プールサイドの幻
ぬ
プールサイドの幻
スマホのアラームがけたたましく鳴り出す。なかなか言うことを聞かないネックレスの留め金に害された機嫌が一段と悪化して、
身支度を終えた志乃は
「合コン来ない?」
数ヶ月前まで毎日顔を合わし、そして二度と会うまいと決めた友人は、いかにも大学生らしいメッセージとともに志乃の世界に再び現れたのだ。
事前に伝えられていた店の前には、既に朝香の姿があって、もう一人、志乃と面識のない女性が立っていた。
「ひさしぶり、髪染めたんだ」
「朝香も髪伸びたね」
水泳部だった朝香は当時、女の子としては少し短すぎるくらいの髪だったが、部活を引退してからは髪を伸ばし始めて、数ヶ月ぶりに再会してみると肩甲骨に届くくらいの長さになっていた。一方で、顔周りの髪は長さが抑えられていて、志乃はしばらく時間をかけてウルフカットという単語を思い出した。
「セリナです! アサちゃんとはサークルの同期で、仲良くしてもらってます! さすが、可愛いコの友達は可愛いなぁ」
セリナの口からは流れるようにお世辞が出てきて、志乃は曖昧に笑うしかない。しかしセリナは相手のリアクションを見ていないようで、内巻きと外巻きをミックスしたエアリーな髪を揺らしながら、朝香に髪型の感想を聞いている。頑張りすぎでしょ、と評する朝香は志乃の記憶と変わらない笑顔を浮かべている。水商売の女の子みたいだ、というセリナへの第一印象が自分の内面の暗い部分を反映したような気がして、志乃は誰に責められたわけでもないのに居心地の悪さを感じた。
階段で降りた地下の内装は、スパニッシュバルというにはやや居酒屋然としていた。少し拍子抜けなようにも思われたが、いかにも口説きの舞台のような場を想像していた志乃はひとまず安心した。
案内された席は半個室のようになっていて、六人の参加者に対して八人掛けのテーブルだった。
実際に会が始まってしまうと、合コンの雰囲気は品評会のようでも、接待のようでもなかった。志乃が失礼な第一印象を抱いたセリナと男性側の幹事(彼は派手な見た目に反して
「志乃ちゃんと朝香ちゃん、女子校なんだ?」
「そうそう。志乃は高校からだけど、私は中学からずっと。だからゴロー君とか正直めっちゃ怖いわ」
言葉とは裏腹に、朝香が吾朗を怖がる様子はない。教室で誰にも分け隔てなく飄々と接していた朝香は、男性相手でも変わりなかった。服装も合コンに向けて張り切ってきたという感じもなく、古着らしい黒のシルクシャツに、デニムのワイドパンツを合わせた装いで、まるで勝手を知った友人と会いに来たように見える。グラスに三センチほど残ったビールが、吾朗の筋張った喉に吸い込まれる。
「女子校ってやっぱ女の子同士で、とかあるの? 俺めっちゃ気になる」
志乃はその時、テーブルについた全員と目が合ったような気がした。彼らだけでなく、ホールを忙しなく走り回るスタッフでさえも、足を止めて耳を澄ましているように思われた。身体が、あの日の放課後に戻る。塩素の匂いと、全身にまとわりつくような湿気と、くぐもった残響をいつまでも放さない変色した壁。
「なかったよ」
朝香が答えるよりも先に、志乃は答えていた。男性三人の視線が集まり、志乃は呆然とするようにして朝香を見た。朝香も志乃を見ていた。
「そうだね、なかったと思うなぁ」
朝香がグラスに手を伸ばす。志乃以外の全員が、「えー」と笑う。志乃もグラスに口をつける。ファジーネーブルに浮かんだ冷たい氷は、鮮明な現実感を持っていた。
そうだ、なかったのだ、と志乃は心の中で呟く。
朝香は友達で、私は女の子で、朝香も女の子で、私達は女子校にいた。だからあの時感じたことは、全部なかったことと同じなのだ。
だから私は、気持ち悪くなんてない。
自然に溶け込んでいた場が急にぼやけて、普通という概念と一体化するように感じた。酔いで鈍った感覚が一気に鮮明になって、それなのにすぐに密度を持った現実に圧迫されて視界が白む。金魚掬いの金魚みたいだとを、志乃は思った。
翌朝の朝香からのメッセージには、セリナと吾朗がホテルで一晩を明かしたことが、婉曲に書かれていた。連投されたメッセージは
「あいつ、最初からこれ狙ってたな。二人そろってダシにされちゃったね」
と締められていた。あれがあの六人の最初で最後の食事なのだと思うと、合コンとはなんと不思議な集まりなのかと志乃には思われた(不思議な集まりというと、あの場にいた誰もが合コンという言葉を頑なに使わず、「この会」とか「今日の集まり」と表現していたのも志乃には可笑しかった)。
だが二週間ほどした頃、グループチャットは再度動き始め、海沿いのキャンプ場でのバーベキューが企画された。志乃はSNSを無尽蔵に駆け巡る陰謀論を眺めるような心持ちで、次々に表示されるメッセージを眺めていた。
