第2話 宮殿役所

 シュールス宮殿は以前、アルトキール公爵ディンクハウザー家が起居する邸宅であった。

 現公爵が街の発展と共に港への道程や市街地の中心にある地の利を活かし、ここを議会と役所に変えて商業の振興に力を入れている。


 この議会に参席できるのは、アルトキール領に六つある区の区長と領民の選挙で選出された都長、そして領主の公爵である。


 各区で行政の実務を行うのが区長、国との折衝を含め公爵の業務の代行や補佐をし区長に指示を出すのが都長、この街の地主であり、議会に提出された議案の最終決定権を持っているのが公爵である。


 ロートバルターは都長補佐だと言っていた。

 副都長という役職もあるので、彼は都長の直属の部下ということになるのだろうとクロエは考えを巡らせた。


 二十四歳の自分と同じくらいに見える。

 男性では若輩ともいわれる年齢だが、重要な立場を支える仕事を任されているのだから、彼はそれなりに優秀なのだろう。


 もてるだろうな、とクロエは思った。


「お供の方はどこかで待機されているのでしょうか」

「いいえ、供はおりません。わたくし一人で参りました」


 ロートバルターは足を止めた。急だったので、あやうく背中にぶつかりそうになったが、爪先に力を込めてぶつからずに止まることができた。


 振り向いた彼はブルートパーズの瞳をまっすぐに向ける。

 距離の近さなどあまり気にはしていないようだが、クロエは一歩下がって不適切にならないような間隔をとった。


「お一人で、ですか?」

「はい。お陰様でなんとか無事に辿り着くことができました」


 一人旅は男性でも危険を伴う。女性、まして元貴族の娘が一人で旅をするのはほぼないのだろうと、ロートバルターの険しい顔を見て思った。


 クロエは顎を上げて微笑んだ。

「我ながらよくやったと思います」


 ロートバルターが何か言いかけたが、背後から何か引きずるような音がしてきたのでそちらを振り返った。

 クロエは思わず息を飲んだ。


 水色の水の塊のようなものが廊下を這うように移動している。


「掃除スライムです」

 アルトキールの西に広がる森に生息している雑食の生き物だとロートバルターは説明した。

「埃や塵なども食べて、歩いた後は若干粘液が出ますので床をコーティングしてくれるのです」


 スライムはずるずると移動し、クロエ達の隣を過ぎていく。その後はワックスがけでもしたかのようにピカピカに輝いている。

 思わず感心して、角を曲がって見えなくなるまで目で追ってしまった。


 ロートバルターは何かを口にしかけて、でも何も言わず再び先を歩き出した。


 通された部屋は品の良い調度で揃えられた待機室のようなところだった。

 一礼して下がったロートバルターと入れ替えにメイドが入ってきた。

 着替えをするかどうか聞かれたが、面倒をかけてしまうのも気が引けるので、髪の結い直しだけお願いした。


 メイドも下がり、今度は紅茶が運ばれてきた。

 チェストの上の置時計を見ると、午後の二時過ぎ。窓から秋の黄色味を帯びた午後の日差しが床に差す。


 ソファに座ってじっとしているとまだ馬車に揺られているように感じる。フロレンス国から二週間、ずっと乗合馬車に揺られてきたので、体がリズムを覚えてしまったようだ。


 ノックがあった。

「お待たせしました。会議が終わりましたので、公爵の所へご案内します」


 再びロートバルターの先導で階段を上り、長い廊下を数回曲がった。

 廊下の一番奥の部屋の前で止まり、ノックをする。

「クロエ・アデリーヌ・ソロー様をお連れしました」

 


「おお、クロエ。よく来たな」

 公爵シュテファン・ディンクハウザーが両腕を広げて出迎えてくれたので、クロエは礼儀も忘れて子供の頃のように公爵の首に抱きついた。

「お久しぶりです、おじ様」

 温かい手で背中を撫でられると、自分の中で張りつめていた何かがふわりと緩む。ようやく旅が終わったのだと思った。


 公爵は抱擁を解くと、クロエの顔を改めて見る。目尻の皺が深くなり、公爵の目から涙が溢れてきた。

「聞いたぞ。ここまで一人で来たそうだな。ギョームの奴、自分の姪なのに何て仕打ちだ」


 ギレンフェルド国に行く話を叔父にした時から、一人で行くように言われていた。

 来年、従妹の社交界デビューがあるので、人手はこれ以上割けないと。

 出立の前に挨拶をしに行ったが、現リヴィエル伯爵で叔父のギョームは椅子から立つこともなく、気を付けるようにとだけ言った。叔母も従妹も父に倣って儀礼的に道中の安全を祈るとだけ言って、見送りは昔からいる使用人数人だった。


「ですが、こうして無事に到着できましたので。わたくし、一人でできたことに達成感を感じてております」

 公爵の瞳からとうとう大粒の涙が零れ落ちた。

「本当に何もなかったのか? 怖い目に遭ったりはしなかったか?」

「鞄を盗まれた時は肝が冷えましたが、貴重品類は肌身離さず持っていたので大丈夫でした。それに、親切にしてくださる人もおりましたし」


 鞄を盗まれた時は地元の警察が親身になってくれたし、これから先危険なことに巻き込まれないように何を注意すればいいかなど教えてくれた。


 乗合馬車で一緒だった里帰り途中の母親と子供四人連れとは、子供の面倒を見るついでに宿の同じ部屋に泊まったりもしたし、国境を渡ってから出会った巡礼に行くという老婦人と娘夫婦に混ぜてもらい、食事など共にしてもらった。


 怖いことがなかったとはいえないが、こうして人の親切にも触れることができたので悪いことばかりではなかったように思える。


 それに、と言ってクロエは首から下げて服の内側に入れていた鐘の形をした銀製のペンダントを出した。


「ローズ大聖堂に立ち寄った時に、旅の安全祈願をしていただきました。こうして無傷で辿り着けたのも、神様のご加護があってのことです」

「そうかそうか。ではローズ大聖堂には後で寄付を送ろう」

「まあ、ありがとうございます。おじ様にもきっとご加護がありますわ」

 手を取り合っていると、身じろぎする音が聞こえてそちらに目を向けた。


「ああ、すまない。紹介が遅くなった」

 公爵はそう言ってソファの後ろに立っている男を招き寄せた。


「彼はヨハン・ロートバルターだ。アルトキールで海運業や商店を経営している。商工会議所の次期会長だ」

 男は実業家だけあって堂々とした佇まいで、貴族とも接する機会が多いのか挨拶はそつがなかった。

 クロエも丁寧に挨拶を返した。


 歳は二十代後半から三十代前半。黒髪にミルクチョコレートのような茶色の瞳で、肩幅が広く、胸板も経営者というより労働者のように厚い。


 ロートバルターと言っていたが、ここまで案内してくれた都長補佐と同じ名字だ。

 血縁があるのかと思ったが、物語に出てくる王子様のような都長補佐と、大人の色気を備えた美丈夫の彼はまったく似てない。

 アルトキールではロートバルターという名字が多いのだろうか。


「クロエ、君をここへ呼び寄せたのも、このためでな。このロートバルターと結婚しなさい」


 数秒、何の音もしない時間が過ぎた後、

「は?」

 とクロエとロートバルターは声を揃えて言った。


「公爵、これは一体……」

「どういうことでしょうか、おじ様」

 公爵は困惑する二人に、立ち話も何だからとソファに座るように促し、鈴を鳴らして執事にお茶を用意するように命じた。

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