第27話 悪食探偵2

 こんなときにどうしてだか、ぼくは鏡の国のアリスを思い出していました。いえ、正確には、あれを初めて読んだときの気持ちです。ぐんにゃりとねじ曲がった、奇妙な世界。醜いは美しい。美しいは醜い。

 めまいと吐き気。

 ぼくはリビングにいます。フローリングの床に、血だまりが広がっていきます。何故ならばお父さんが刺し殺されているので。たぶん、もう死んでいます。さっきから、包丁の動きにつられて、その身体が動くだけなので。びっくんびっくんと。緩慢に。

 二時間もののサスペンスドラマみたいに、赤い血は本当に赤いのでした。もっと、黒々としているものだと思っていました。案外、そうでもないのかもしれません。それとも、ただ単に、静脈と、動脈の違い? 新しく作られた新鮮な血液と、老廃物を含んで濁ったドロドロの血。でも、ドラマにはないものが、ここにはあります。臭(にお)いです。それから、感触です。ぼくは自分の両手を見ます。ちょっと乾いてきている血は、べたつきます。男の人が高く包丁を振り上げるたびに、ぼくのほうにも血飛沫が飛んできます。それは冷たかったり、あったかかったりします。小さい飛沫は、空中を飛んでいる間に冷えるのでしょう。ぬるい血飛沫を浴びるときは、ぼくは、夏の雨を思い出します。

 膝に何かを感じて、ぼくはビクッと身を引きました。あ、あ、あ。血だまりが、血だまりが、ぼくの、ほうへ。助けを求めるかのように。お父さんの意思であるかのように。どうしてこんなことに。どうして。だから。それは。そんなの知らない。頭が痛い。

 えっと、それで。

 なんだっけ。

 若い男の人がまだお父さんを刺しています。馬乗りになって、両手で包丁の柄を握りしめて、振り上げて、勢いよく振り下ろして。力をこめないと、人間には上手く刺さらないみたいです。ずしゃっ。ぶしゃっ。鶏の皮ってなかなか切れにくいし、南瓜も固いし、人間は、魚とはだいぶ違うので、仕方のないことと思います。もうお父さんはすっかりお父さんでなくなって、赤い塊です。

 それで。

 えっと。

 なんだっけ。

 ぼくは何度か意識を失いかけます。それとも数秒程度ですが、ほんとうに気絶を繰り返しているのかもしれません。どうなんでしょう。分からなくて、時計を見たら、十時半でした。つまり二十二時半。明日は英語の小テストがあります。勉強しなくちゃ。

 はあ。つっかれた。

 男の人は言いました。ようやく、両腕をだらんとおろして、包丁はからんと床に落ちて、それで、えっと、彼は天井を見ました。大きな溜め息をついたあとは、ぐるんと首を回しました。今度は逆方向に回しました。それから、こっちを見ました。

 このいえにみしようのしたぎ、ある?

 ぼくは首を横に振りました。耳鳴りではないのですが、聞こえるものはぐわんぐわんとしていて、意味を理解したのは、そっかあ、と向こうが、今度は下を向いて、フーウッと息を吐いてからでした。

 この家に/未使用の/下着、/ある?

 分かりません。ぼくは与えられているものは全部使っているので、ないですが、お父さんは持っているかもしれません。男の人は、まあいっか、と呟いて、四つん這いになりました。それでそのまま、つまり、服を着たままで、男の人が、おしっこを漏らしているのを、ぼくは気付きました。じんわりと、濡れていく、黒のスラックス。布に染みついたお父さんの血と、おしっこの黄色が、混ざりあって、なんだか、この人が血尿を出してるみたいにも見えます。はあ、と満足げな溜め息をついて、男の人はようやくお父さんから退きました。正座をして、少し笑いました。

 服、着たまま、漏らすのって、気持ちいいよね。

 ぼくは、次に殺されるのはぼくなのだと考えていましたから、頭のなかは、どうやって逃げようか、いや、そもそも逃げるべきなのかどうか、いまさら、必死になっていて、返事をしませんでした。すると男の人が、こっちににじりよってきたので、ぼくは、無意識に後ずさりました。

 気持ちよくなかった?…………ああ、冷えてるね。冷えると、気持ちよくはないよね。

 男の人が、ぼくのズボンに触れます。確かにそこは冷えきっていて、濡れた服がべったり張りついていて、とても快適とは言えませんでした。いつ失禁してしまったのか、ぼくには覚えがありませんでした。男の人はぼくの脚をパンパン叩いて、シャワー浴びようかと言いました。

 熱いお湯を頭からかぶると、少し、頭のなかは、はっきりしました。それでもまだ、夢を見ている心地です。臭いのに嫌気がさして、シャンプーをたくさん手のひらに出しました。こんなことをするとお父さんは怒るのだけど、もう死んじゃってるので大丈夫です。怒られません。そっか! もう怒られなくて済むんだ!

