婚約破棄された令嬢は一人で旅立った
大甘桂箜
第1話 クロエ
街道の並木道を抜けて大小の丘をいくつか越えると、海が見えてきた。
乗合馬車の向かいに座る五歳くらいの男の子は座面に膝立ちになり、窓の外の海を指さす。隣に座る母親も体を捻り、息子の示す海を見ながらアルトキールの街まであと少しだと言って、身を乗り出してはしゃぐ息子が落ちないように支える。
乗合馬車の終点も近づいてきた。
はす向かいに座る若い男は手を組み合わせて斜め下に伸ばして凝りを解し、連れと思われる居眠りしている中年の男にもうすぐだと声をかける。
「お嬢さん、アルトキールは初めてかい?」
隣に座る年配の男性が窓の外に広がる海を見ていたクロエに話しかけてきた。
はいと答えると、男性はアルトキールの出身で元漁師だと言った。
「この時期は日毎に寒くなるけど、海の物は美味しくなるよ。高級料理店でも居酒屋でも新鮮な魚介を使った料理が色々あるからいっぱい食べて楽しんでね」
そう言って、街中にあるお勧めの店とメニューを教えてくれた。
聞いているだけでも口の中に唾が湧いてきて、クロエは目的地に行く前に軽く食事をしてからでもいいかな、などと考えて口角を上げた。
話をしているうちに馬車は城門に入り、停車場で停まった。終点に着いた。
乗り合わせていた客が順番に下り、クロエ
も数時間ぶりに地面に足をつけた。
凝った全身を伸ばしたいが、停車場はこれから城門の外に行く馬車や、街中に向かう小振りの馬車、荷台に山のように荷物を積んだ馬車などひしめき合っていて、それ以上の人目もあるのでさすがに憚った。
話しかけてきた年配の男性と挨拶をして、御者が荷台から下ろした荷物を受け取り、停車場を見渡す。
税関を示す赤い掛け看板はすぐに見つかった。
ギレンフェルド国は出入国が厳密に管理されていて、国境や主要都市には必ず税関があり、外国からの入国者は申告を義務付けられている。
クロエの真新しい旅券も国境を越えた時に押した判がある。
建物は税関の他に検疫や警察なども入っている雑居ビルのようで、入り口に案内板があり税関は二階だった。壁にも矢印が取り付けられていて迷うことなく辿り着くことができた。
ドアを開けると、奥にあるカウンターに向かって列ができていた。並んでいるのは五人ほどで、国境にある税関よりは待たされないで済みそうだった。
程なくして順番が来ると、係員の女性に旅券と証書を提出した。係員は遠視なのか、旅券を見る時は眼鏡越しに、クロエの顔を見る時は顎を下げて眼鏡の縁越しに見てきた。
「フロレンス国からいらしたのですね。アルトキールへの来訪の目的は?」
「アルトキール公爵のディンクハウザー様に会いに来ました」
係員は証書に気付いて慌てて精査する。
一般の旅行者なら旅券だけで十分だが、商用や公用での入国ではギレンフェルド側の発行した証書が必要になる。
入国者の身分や滞在日数、目的などが記されており、これがあれば税関の度に書類を記入する手間が省ける。
クロエの場合は商用でも公用でもないが、旅の便宜を図るために公爵が発行してくれた。
証書には 紋章の透かしのある公爵家の特注の用紙で、末尾には印章と公爵の直筆のサインがある。
係員は公爵家の発行した書類と断定したのか、これ以上は何も尋ねず、旅券に丁寧に判を押した。
「よいご滞在を」
満面の笑みで見送られ、クロエは税関の扉を閉めた。
一階に下りると玄関ホールに青い制服を着た男が二人いた。彼らは階上から下りてきたクロエに気付くと足早に寄ってきて敬礼した。
「リヴィエル伯爵令嬢クロエ・アデリーヌ・ソロー様ですね? 我々はアルトキール警察です」
もう『リヴィエル伯爵令嬢』ではないのだが、敢えて訂正はしなかった。
「長旅お疲れ様です。公爵様より、お嬢様が到着しましたら宮殿にお連れするように言い遣っております」
一人がクロエの鞄を持ち、もう一人は玄関を開けて馬車までエスコートした。
馬車に乗り込む時にさすがに周囲の視線を感じた。
犯罪人を輸送する時にも使われる警察の馬車に女性が乗り込んでいるのだから、人々の想像を様々にかきたてているに違いない。
警官二人は御者台に座り、馬車にはクロエのみ入った。
城門の喧騒を抜け、街中へと続く舗装された道を進み、次第に建物同士の間隔が狭くなってくると街の中心へと近づいてくる。
窓は閉めていたが、香ばしい匂いが隙間から入ってくる。繁華街に入るとあらゆる店が軒を連ね、人や馬の数も停車場とは比べ物にならないくらいだった。
ギレンフェルド国の第二の都市だけあって活気がある。
角を曲がると、道幅が広くなり大通りに出た。
馬車同士が擦れ違っても道幅は充分余裕があり、馬車道の両側は街路樹が植えられて、それより外側は歩道になっている。
友人同士と思われる若い女性がおしゃべりをしながら歩く横を、台車を引いて行く人もいる。
アルトキールは北にゴルド海がある港の街だ。輸送の利便を優先するためこのように整備したと旅の本に書いてあった。
左側に塀が続くようになってきた。宮殿の区画に近づいているのだ。
程なくして門番のいる大手門に差し掛かり、検門で一旦停車した。窓を叩いて旅券の提示をするように言われ、証書と共に出した。
「お嬢様お一人ですか?」
「はい。わたくし一人です」
門番は驚いているだろう内面を麦粒ほどにも顔に出さず、旅券と証書を返してきた。
宮殿に入る許可が下りて馬車は正面入口まで進むと、衛兵が入口の両脇に控え、真ん中に官吏と思われる紺色の服を着た男が立っていた。
「ギレンフェルド国へようこそ、ソロー様。長旅お疲れ様です」
紺色の服を着た男が馬車から下りたクロエを労った。
「私はこの宮殿で都長補佐を務めております、ロートバルターと申します。公爵からお話は伺っております。こちらへどうぞ」
男はクロエの鞄を持ち、先に歩き出した。
クロエは目をぱちぱちさせて視界をはっきりさせてから後に従った。
それというのも、前を歩くロートバルターという男は、瞬きするのももったいないような美男だったからだ。
銀色の髪を後ろに撫でつけ、彫刻のように整った造作で、切れ長の目に長い睫からのぞくのは、以前母の宝石箱で見たブルートパーズのような瞳だった。背も入り口にいた衛兵よりも高く、細身に見えるが動くと制服の背面が張り、しなやかな筋肉がついているのがわかる。
クロエも長旅で疲れてはいるが、目が覚める心地だった。
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