企画されたバーベキューは、誰に反対されることもなく、八月の第二土曜日に開催された。キャンプ場までは吾朗が運転し、セリナは関係を隠す様子もなく助手席に座っていた。彼の運転はいかにも大学生の運転らしく、スピードを出し過ぎるところがあったが、危険らしい危険を感じることもなかった。
土曜日のキャンプ場は、家族連れ半分と大学生半分といったところだった。酔っ払ってはしゃぐ大学生の声の隙間から幼い子供の甲高い声が覗いていて、どちらが子供なのかわからないなと志乃は思った。セリナと吾朗は今度は漫才師のコンビみたいになっていて、二人だけの世界で軽口を叩き合っていたが、それはそれで空気を和ませるところがあった。
志乃はタオル地のハンカチで汗を拭う。胸元にワニのブランドロゴが入ったポロワンピースはお気に入りで、家を出るときはアウトドアシーンに適しているように思っていたが、黒色は刺すような日光から熱を吸収して離さず、志乃は常に熱を纏っている状態となっていた。
「暑いね。夏って感じ」
朝香が笑いながら、志乃にビール缶を手渡す。ボーダー柄のノースリーブから伸びる腕には無駄な脂肪など一つもないようで、スポーツ経験者が皆そうであるように筋肉の陰影があった。くすんだイエローのハーフパンツはアウトドアメーカーのもので、朝香の曇りのない健全な身体によく似合っている。太陽の光をそのまま反射したような白い肌にはうっすら汗が浮かんでいて、プールサイドに水浸しで座る朝香の姿と重なった。
志乃と朝香が通っていた学校では、三年の夏に水泳の授業があった。最後の思い出作りの一環かと思いきや、二十五メートルを泳ぎ切れない者には補習まである徹底ぶりで、クラスでそれを達成できないのは志乃を含めて三人だけだった。
「朝香、私たちに泳ぎ方教えてよ」
あの時、二人は確かに友達で、志乃にしても、放課後のプールで仲の良い友達と遊ぶなんで青春だな、くらいの感覚だった。
放課後のプールは静かで、何か音を発しようものならいつまでもそれを響かせていそうだった。朝香は水泳部の同級生を二人連れてきていて、泳げない三人にそれぞれマンツーマンで教える気だったようだが、女子高生が集まって真面目に練習なんてするはずもなかった。
何がいつもとは違ったのか、志乃には今でもわからない。水着姿だって授業で見ていたし、朝香の部屋で二人になったこともあった。無駄な脂肪など少しもなくて、鍛えられた筋肉が密度高くしまわれているモデルのように細い身体。志乃にとってそれは彫刻のようなもので、健全な肉体の象徴のように思っていた。しかしあの日、プールサイドに座り込み、立てた膝に小さな顔を乗せた朝香は、性的な何かだった。積み上げてきた関係性や、生まれ持っての性別、今自分がいる場所、全てと無関係に、志乃は自分の身体が朝香を性の相手として求めたのを感じたのだ。困惑した志乃はその放課後、自分の視線をどうコントロールしたら良いかわからず、朝香を見続けていたのか、目を逸らし続けていたのかもわからなかった。
その日は塾の日で、志乃は救われたような気持ちで一人プールを出た。しかし、コンビニで軽い食事を探しているところで、鞄が妙に軽いことに気が付き、教室の机の中に塾の道具の一式を入れたままであることを思い出した。
鈍い自分がそのことに気付いたこと、普段はどれだけ急いでいても意地でも走らないのに走って学校まで戻ったこと、教室に入る一歩を
「志乃、ずっと見てたじゃん」
誰かが話していた。噂話をするような少し歪んだような発声だ。
「そんなことないでしょ」
「いやいや、途中からめっちゃ見てたよ。自覚あるでしょ」
「やめてよ、もう」
朝香が話していた。やめてよ、という言葉が心臓を鷲掴みにした。志乃にもただの相槌だとわかっている。
「でもさ」
聞いてはいけないと咄嗟に思い、踵を返した。
「本気だったらちょっと気持ち悪いかも」
「だよね」
走り出したのに、言葉は逃してくれなかった。
男性陣がカウントダウンして、炭に大量の水をかけた。熱々の炭が妙に爽やかな音を立てて煙を上げる姿は、志乃の眼にも確かに面白く映った。セリナも溌剌と笑っていて、朝香は風下にいたせいで目を細めて咳き込んでいる。周りの空気が、私を普通の大学生と認めている気がして、志乃は息を吸い込んだ。
「もう最悪!志乃、ちょっとあっち行こ」
朝香に肩を叩かれ、志乃は頷く。バーベキュー場からは海なんて全く見えなかったのに、少し歩いて木々を抜けるとそこはもう海だった。さっきの炭の音が、そういえば少し波の音に似ていたなと志乃は思う。波の音を出来の悪い拡声器に通したら、きっとあんな音になると。