 それに気付くとぼくは、急にウキウキしてくるのでした。ジンジャー&ハーブの匂いも、さらにぼくの気分を盛り上げます。頭も、身体も、とにかく念入りに洗いました。

 ぼくがお風呂に行ってる間に、男の人はコンビニに出掛けていたようです。手と顔は洗面所で洗って、お父さんの部屋着に着替えて、新しい下着と靴下を、買ってきていました。それから、ぼくと入れ替わりに、浴室に入りました。

 ぼくはコーヒーを飲みながら、待ちました。お腹が空いたのに気付きましたが、そこにお父さんの死体があって、胃液とか、排泄物とか、そういう臭いもしていたので、ここで何かを口にするのは、抵抗がありました。こんなに酷い臭いは、田舎の、全然使われていない、ろくに掃除もされていないような公衆便所でしか、嗅いだことがありません。

 男の人は出てくると、通報しなかったんだね、とぼくの頭を撫でました。高校生なので、さすがにそんな子供扱いはされたくありません。厭がってよけると、ごめんとすぐに手をひっこめました。お父さんならもうぼくを殴ってます。その前に、頭を撫でるなんてことはしない人ですが。

「どうするの、これから」

 ぼくは男の人に聞きました。

「どうしたい?」

 男の人の声は、よく聞くと、数学の夛田先生の声に似ていました。でも夛田先生ではないので、これは偽田です。

 どうしたい。

 ぼくは答えられません。今まで自分の人生で、なにかを自分で決めたことなど、あったでしょうか。あるいは、ぼくが望んだことが、一つでも叶ったことがあったでしょうか。今日は殴られませんようにとか、友達とお揃いのゲームがほしいだとか、本当はもっと、植物の勉強がしたかっただとか。

 期待しない。

 望まない。

 何一つ、浮かれてはいけない。

 そういうルールだったはずです。

 だから、こんな状況でなくとも、ぼくにはそもそも答えられないのでした。男の人は、鍵をチャリチャリと鳴らします。それは車の鍵でした。

「車で来たの?」

「うん」

「どっから?」

「……………」

 そもそもこの人は、いつこの家に入ってきたのだっけ。それを考えた途端に、両手がビリビリと痺れて、お腹が痛くなりました。

「ドライブしようか」

 男の人が言います。ぼくは聞きます。

「どこに?」

「行けるとこまで」




 たとえば夜の外出。部屋着のスウェットのまま、外に出掛けること。スマホもお財布も持たないこと。すべてが、ぼくにとっては新鮮でした。車は、コンビニに寄ったあと、高速道路に乗りました。コンビニのおにぎりは、いつも通り美味しいのでした。

 カーラジオはぼくの知らない音楽を流しています。

 このスピードのまま、壁に激突してくれないかな、と何度も思ったのですが、やはり、ぼくの願いは叶わないようでした。途中、サービスエリアに寄りました。トイレは広くて、ちっとも臭くありませんでした。ぼくは夜空を見上げながら、空気をめいっぱい吸いこみました。それからまた、車に乗り込みました。

 人生の終わりだ。

 だからこんなにもゆったりと、夜は優しい。

 最初にお父さんを刺したのはぼくなのです。もう暴力や罵声に耐えかねて、殺そうと決めて殺しにかかったのは、見知らぬ男ではなく、このぼくなのでした。だから、だから、警察に行かなくては。

 男は助手席で大泣きするぼくに、箱のティッシュを渡します。車の匂いのするティッシュを使いきる勢いで、ぼくは泣きました。そしていつの間にか、疲れて眠っていました。

「おはよう」

 目の前には、海が広がっていました。男はぼくが眠っている間、由比ヶ浜まで運転をしていたようです。ゆいがはま。テレビでしか聞いたことのない地名。ぼくは裸足で砂浜を歩きます。波打ち際にも、ちょっと浸かってみます。だって刑務所に入ったら、こんな経験を次に出来るのは、何十年後になるのか、分かりませんから。

 自分のせいにすればいい、と男は言いました。いきなり夜中に、知らない男が家に押し入ってきて、お父さんを刺した。そしてぼくを誘拐した。そんな素敵なストーリィを、男はぼくに提案します。たいへんに魅力的なお話でしたが、ぼくは首を横に振りました。

「自分の罪は、自分で償います」

 男はぼくを抱きしめました。偉いね、強いね。そう言ってくれました。ぼくは本当はお父さんにそういうことをしてほしかった。褒めてくれたり、認めてくれたり、優しいスキンシップが欲しかった。殴るや睨むではなく。

 男の人はぼくを、ぼくの家の近くの交番まで、送り届けてくれました。

「あなたのお名前は、なんですか」

「悪食探偵です」

 男はそう言って笑い、ぼくがまばたきをする間に、車ごと消えていました。とんでもないことをしてしまったぼくだから、今までのことは全て、幻覚だったのかもしれないと、ぼくは思いました。お父さんのことをたくさん刺したのは、男ではなくこのぼくなのかもしれません。それでも、砂浜を歩いた感覚だけは、足裏にしっかりと残っていました。

 自分の罪は、自分で償う。

 ぼくは言葉を頭のなかで何度も繰り返しながら、交番にむかって、歩いていきます。なかにいるお巡りさんが、ぼくに気付いて、こちらを見ました。ぼくの平凡な人生は終わってしまったけれど、これから始まるサイケデリックな生活を、ぼくは少しだけ、楽しみに思えるような、いや、人を殺しておいて、楽しむもなにもないのですが、つまり、悪いものや苦しいことと向き合って、きちんと納得して、受け止めていけるような。そんな覚悟が、ありました。

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