第8話 サトシの正体
「記憶喪失って、一体何があったというの?」
と恭子は真理子に訊ねた。
「それがよく分からないの。誰かに殴られたようなんだけど、病院に運ばれた時、サトシさんが私の名前と住所の入った紙を持っていたことで、私に警察から連絡があったんだけど、その紙というのは、私がお店を辞めて、田舎に帰ると言った時、彼にまた会いたいと思って、彼にだけメモで教えておいたものなの。でも、警察から連絡があってビックリしたわ。私は一度田舎に帰ってきたんだけど、また近い将来東京に出ようと思っていたので、今は実家を出て、彼と二人で暮らしているの。彼が記憶を失ったのは、岡山に来てのようだから、彼の記憶を取り戻すには、まずこの土地でやってみようと思ってですね」
と真理子は言った。
「そうだったのね。真理子さんは偉いわよ」
と、思わず言ったが、半分は本心だった。
「みゆきさんは、どうして岡山に? 秋田さんが殺されたのを知ってからのことなんですか?」
「私の本名は、津軽恭子と言います。そっちで呼んでくれると嬉しいわ。それで今のお話なんだけど、秋田のことももちろんそうなんだけど、私はあなたに遭ってみたいと思ったの。まるで砂漠で金を探すようなものかと思ってはいたので、見つからなくも仕方がないとは思いながらも、何もしないという選択肢は私にはなくて、でも、会えるような気がしていたのは、事実かも知れないわ。でも、まさかあなたがサトシさんと一緒にいるとは思わなかった。でも、お話を訊いて、サトシさんが記憶を失っているということなら理解できる気がする。私もどうして彼が気を失っているのか、そして秋田がなぜ殺されたのか、その真相を知りたいという気持ちが強くなりました」
と恭子がいうと、
「私はそこまで知りたいという気持ちは強くないかも知れないけど、少なくともサトシさんの記憶だけは取り戻してあげたいの」
と真理子は言った。
「そうね。きっとサトシさんはあなたのことを好きなんでしょうね。そしてあなたも、サトシさんを好きなんでしょう? 私も同じソープ嬢として、自分の本名や連絡先をいくら田舎に帰るからと言って、簡単に渡したりはしないわよね。それだけサトシさんには全幅の信頼を持っていたということなんでしょうね?」
「恭子さんはどうなんですか? サトシさんに対して。あなたも心安く感じておられたんじゃありませんか?」
「どうしてそう思うんです?」
「サトシさんがお店に来た時、よくあなたのお話をしてくれたんです。よく似た人がいて、似たような境遇であり、共通点が多いってね。それで、一度二人を会わせたいとも言ってくれていたんですよ。それはきっと風俗嬢としてではない。普段の自分たちに戻った間柄でね」
と真理子は言った。
真理子にどこまで自分のことを話したのかが気になる恭子だったが、お互いに遭いたいと思っていたこと、そしてサトシが会わせたいと思っていたことで、三人の気持ちが一致したことを、恭子も真理子も満足しているようだった。
「サトシさんがあなたのところにやってきたのはいつだったんです?」
と恭子は訊いた。
「あれは、四日くらい前ですかね? 秋田さんの死体が発見されたというニュースがまだ自分の中のショックとして残っていた時期だったから、そんなに時間は経っていなかったような気がするんです」
と真理子は言った。
「そうだったんですね。でも、サトシさんが記憶喪失というのは、どういうことなのかしら? 普通記憶喪失というと、頭に何かショックを外的にウケた場合や、ショックな出来事を目撃したことで、精神的な面で陥る記憶喪失とがあると思うんですが、サトシさんの場合はどっちなんでしょうね」
と恭子が訊いたが、
「それは、前者の方ですね。何者かに殴られたようで、頭に傷が残っていたらしいの。今はすっかり治って包帯もとれたんだけど、医者の話では。その殴られた時のショックでの記憶喪失に違いないということでした。私もビックリしたんですが、彼の記憶が戻らない限りは分からないことですよね。でも、最近では、彼の記憶が戻ることが本当に幸せなのかって思うこともあるんです。下手をすると、忘れていることの方が幸せなんじゃないかってね。それを思うと、私のやろうとしている記憶を取り戻すという行為に対して、ジレンマのようなものを感じてしまうんですよ」
と、真理子は言った。
真理子がサトシのことを好きだということは、この会話からも垣間見ることができた。
――ひょっとすると、秋田に裏切られたショックを完全に消してくれたのが、サトシだったのかも知れないわね――
と、同じ秋田から裏切られた者同士、彼女の気持ちが痛いほど分かる気がした。
恭子も真理子ほど強い気持ちではないものの、サトシに対しては好感以上の感情を持っていることは確かだった。
しかし。サトシには気になっている女性がいるのは分かっていたし、それが真理子だというのであれば、恭子はそれを嫌がる理由など何もない。むしろ、
――相手は真理子だというのであれば、私は喜んで二人を祝福できる――
と感じていた。
「そういえば、さっき変なニュースを見たんだけど」
と、恭子は言った。
「変なニュースというのは?」
「秋田が殺されたところのほど近いホテルの一室で、一人の男性が毒を呑んだみたいで、病院に担ぎ込まれたというニュースだったの」
「それでその人はどうなったの?」
「命に別状はないけど、意識不明のようなのよ」
「自殺なのかしらね?」
t、真理子が言ったが、それを聞いて、恭子は、
「あれ?」
と感じた。
真理子は恭子の言った、
「変な」
というところを突っ込んではこなかった。
事件のあらましを断片的に聞いているだけで、一番気になるはずのところを聞いてこないのだ。
――真理子さんのような聡明な女性がこの話題に触れないというのは、わざと触れないようにしているとしか思えない――
と恭子は感じた。
だから、聞いてこないならこっちから触れるしかないと思い、
「実はその男というのが、秋田の名刺を持っていたというの。それで警察は、秋田の殺人事件と重ねて捜査をすることになったようだという報道がされていたんだけど、何か話が次第に複雑になっていくような気がするのよ」
というと、真理子はショックを受けた感じはなかった。むしろその話を訊いて。
「逆に捜査がやりやすくなったんじゃないかしら? もちろん、最初の道を間違えなければお話なんですけどね」
と真理子はおかしな言い回しをした。
――それにしても、この落ち着きは何なんだ?