「女二人で抜け出して、男の子たちに悪かったかな」
「いいのいいの。合コンなんて一組カップル成立すれば十分でしょ」
朝香は灰白色の堤防によじ登る。志乃も続こうとワンピースの裾を腿まで捲る。朝香と目が合った。
「余りの二人、どう思う?」
余りという表現が可笑しくて、堤防を上っていた手が外れそうになった。ちゃんとしてよ、危ないよと朝香が笑っている。
「ピンと来なかったな。私、好きってあんまりわかんないかも」
「私も」
一段強い潮風が吹いて、朝香の後ろ髪がぶわっと浮かび上がる。夏の夕方の日はまだ空に居残り続けていて、朝香がこの世界の主役かのようにスポットライトを浴びせていた。
わからないのではなく、わかりたくないのだと志乃は思った。一人の人間として、一つの純粋な心として大切にしていた友情だった。太陽の光を浴びる時にいちいち意味を考えないのと同じように、朝香の光を浴びてきた。
朝香が性の対象になって、朝香は友達ではなく女になった。朝香の一挙手一投足が、誘うような美しさを持ち始めた。朝香の言葉の裏に、意味が生まれ始めた。
「私も」と言って欲しくなかった。文学部の佐藤君が好きとか、ダンスサークルの鈴木君が好きとか、別の合コン行こうよとか言って欲しかった。
「放課後にプールで遊んだの覚えてる?」
志乃は自分の声が震えるのを感じた。
「もちろん。あれこそ青春の一ページだよね」
水平線の向こう側を覗いているかのような朝香の視線は全く動かない。あの日について、自分が何を語ろうとしたのか、志乃にはわからなくなっていた。
「志乃はすぐ帰っちゃったよね。あの後、みんなでファミレス行ったのに」
「知ってる。朝香はずっと寝てたことも」
「うわ、由美から聞いたんでしょ」
不思議なことに、志乃は由美の名前を忘れていた。そして、教室にいたもう一つの声の主こそ由美だったことを思い出す。
「あの日のことは忘れられないんだ」
朝香は続きを話さなかった。代わりにどこからともなく取り出した煙草を咥える。吸うのかと尋ねると、たまにと答えて火を付ける。聞けば吾朗から一本もらったらしい。喫煙者同士には不思議な連帯感がある。未成年の彼らがいつ、どのようにその連帯に囚われたのか、志乃にはわからない。
「なんで忘れられないの?」
「気持ち悪いって言われたから」
煙草を咥えた状態で出た声は、変なこもり方をしている。
「なにそれ。人生で初めて言われたってこと?」
無理矢理引き上げた唇の端が痺れる。
「いや、言葉自体はあるよ。でも、ちょっと意味が違ったから」
朝香が細く、透明な息を吐く。何も知らない志乃にも、咥えた煙草がもう本来の役目を失っていることがわかった。
「女の子を好きになった日に、女の子を好きなことを気持ち悪いって言われた。でも自分で納得しちゃったんだよね。私たぶん、その女の子のことめっちゃ目で追っててさ。胸とか脚とか、めっちゃ見ちゃうの」
わかろうとしているのに、まだわからない。あの日と同じだ。
「そしたら次の日から好きになった人が私を避けるのよ。話しかけたら会話してくれるんだけど、もうこっちが可哀想になるくらい作り笑いなの」
笑っちゃうよね、と朝香が笑う。朝香の声が震えている。朝香の視線はもう海原を離れていて、誰もいない堤防の端っこを見つめていた。志乃の目の前にはただ、立体感のある黒い髪が揺れている。
「ごめんね。私、男の子が好きってわからない」
志乃は朝香の背中に飛びついた。震える声に共鳴するみたいに、背中も震えていた。潮の香りと煙の匂いが、朝香の存在をこの景色と同化させようとしている。
「もしかしたら男の子を好きになれるかと思って。志乃が誰かと付き合ってくれたらいいなと思って。そうしたら、そうしたら」
手の甲に水滴が落ちた。雨か汗か、わからない。
「また友達になれるかと思った」
喉が締まって声が出なかった。そこで初めて、志乃は自分が泣いていることに気が付いた。
「楽しかったなぁ」
いつでも騒がしいセリナの声も流石に眠気を含んでいる。志乃から助手席のセリナの表情は見えないが、もしかしたら本当に眠りかけなのかもしれない。
「せっかく今回の合コンは当たりだったのに、俺の一人勝ちかぁ」
吾朗はいつの間にか、隠すことなく合コンと口にしていた。もしかすると、勝者になるまでは出会いのために用意された場を、そうと認めてはいけないのかもしれない。
「普通に考えたらそうだよね」
朝香が呟く。朝香は窓の外を眺めるばかりで、志乃には彼女の表情もやはりわからない。
プールサイドの幻 ぬ @nu_sousaku
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます