第37話 初お使い その2
目につくものに気を取られての道草なんて、お使いと言えば
エルバの森に流れる川の畔で暫しの寄り道。
可憐な
これはもはやデートなのでは?──と希望に満ちた光の俺はそう感じていたが、漆黒を纏いしもう一人の俺は違っていた。
お前みたいな男が本気で相手にされるとでも思っているのか? 妄想だけならば結構。間違えてもその腐れた手で彼女に触れるな。汚れちまう──などと蝕む言葉で、光の俺を切り捨てる。
とまあ、少し過剰なまでに心の中で葛藤している俺だったが、ここ最近は特に彼女のことが気になってしまう。
ルーチェリアは家族であり妹みたいなもので、この関係を壊してまで俺の勝手な思いを膨らませてしまってもいいのか。嫌われてはいないはず。それでも女心は秋の空だ。俺が気持ちを伝えたとして「私、そんなつもりじゃなかったの……」なんて言われた日には、この心地いい時間が音を立てて崩れてしまう。
それに俺だって、こうして躊躇している時点でまだ意志が固まったとは言い切れない。この程度の覚悟で本当に好きだといえるのか。
(──今はまだ、このままでいいんだ)
俺は「ふう」とため息をつき、靴脱いだ。
川底が見えるほどの透き通った流れに、両足を下ろして腰を上げる。
この熱した気持ちを冷ますためには、大自然に身を任せるのが一番というもの。
俺はルーチェリアに「冷たくて気持ちいい。一緒に入ろうぜ」と声をかけた。
「え~、私はいいよお~」
そんな彼女の返事に俺は、「へえ~そんなこと言うんだあ~。じゃあ、これでどうだ!」と手のひらに掬った水をバシャッと振りまいた。
煌めく水滴が彼女の髪を撫で、その頬へと流れたそのとき、ルーチェリアの唇の端がいたずらに吊り上がった。
「あ~あ、ハルセやっちゃったなあ。水属性の私に水遊びで勝てるとでも思ってるの?」
「ふふ~っ。やる気になったか、ルーチェリア!」
俺たちの第一次水際大戦がここに開幕。
俺とルーチェリアは夢中で水を掛け合った。
手で掛け合うだけに始まり、いつしか彼女は魔法まで。
俺は「魔法は反則だろ!」なんて素で突っ込み、彼女は「え~ここにある水を操ってるだけだし、別によくない?」と唇を尖らせた。
バシャバシャとした戯れはいつしか、ゴバァーンと滝のような轟音となって俺の上へと流れ落ちた。
「あーっ!? ハルセ、ごっめ~ん! やりすぎちゃった、よね……」と慌てて駆け寄り、恐る恐る仰向けに浮かんだ俺の顔を覗きこむルーチェリア。
一方、俺は口からピューッと水を吹き出し、「ぷはーっ! や、やばっ! こんなところで滝行するなんて思ってもみなかったよ」と大きく目を見開いた。
俺とルーチェリアは顔を見合わせ笑い合い、エスカレートしすぎた水遊びを純粋に楽しんでいた。
遊びに真剣になるなんて、いつ振りのことだろうか。行動の意味とかそんなことはどうでもいい。無駄なことほど楽しいし、こうして笑顔になれる。
俺は前の世界で、彼女はこの世界で、辛く苦しい思いを抱きながらそれぞれの命を懸命に灯し続けてきた。
楽しむ時間があってもいいじゃないか。無駄があってもいいじゃないか。辛苦の上に幸せを築くことだって。
静謐に満ちていたこの森も、いつしか俺たちの笑いで賑やかさに溢れていた。
「ルーチェリア、ギブ、ギブアップ……」
「ふふ~ん。じゃあ何でもいうこと聞いてくれるって言ってたしい~、何をお願いしちゃおうかなあ~」
「は? そんな約束、してないだろ……」と目を丸くする俺に、水も滴るいい兎が顔をグイッと近づけて上目遣いで俺を見る。
生唾でゴクリと喉を鳴らし、俺は心の中で、(このまま、時が止まればいいのに……)なんて思っていた。
幸せを噛み締めつつ迎えた、第一次水際大戦の決着。
川べりに腰かけ、清々しい水を肌に感じたまま上を見上げ、風に揺られる木々の木漏れ日を頬に感じる。
お使いも遊びも一生懸命。言われた
異世界での初めてのお使いだが、これだけできれば上出来だろう。ガルだってきっと、「ビハハハハ! よくやったぞ、二人とも」と声を上げて喜ぶはずだ。
川から上がり、地面に大の字になった俺とルーチェリア。
聞こえてくるのは心地いい川のせせらぎ。その音は俺たちを包み、自然の癒しを与えてくれる。
「ふう~、気持ちいいな、ルーチェリア」
「うん。気持ちいいね」
俺たちは水の奏でる調べに、瞼を閉じて静かに耳を傾けていた。
◇◆◇
持ち物を整理し、帰り支度を始める。
忘れ物がないかを確認し、互いに「OK!」っと親指をグッと立てる。
木材を集める目的は達成した。
後は安全に森を抜け、ガルの待つ家に帰るだけ──俺がそう思っていた矢先のことだった。