と恭子は感じた。
真理子という女性が、前にサトシから聞いたイメージとも少し違っているように思えたので、
――この人、本当にあの時サトシさんが言っていた、例のソープ嬢なのかしら?
と感じた。
ソープ嬢だったのは間違いないだろう。ソープ嬢にしか分からない雰囲気を彼女は醸し出している。そういう意味では、疑いようのないことではあったのだが、だからと言って、全面的に信じられるわけではなかった。
「サトシさんは、どのあたりまでの記憶があるのかしら?」
と、恭子は訊いてみた。
本当は、ほとんど記憶がないということは見ていれば分かる。少しでも記憶があれば、みゆきの登場にビックリするはずだからである。恭子はサトシの反応というよりも、真理子の反応を見たかったのだ。
さっきから真理子はサトシの記憶喪失に触れないようにしているように思えたからだ。それは、サトシに気を遣って言わないのか、それとも、他に何か意味があるのかを知りたくて、もし、前者であれば悪いことをしたと思いながらも確認しないわけにはいかなかったのだ。
「自分の名前とかはなんとなく憶えているようなんですが、仕事や家族。それに友達のことなど、自分に関わっている人への記憶はまったく欠落しているようなの」
「じゃあ、普段の習慣だったり、行動に関してはまったく支障がないと言ってもいいのかしら?」
「そういうことになるわね。私はサトシさんが記憶を失いながらも、私のところに来てくれたのを運命だと思っているの。前が前だっただけに、幸せになることを諦めていた私に、サトシさんは希望を与えてくれた。そういう意味では、私にとって、ライバルがいるとすれば、あなただと思っているのよ。だから、あなたがあなたがここに来たのを見た時はビックリしたけど、覚悟もしていた。いずれいつかは、必ず対面することになるとは思っていましたからね」
と、完全に彼女は精神的に臨戦態勢に入っているようだった。
「私がここに来たのは、あなたに遭ってみたくて来てみたのよ。。最初に言ったことに変わりはないんだけど、それは、サトシさんが勧めたからなの。君によく似た境遇で、実際によく似た人がいるので、会わせてみたいって言っていたのを思い出したので、私も会ってみたいって思ったの。でも、サトシさんが来てくれるまでには、まだ少し時間があるようだったし、旅行も兼ねてという気軽な気持ちもあって、ここまで来てみたのよ」
と答えた。
「でも、驚いた。サトシさんがよく似ていると言っていたけど、ここまで似ているとは思ってもみなかったわ。そういえばなんだけどね。私は最初から分かっていたような気がするのよ。あなたの存在をね」
「どういうことなの?」
「あれは、秋田さんと知り合う前で、初めて秋田さんと顔を合わせた時だったわ。あの人、私の顔を見て、まるでこの世のものではないものを見たような驚愕の表情をしたのを、それこそお化けでも見たかのようなね。初対面の相手にそんな表情、普通ならひどいでしょう? でも私はそこまでは感じなかった。でもその印象が深かったので、その後初めて会話をした時、前から知っていたかのような錯覚に襲われたというわけね。それにね、サトシさんが常連になってくれた頃、ある時、急に変な表情をしたのよ。それは秋田さんが初めて私を見たあの表情に似ていたのね。どうしてなんだろうって思った。今から思えば、秋田さんはあなたと付き合っている時、私を見たことで、瓜二つな感覚が怖かったんでしょうね。サトシさんは、あなたを後から見て、あなたの記憶を持ったまま私に遭ったことで、やはり気持ち悪さのようなものがあったのかだと思うの。もちろん、その時にはそんな気持ち分かるはずもなかったわ。でも、今私があなたに遭って気持ちは平常心だって思えるんだけど、視線を合わせた時、明らかにおかしかったのを思い出した。きっと、あの時、私とあなたは、同じ顔をしていたんじゃないかって思うようになったのよ」
と、真理子は言った。
「本当に似ている人っているのよね」
と恭子がいうと、
「そう、あくまでも似ている人、私はドッペルゲンガーの存在自体を認めてはいないの。そういう話があることは理屈としては分かっているんだけど、信じられない気持ちが強いの。それは科学的にどうのということではなくて。理屈で信じられないのよ。私は理屈で自分が信用できないものは信じないタイプなので、ドッペルゲンガーも信じない。きっとあれは、信じている人が気持ちの中で作り出している幻であって、皆が皆見るわけではないでしょう? 見ているとしても、違う種類のものだと思うし、そうなると、すべては、その人個人の気持ちの問題に思えるの。だから、人を巻き込むことのないものじゃないと思うのは、少し強引なのかしらね」
と、真理子は言った。
どちらかというと理屈っぽいところがあるところがある恭子であったが、目の前の真理子に圧倒されているかのようだ。
「私は信じている方が強いかな? 同じ人が同じ時間に同じ次元に存在していると思うのは怖いことだけど、世の中の現実には、もっと恐ろしいものがあると思うと、少々の都市伝説は信じられるんじゃないかって思うくらいなのよ」
と、恭子はいう。
「そういえば、サトシさんが、時々うわごとのようなことを言っているのよ」
と真理子はいったが、
「うわごとって、どんなこと?」
「最近、記憶を失ってから、毎日少しずつ睡眠時間が増えているように思えるんだけど、毎回何かの夢を見ているのね、その時誰かの名前を言っているのよ」
と真理子はいう。
「誰の名前なのかしら?」
「男の人の名前で、和夫って聞こえるのよね」
と真理子が言ったが、恭子がそれを聞いて、
「ひょっとすると、弟さんじゃないかしら? 確かサトシさんには弟がいるようなことを一度話していた気がするの。その弟は今年大学を卒業して、やっと就職できたって言っていたのよ。ただ、一つ気になるのが、その弟が大学で、小説研究会に入って、自分でも小説を書いていたって言っていたわね。私はその時それ以上、言及はしなかったは、だって、小説というと、あの秋田が目指していた分野でしょう? いまさら思い出したくもないと思ったから、弟の話はほとんど聞いていなかった気がするわ。真理子さんの方ではどうですか?」
と言われて、
「ええ、弟さんがいるという話は聞いたことがあったけど、それ以上の詳しい話はしなかったと思う。私といる時、ほとんど家族の話をしたことはなかったし、弟のこともいるというだけの話で、どんな人なのか、まったく言わなかったわ。ひょっとして私に気を遣ってくれているのかって思ったもの」
という真理子に、
「それはそうかも知れないね。サトシさんにはそういうところがあった。私に話をしてくれたのは、あの時、私も弟がいたので、ちょうど弟についての話になっていたんじゃなかったかしら。そういう意味ではただの偶然だったと言えるかも知れないわね」
と、恭子は言った、
「でも、その名前が弟だとすると、弟が何か記憶を失い時に関係していたか何かなのかしらね?」
と真理子も言った。
「私は、自分から家族の話をするのは嫌なんです。今回田舎に帰ってきたのは、都会に疲れ果てたというのが本音だったんですが、帰ってきたら、もう少し暖かく迎えてくれるものだと思っていたんだけど、本当に田舎って冷淡で面倒臭いものなのよ。都会から帰ってきた人に対しての偏見は、時代が変わっても変わらない。どうせ、都会で何か大きな失敗をして挫折して帰ってきたという風に見られるだけで、本当のことではあるんだけど、嫌でしかないわよね。息が詰まってくるし、どうしてもっと柔軟に考えられないのかって思ったりしますよね。だから田舎が嫌で都会に出たのに、これじゃあ、本末転倒もいいところよね」
と言った。
「私は広島に親戚がいるのはいるんだけど、自分の田舎があるわけではないので、田舎がある人が羨ましかった。そういう意味では、サトシさんも田舎があるわけではなく、自分も帰るところがないようなことを言っていたような気がしたわ」
と恭子が言ったが、
「えっ?」
と、いう真理子のリアクションに、こっちもビックリした。
「サトシさんが田舎がないって?」
「ええ」
「私には、田舎があるような話をしてくれたわよ。自分も田舎から出てきて、いまさら田舎に帰ることはできないので、その時、弟と一緒だって言っていたような気がするんだけど、あなたに対しての答えとは違っているわね」
「ええ、そのようね。でも、それも彼の優しさで、話を合わせてくれていたのかも知れないわよ。もっともそれが彼の優しさなのかも知れないけど」
と、恭子がいうと、真理子も一緒に頷きながら、目の前で自分の話をしているとも気付いていないのか、きょとんとした表情をしているサトシだった。
――この人のこんな表情見たことがない――
と、奇しくも二人は同時に同じことを感じていたようだ。
だが、果たしてサトシは本当に田舎がないのだろうか? そして、それぞれに気を遣って話を合わせただけなのだろうか?
意識が戻らないと分かってこないことではあるが、少しでも早く知りたいと思うのは、真理子の方だっただろう。
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