4.初恋なんだよ
―雅人―
「…さん、雅人さんっ」
目の前でトングをかちかちされて我に返った。途端に、洪水が押し寄せてくるがごとく周囲の喧騒が鼓膜を震わせる。
鼻腔をくすぐる焦げた肉の匂いで、『star.b』メンバー達に誘われて焼肉屋に来ていた事を思い出した。
「どうしたんすか、ぼんやりとして」
少女漫画からそのまま出て来たような整った顔立ちのリーダー、
「心ここにあらずって感じ」
そう言いながら、手にしたトングで肉をひっくり返していく。隣の網では肉の取り合いが勃発していた。
「おい
「ごめんごめん、次俺やるで許してー」
「その台詞さっきも聞いたし!」
張りのある声で文句を言っている
軽くため息をつき、眉間に寄った皴を指で撫でる。隣で、苦笑する気配がした。
「今日、俺の撮影が終わってからずっとそんな顔してるよね」
言いつつウーロン茶のグラスについた水滴を拭う瞬の手元を見ながら、思わずぽつりと零した。
「…お化けを見たんだ」
「お化け?」
聞こえたのか、焼いたり食べたりに夢中になっていたメンバー達が、一斉に俺の方を向いた。
「いや、見間違いだと思うけど。…何だかなあ」
「死んだ人?」
怖い事を真顔で聞いてくるのは、グループ最年長の
「怖い事言うなよ。そうじゃなくて…」
「分かったー、元カノだ!」
俺から一番遠い席から、最年少メンバーの
「
「…」
自分の指摘で俺が黙った事に、千隼は目敏く気がついた。
「あれえ、図星?」
「…ちがうっての」
「えー、じゃあ何?」
千隼が身を乗り出してくる。それを遮るように、千隼、と瞬が低い声で名前を呼んだ。
「肉、焦げそう」
「わ!やばい」
「あ、そっちもじゃね」
メンバー達の意識が肉へと戻った。気まずい追及を逃れて、ほっとする。
ふと視線を感じて隣を見ると、頬杖をついた瞬が俺の事を見ていた。目が合うと、瞬きを一つしてから、ゆっくりと視線を逸らされた。
***
会社用のミニバンでメンバー達を順に家まで送り届け、最後に瞬と二人きりになった。
「あ、ちょっと悪い」
胸ポケットで震えたスマホを取り出す。会社からのメッセージに返信していると、不意に助手席の扉が開いた。見ると、後部座席にいたはずの瞬が助手席に乗り込んでくる。
「ん、何」
「飲みに行きましょ」
「あ?」
シートベルトを締めながら、瞬は俺を見て小さく笑った。
「さっき、何か喋りたそうな顔してた」
「…何の事だか」
咳払いでごまかす。
「つーかお前、まだハタチ前じゃ」
「え、何言ってんすか。俺もう、にじゅーいちです」
人の目の前で長い指を二本、一本と立てて見せつけてくる。
「ハタチ前なのは、千隼でしょ」
「あー、そうだっけ…」
諦めてため息をついた。
「どうすんだよ、車」
「代行運転頼めば大丈夫っすよ」
「変な事ばっか覚えやがって…」
言いつつ、行きつけのバーへの道順を頭に思い浮かべ、アクセルを踏み込んだ。
***
”Luce"は、半年くらい前に偶然見つけて立ち寄ってから、時々一人で飲みに来ているバーだ。
控えめな音量のジャズがかかっている店内は空いていた。カウンターの端に瞬と並んで腰かけ、それぞれ好みの酒を注文する。
つまみのナッツの殻をむきながら、他愛無い話をぽつぽつとした。
「お前、彼女いた事とかあんの」
「何すか、藪から棒に。そりゃあ居ましたよ。元は一般人なんですから」
「ふーん。何だっけ、お前。姉ちゃん?」
「そうです。姉がアイドル好きで、勝手に俺の履歴書送ったせいでオーディション受けることになって」
「あー、そうだった。全然ダンス踊れなかったんだよな」
『star.b』としてデビューする前、夜遅くまで瞬のダンス練習に付き合っていた事を思い出す。
「そうそう。雅人さん、俺の為にわざわざ練習曲の振り覚えて来てくれてさ…嬉しかったな」
半分以上中身の残ったままのグラスを指でつつきながら、瞬がこちらを見てはにかむ。
彫刻みたいに整った顔立ちと低い声のせいで実年齢より上に見られがちな瞬だが、照れた表情には年相応の幼さが垣間見えた。
「ん…で、どうなの今は」
「どうって?」
「楽しい?」
「楽しいですよ。姉には感謝してます」
「そう」
グラスに残ったウイスキーを飲み干し、カウンターの中にいる若いバーテンダーに向かって同じものを注文する。
ほどなくして目の前に置かれた新しいグラスを手に取り一口飲む。さっきより度数がきつく感じたのは気のせいだろうか。
「…俺もさ、元はアーティスト志望だったわけよ」
「へえ、雅人さんが」
瞬が意外そうに目を丸くする。
「ちょっとダンスやってた事がある、なんて言い方してたくせに」
「…照れ隠しだよ」
「じゃあ、本気でやってたんだ。どうして辞めちゃったんですか」
「さあな…」
グラスにくっつけた指が滑る。
「…光を、見失ったからかな」
「光?」
「目の前が急に、暗くなったんだ…」
朝陽。―名前の通り、あいつは俺にとって”太陽”そのものだった。
「ずっと一緒にいると思ってたのに…急にいなくなりやがって…」
「誰の事ですか?」
―専門学校時代の事、朝陽の事を話した。
告白した事は伏せて話していたのに、勘の良い瞬は途中で分かってしまったらしい。あっさりと言い当てられる。
「好きだったんだ、その人の事」
「…ああ」
頷く頭が重い。だいぶ酔いが回ってきている。
「告白しなかったんすか」
「…したさ」
「おお。返事は?」
「もらってない」
「何で」
「…あいつ、地元に帰ってから電話番号変えてたんだ」
―朝陽とあんな形で別れた後、俺は所属していたダンスサークルを辞めた。
しばらく時間が過ぎて段々と朝陽の様子が気になり始め、迷いに迷った末に電話を一度だけかけた事があった。
震える指で登録された番号を押しスマホを耳に当てると、聞こえてきたのは無機質なコンピューターの音声だった。
「なるほど。それって」
言いづらそうに、瞬が続けた。
「避けられたってことっすよね」
「…だろ?!やっぱお前もそう思う?!」
思わず瞬に詰め寄る。ぎょっとなった瞬に両肩を押さえられた。
「ちょっと、しっかり。雅人さん…」
「…やっぱ」
「ん?」
「んなわけないよな…見間違えたんだ」
「ああ、今日見たお化けって、そういう…」
「ん…」
こめかみを押さえる。瞼が熱いのは、酔いのせいか、それとも。
「…はは。疲れてんのかもな、俺…」
弱弱しく呟く俺の背中を、ゆっくり瞬は擦ってくれた。
「今もまだ、好きなんですね」
「…ああ」
「初恋だったんですか」
「…ああ、そうかも、な…」
瞬の言葉に頷きながら、冷たいカウンターテーブルに顔を伏せる。
ゆっくり遠ざかっていく意識の中、たぶん俺もですよ、と小さく呟く声が聞こえたのは、気のせいだったろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます