私と、Misskey.ioを去るひとの話
ひとりの青年が、Misskey.ioを去ろうとしていた。私は彼と最後に話がしたいと思って、ローカルタイムラインの表通りに面したカフェテラスで、彼と向かい合って、ココアとベイクドモチョチョを頂いていた。だが、とても会話を楽しめるような状況ではなかった。青年は厳しい覚悟で.ioを発つ。アカウントを消去してまでも、だ。私はそれを引き留めることすらできない。
表通りでは今日も少女たちがNSFWブランドのアパレルをまとって歩道を闊歩し、ケモミミの少年は彼女たちに自らの魅力をアピールして引き留めようとする。ツチノコ村上さんやblobcatは女の子の姿やミュータントの姿など、様々に形を変えてミスキストを魅惑して見せる。青年はその様子を、憎々しげに睨んでいるようにさえ見えた。
とても身ぎれいな青年だった。側頭部と後頭部を刈り上げた髪の頭頂部はワックスでキッチリと整えられ、両耳のピアスのパールがMisskey.ioの空の翠色を優しく跳ね返していた。服装も、鍛えた肉体を包むスキニーなインナーの上にオーバーサイズのセットアップを綺麗に着て、エナメルのシューズはいつもピカピカだった。
青年がコップ一杯の水しか頼まない目の前で、私は自分の至らなさに悔やみながら、ココアを一口、そして彼に話しかけた。
「本当に行ってしまうのかい」
「ええ。アカウント削除申請もじきに通るでしょう。たとえ運営の負担になったとしても、それを気にかけてまでここにいる理由がない」
そう言って、彼は首を傾げて鼻で嗤う。私は質問を重ねる。
「今後はMisskey全体からもいなくなるの?」
「分からないですね。そこまでSNSに依存しているわけでなし。もしかしたらこれを機に全部から手を引くかもしれない」
その言葉に、私は軽率な言葉をこぼしてしまう。
「『リアル』が上手くいっているんだね」
「そんなことはないです」
視線を逸らしがちだった青年が、私の言葉を聞いた瞬間に力強い視線でこちらを見据えて、否定する。
「そんなこと全然ない。うまく行ってたらこんな風に.ioに期待して、失望することもなかった。私は.ioに期待していた。でもそうじゃなかった」
青年は震える唇でコップの水を含みながら、ごくり、と音が聞こえるほどに飲み込んで、呼吸を落ち着けようとする。私はその姿を見て、唸りながら腕組みしてしまう。
「そうじゃなかったって言うけど、まだ.ioも道半ばなのだから、みんなで良くしようという風に考えるのは、難しいかい?」
私の提案に、青年は首を振る。
「良くしようにもここでは議論ができない。そもそも議論をする場所じゃないというなら良くしようにも何もできない」
そう言われてしまって、私は反論できなかった。そもそも、反論であるとか弁明であるとか、そういう言論の手法をおろそかにしてきた人間だったから、このザマなのだけれど。
私は青年に向かって、自分ができる限りの言葉を尽くそうとした。
「私はさ、Misskey.ioはお互いさまと思いやりの場所だと思ってたのだけど、僕の思いは君には届かなかったかい」
その言葉に、青年は深いため息をついて、言う。
「貴方が悩んでいる気持ちは分かるけれど、.ioの人間として悩み続ける限り、私には受け入れがたいんですよ。それに、貴方の仰る思いやりであるとか労りであるとかいったものが、もしカスタム絵文字のリアクションシューティングなのだとしたら、貴方は言葉を尽くす努力を怠っていませんか? その言葉を奪われる.ioという空間を私は許すことが出来ない」
その言葉に、私は深い諦観を抱えながら、自分の考えを吐露せざるを得なかった。
「私は君に反論するわけでも、現状の.ioの問題を看過するわけでもないけれど、ここは『正しくない』と言われてきた人が『正しくない』ままでいられる場所だと思う。もし自分の居場所に『正しさ』を求めているのだとしたら、そうだね、確かにここは君の居場所じゃないかもしれないね」
そう言うと、青年は下唇を噛んで俯き、舌打ちをして、私を上目遣いに睨んだ。
「お別れですね」
「すまない。君の味方になってあげられなくて」
「とんでもない。こちらのほうから御免被りたいくらいだ――」
そう言いながら、彼の体はきらきらと砂のように輝いて崩れていき、カフェテラスに吹く風に流されて、Misskey.ioの翠色の空高く舞い上がり、目の前の席から跡形もなく、消え去った。
ここに一つのアカウントが終わった。私は彼に対して無力だった。それは揺るぎ難い事実だったが、かといって、何かすることが果たして「正しい」ことだったのか、私にはわからない。
このところずっと「正しさ」について考えている。ローカルタイムラインの表通りをミスキストたちが行く。その多くがリアルの世界から「正しくない」とされてきた人たちであることは容易に理解できた。Misskey.ioが「濁流」であるとか「ガンジス川」と称されてきた理由だろう。
私は例えるなら濁流に生きる魚で、きっと清流では棲めない。たとえ清流に棲む魚が人々から賛美されたとしても、私は、自分も清流に棲みたいと訴える勇気はない。きっと清流の透明度の中で自分の醜さを直視せざるを得ず、また清流に相応しい美しい存在であろうとする努力に体が耐えられずに、自ら命を絶つだろうから。
Misskey.ioのローカルタイムラインはたしかに濁流だと思う。少なくとも違法な行為が行われなければ私は濁流でいいと思っている。それを善しとしない世情があるなら、その世情のほうを私は御免被りたいくらいである。
しかし、御免被りたくても世情が罰してくるとしたら。そんな恐怖を振り切るように、私はベイクドモチョチョを頬張って、ココアで胃に流し込んで、深呼吸した。
Misskey.ioの翠色の空はそろそろ夕刻、ライムグリーンのグラデーションが東から迫って、真珠色の太陽がその彩度を強くしてビルの間に沈もうとしていた。これからミスキストがローカルタイムラインの表通りに大挙してくる時間だ。私はココアをお替りして、表通りの様子を今日は無心に眺めようと思う。
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