだろうから、いきなり他人のクロエが漏洩してしまって申し訳ない気分になった。
「まあ、色々あるだろうからお前のいい機会に説明しろよ。これ以上俺からは聞かねえし、誰かに聞かれてもそれまでは知らねえで通すよ」
「助かるよ。ありがとう」
そういうことなのでお嬢様も気になさらずにと、ヨハンは軽く微笑んだ。
兄弟の仲はともかく、距離感はお互いわかっているような様子だった。
ノックがあり、総支配人が来たのでこの話はそれきりとなった。
三階の客室が空いていたので今晩はそちらに泊まることになった。
長旅で疲れていたので夕食は部屋に運んでもらい、サラダとパンと魚介のスープだけの軽い食事をした。
「お嬢様、お風呂の準備はいかがいたしましょうか」
ヨハンの付けてくれたメイドのエリーゼが夕食を片付けた後に尋ねてきた。
このホテルには一階に大浴場もあるが、各部屋にも浴室がある。
西の森の奥に温泉の湧き出しているところがあり、そこから地下の水道を通してアルトキールの街に引き入れていると、支配人が説明していたのを思い出した。
クロエは部屋にある浴室で入りたいと言って準備をお願いした。
部屋の右側にある扉を開けると、異国風の幾何学的な模様の全面タイル張りの浴室に、足を伸ばしても余裕のありそうな陶器のバスタブがある。
エリーゼが壁面に設置されている赤と青のボタンの赤い方を押すと、蛇口からお湯が出てきた。
「この赤いボタンを押すと、温泉のお湯が出てきます。青い方は水で、ぬるめにしたいときにはこちらを押してください」
流れるお湯に手を入れた。丁度いい温度だったので、そのままでいいと伝える。
入り終わったらバスタブの底にある丸い栓を抜けば管を通して排水されるようになっている。
「お湯を沸かして運んだり、片付けたりする手間が掛からないのはいいわね」
「はい。他所からいらっしゃる方はそうおっしゃいます」
エリーゼは生まれも育ちもアルトキールなので、風呂を沸かすということを今までしたことがないと言った。
「家は内風呂がありませんので、仕事帰りに大衆浴場を利用します」
「大衆浴場?」
「はい。アルトキールの街には五か所のお風呂屋さんがあって、それぞれ趣向を凝らしているんです。北国風のノルド浴場はサウナもあるんですよ」
スッド浴場はヤシの木やシダ等の温かい気候で育つ植物があり、エスト浴場はお城のような内装で、入湯料とは別料金でマッサージも受けられるという。オスト浴場はこの国の高名な画家が描いた壁画があり、このホテルから一番近いツェントラル浴場は周囲に飲食店が立ち並んでいて、お風呂上りに一杯引っかけたい男性に人気が高い。
面白そう。いつか余裕ができたら全部回ってみたい。
楽しみが一つ増えたとクロエは口の端を上げた。
服を脱ぐのを手伝おうとしたエリーゼに、後は自分でできるから今日はこれでもういいと言った。
「え? ですが……」
「今日はありがとう。また明日、よろしくね」
半ば強引にエリーゼを部屋から出した。
ヨハンは気遣ってくれたのかもしれないが、クロエはここ一年あまりはほとんどメイドの手を煩わせることなく生活してきた。
貴族の令嬢らしからぬことであるが、一人の方が気楽なのだ。
クロエは施錠を確認し、念の為にドアノブの下に文机の椅子の背もたれを噛ませてから浴室へと戻った。
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