第3話 恋

 香りのいい紅茶を一口含んだが味わう余裕などなく喉に流し込む。ちらりとロートバルターを見たが彼も同じようだった。


「まあ、君達には突然の話であると思うが、前々から二人のことは案ずるところがあったのでなあ」

 紅茶を片手に公爵はクロエを見る。


「聞いたよ。子供の頃からの許嫁のと婚約が破談になったそうだな。それも、アンリが亡くなってからすぐだったそうじゃないか」


 正確には父のアンリが亡くなってから二か月後だ。

 肩を丸めて婚約はなかったことにしてほしいと告げる婚約者。クロエは喪服でそれを聞いた。


「破談にになったことは確かですが、だからこの方と結婚しろというのは唐突すぎませんか」

「唐突も何も、二人とももういい歳だろう。この男は二十八歳にもなるのに、仕事しかしておらん。そろそろ身を固めた方がいいのだ。クロエは外国人だが元貴族だし、ロートバルターは平民だが金持ちだ。お互い、補い合える部分が多いはずだ」

 クロエは経済的な援助が得られ、ロートバルターは元とはいえ貴族だった女を妻にすれば、社交の面で有利に働くことがあるかもしれない。


 私情を抜きに考えた場合、利害が一致する。


 しかし、ロートバルターはまだ男盛りだし、嫁にもらうなら自分のような年増より、若くて条件のいい娘がもっといるはずだ。

 クロエも、結婚は今のところ頭にはなく、できることなら職を得てどこかでひっそり気ままに暮らしたいと思っている。


「申し訳ありません、公爵。その話はお受けできかねます」

 先に言い出したのはロートバルターの方だった。


「何を言っているのだ。男が返事をするのは女性の返事があってからだろう」

 再度申し訳ないと頭を下げるロートバルターに、公爵は眉を逆立てる。


「おじ様、落ち着いてください。わたくしは気にしません」

 クロエは公爵の眉が元に戻ったところでロートバルターを見た。


「ロートバルター様、どなたか心に決めた方がいらっしゃるのですね」


 問いかけられた男の顔は徐々に赤くなり、頷いてからはいと肯定した。


 そうでなければ礼を欠いてまで断りはしないだろう。


「貴様、少し前まで恋人もいないし結婚も考えてないと言っていたではないか。私に嘘をついていたのか!」

 紅茶のセットが音を立てる程、公爵は力を込めてテーブルを叩いた。


 少し前がどれほどの昔なのかは知らない。だが、


「恋は落ちるものです」


 とクロエは言った。


「たとえそれが一瞬であっても。落ちるものだから誰にも止められないのですよ」

 と付け加えると、ロートバルターは図星だったのか首まで赤くなって頭の後ろをがりがりかいた。 


「ふん、誰なんだ。その相手は。私の知っている人物なのか。結婚するのか」

「まだ正式に決まったことではないので、すべてが整ったら改めて説明と挨拶に伺いたいと思います」


 仕事では即断できるのにだらしないと公爵は鼻を鳴らしたが、クロエはむやみに相手を晒さず、まずは自分一人が矢面に立つ男に、相手に対する愛情の深さと誠実さを感じて好感を持った。


「何だ、せっかくクロエを呼び寄せたのに」

「わたくしのことを気に掛けてくださってありがとうございます。ですが、わたくしは結婚はしません」

「何を言っているのだ、クロエ。まだ諦めるのは早いぞ」

「申し訳ありません、わたくし、ここに来る前に決意していたのです」


 クロエは公爵に向かって背を正した。

「働いて慎ましく暮らしてゆきたいのです。つきましては、家庭教師を募集しているお家をご存じではありませんか? ちなみにフロレンス国とギレンフェルド国の他に、イスパール国、エグラン国の語学と礼儀作法に通じております」


 言い終えた時、ふとロートバルターが扉の方を見た。何か叫ぶような声がしたのだ。


「いいからどきなさい!」

 甲高い怒鳴り声がして制止するのを振り切り、ドアが大きな音を立てて開いた。


 入ってきたのは年の頃はクロエより二、三歳上と思われる、金髪に青い目の華やかな美人だった。せっかくの美貌を今は目を吊り上げて怒りを隠そうともしない。


「ザビーネ!」

 公爵は彼女の元に寄り、細い肩を掴んだ。

「誰なのよ、この女。まだ明るいうちだっていうのに、執務室に女を連れ込んで」

 公爵が押さえていなかったらクロエに飛びかからんばかりの剣幕だった。


 クロエは立ち上がり、上位の貴族に対するお辞儀をした。

「初めまして、公爵夫人。わたくしは先のリヴィエル伯爵令嬢のクロエ・アデリーヌ・ソローと申します。この度は公爵にご招待いただきフロレンス国より参りました」


 公爵は十年前に妻を亡くし、三年前に後妻を迎えたことをまだ存命中だった父から聞いていた。父とさほど歳の変わらない公爵に訪れた春を喜ばしく思っていたが、それがまさかこんなに若い後添えさんだとは。

 それに、とクロエは公爵夫人のお腹に目がいった。前に少し張り出している。


「まず、お掛けになってください。お腹の子に障りがあってはいけません」

 

 夫にも促されてソファに腰を下ろすが、夫人はなかなか興奮が収まらないのか鼻息が荒い。

 いつの間にかいた都長補佐のロートバルターが、執事に麦茶を持ってくるように指示を出した。


「前に話しただろう、古い友人の娘を呼び寄せていると。両親を亡くし、寄る辺なき娘に縁談の世話をしただけだよ」

 麦茶を啜り、少し落ち着きを取り戻したのか、公爵夫人は夫の言っていることは本当なのかというような目でクロエを見た。

 クロエは頷いた。


 それでようやく状況を把握したのか、公爵夫人は両手で顔を覆った。

「……ごめんなさい。私ったら、いつも早とちりで、迷惑ばかりかけて……もうやだ」

 最後は涙混じりになって、顔を隠したまま俯いて泣き出してしまった。


 妊娠中は普段なら気にならないようなことも過敏になるし、情緒が繊細になることもある。

 公爵は彼女を励ますように労わるように細い背中を撫で、申し訳なさそうにクロエに目配せをした。


「わたくし、今日はこれで失礼致します。公爵と公爵夫人には後日改めてご挨拶申し上げます」

「ああ、すまないな。今度城の晩餐に招待するよ。おい、ロートバルター」


 都長補佐と実業家は同時に返事をした。それが気に入らなかったのか、二人は睨み合う。


「マティウスの方のロートバルターだ。後はよろしく頼む」

 都長補佐の方がお辞儀をした。


 クロエは二人のロートバルターと共に部屋を後にした。

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