川を隔てたさらに奥。「ガウゥ……ガウヴァル……」と獣の呻き声のようなものが聞こえてきた。
あまりにも悍ましいその声に、
「な、何だ……。ルーチェリア、静かに退こう」
「う、うん」と動揺を抑えつつ、そろりそろりと後退をはじめた。
「ドスッ、ドスッ」と響かせる恐怖の足音。そして静寂を打ち破る咆哮が俺たちの体を振るいあがらせた。
「ガウヴァール!」
「まずいっ!」
「あわわわわ……」
正体不明の何かは、どうやらこちらの存在に気づいたようだ。ゆっくりとした足取りは「ドドドドッ」とまるで突進する猛獣のように俺たちへと迫りくる。
本能に訴えかけるほどのやばさに、忍び足であった俺たちもそれどころではなくなり、
「ルーチェリア、目印を辿れ。振り返るな! 走れ、走るんだあー!」
「い、いやあ"ああー!」と、まさに死に物狂いで荷物を抱えて必死に走りだした。
ここは薄暗い森の中。時折差し込む強い陽光が迫る巨体の輪郭をなぞって、その影を揺らがせた。
俺たちはその圧倒的な死の恐怖を背にし、ただひたすらに逃げつづける。
目印を辿り彷徨をさけつつ、俺は戦わざるを得なくなった状況を想定し、頭をグルグルと回転させた。
木々の斜影に不慣れな森。敵に対する
いくら考えても分が悪すぎる──とその前に、この森に巨大なモンスターが住んでいるとは、これまで一度も聞いたことがなかった。
小さなモンスター程度であればいくらでもいるが、基本的にはこちらから手出しをしなければ問題はない。特に日中はその数も少なく、静かなものだ。
ガルにしたって、デモンサイズのことを伝えたように事前に知っていれば忠告したはず。とりあえず、勝てる
走ること数分──ここまでかなり走ってきた。もうそろそろ出口だと思いたいが、目印はどれも同じでいまいち距離感が掴めなかった。
俺たちは自らの姿を木々で遮蔽するように森を駆けた。しかし巨大な影の追跡は一向に止まらず、このまま闇雲に走り続けたところで追いつかれるのも時間の問題だろう。
確実にこっちの
「え? ハルセ?」
彼女は疲れを忘れたように目を見開き、俺は二人身を隠せるほどの地面を隆起させて壁を作ると、その裏へと回り込んだ。
「はぁ、はぁ……。いいか? ひとまずこれで乗り切ろう。ただ、気づかれそうになったら、この壁をヤツに向かってぶつけるからな」
「ふぅ、う、うん。わかった。その隙にまた走るんだね」
「ああ。きっともうすぐ出口だ。生きて外に出るんだ」
近づくモンスターの息遣い。思いの外、距離は開いていなかったのか、俺たちが隠れてすぐに「ガウゥ、ガウゥ……」と獣の声を壁越しに感じていた。
俺たちはその場でジッと息を凝らし、壁の向こうに意識を傾けた。
心做しか、巨体の割に足音が小さく聞こえる。右に左にうろうろと、俺たちを探すように歩き回っている。ガサガサと木々を跳ねる音、何かを掘るような音、クンクンと匂いを嗅ぎまわるような音の一つ一つが俺たちの不安を煽る。
「ガゥ、ガウガウゥ……ガウヴァルルゥ……」
壁越しに聞こえる、か細い鳴き声。
まるで力無い抜け殻のように、そして悲し気に俺の耳を打っていた。
しばらくして、謎のモンスターは俺たちの追跡を諦めたのだろう。小さな足音はこの場を離れ、静寂の中に消えていった。
「ハルセ、行ったね」
「ああ、そうみたいだな。でも家に着くまで安心はできない。慎重に行こう」
俺たちは周囲を警戒しつつ歩みを進め、森の外へと無事脱出を果たした。
直上から降り注ぐ陽光に、「ま、まぶしっ!」とルーチェリア目を細めて、「う~ん」っと丸まった背を伸ばすように両手を上げた。
「ふう、何とか振り切れたか」
「そうだね。ハルセってもう何回目?」
「ん? 何回目って、なんのこと?」
「フフッ、モンスターに
「は? 何だよそれ。俺のせいだと言いたいのか?」
緊張の糸が切れた俺たちは軽口を叩き合い、ケタケタと大声で笑った。
確かにルーチェリアのいうとおり、俺はこの世界に来てからというもの、モンスターに追い掛け回されてばかり。よほど縁があるようだ。
いつもの散歩のように意気揚々と歩く俺たち。その瞳にようやく映し出された見慣れた光景は、帰ってきた安心感を与えてくれる。
二人揃って「ただいま」という言葉で帰りを待つ人への無事を伝え、ゆっくりと家の扉を開けると、台所から香ばしい匂いを漂わせ「おう、おかえり」と労う言葉が出迎えてくれる。
俺とルーチェリアは微笑みを交わして「やっぱり、我が家が一番」と口を揃え、出迎えたガルの元へと駆け寄っていった。
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