第6話 彩名市の殺人事件
東京から新幹線で西に約三時間と少し、山陽地方に、彩名市という街がある。新幹線が停まる駅からは、ローカル線で中国山地の方に少し向かった山間に位置する昔でいえば、過疎のようなところであるが、十年以上前の市町村合併が流行っていた時期、まわりの五つの町が合併し、一つの市が出来上がった。それが彩名市である。
面積としては結構広いのだが、その半分は山林に位置しているので、人が住める範囲は限られている。
「よくこれで、市に昇格できるだけの人口が集まったものだ」
と言われたが、彩名市の中心部分には、朝市などで有名な市場が並ぶことや、新幹線も停車するような大きな街のベッドタウンとして、最近ではマンションなどもできたりして、徐々に住民も移住して来たりしている。ローカル線と言ってもここまでは複線であり、列車も電化されていた。
そんな街で最近起こった殺人事件があったのだが、いくら市に昇格したからと言って、そんなに急速に都会化などできるはずもなく。当然、殺人事件など起こるような雰囲気の街ではなかった。
今から思えば、市に昇格するという時、住民の一部、と言っても、結構な人数の反対派もあった。彼らの言い分としては、
「市に昇格しても、一部の人間が利益を得るだけで、一般住民の我々にとっては、税金も高くなれば、いろいろ区画整理の煽りを食らって、立ち退きの憂き目に遭ったり、中央の政治の影響を受けたりして、ろくなことにはならない」
というものであった。
もっとも、反対派というのは、昔からの地主の人が中心になってのことなので、行政の幹部連中からみれば、
「旧態依然の昔からの風習に従っていては、街の発展はありえない。古いものを壊してでも新しい風を吹き込まなければ、この街は孤立してしまって、陸の孤島になりかねない」
というものであった。
実際に、他の街が市に昇格したところに比べれば、この街と違って、インフラの整備は歴然であった。
高速道路は近くを通り、大都市にあるような企業の誘致を行うことで、人の流入も多くなり、さらに地元の三行と融合することで、全国に知られるような街となり、今では観光の街としての側面もあることで、市の財政は安泰だという。
しかし、市に昇格する前の彩名の街の財政は火の車だった。それでも、昔からの地主に逆らってしまうと、自分たちの生活もままならないという大きなジレンマを住民は抱えていた。
「確かに市に昇格してしまうと、発展も目覚ましいだろう。しかし、我々のような小作だった連中にとって、短い間でも地主の恩恵が受けられなければ、倒れていくしかない。そんな危ない賭けに出るわけにはいかない」
というのが、反対派の考えだった。
そんな考えがいつまでも続くはずはない。
「俺たちには。やはり守らなければいけないものが何なのかをしっかり見極めなければいけない」
という、反対派の中での地主を外したリーダーは、決断した。
ただ、これも、行政側の根回しがあったからで、そこでいくらかの裏金が流れたことは確かに否めない。だが、そこまでしなければ、しなければ、しなければ、街の発展はありえない。いつまでも地主や小作のような封建的な街が存在していること自体、下手をすれば罪になるようなものだ。
新しい市制を目の当たりにした住民は、
「やはりこれでよかったんだ」
として、地主に逆らって、市昇格の賛成に回ったことを、よかったと思っている。
市に昇格してからは、彩名市もインフラ整備や区画整理において、まわりの市の成功を手本に進められてきた。そのおかげか、十年経った今では、知らない人は、まだ市になってから十年しか経っていないなどと誰も感じないほどに、発展していたのだった。
そんな市の中心部を走る鉄道の高架工事が行われていた。さすがに駅ビルのような大きなものは難しいのだろうが、
「少々大きめのスーパーと、道の駅のようなイメージの店を、本当の鉄道の駅に作るというのはどうだい?」
という意見が上がり、
「それは面白い」
ということで、行政企画部から出された案件である、
「駅の高架化と、駅前施設の充実案」
が、死の閣議を通過したのは、六年前だった。
三年前から着工に入り、五年計画で進められているので、ちょうど、半分を超えたくらいであろうか、高架工事も順調に進んでいるようで、駅前広場や駅も、拡張工事のために、少し不便ではあったが、それも仕方のないことであった。
市に昇格してからは、県からもいろいろな支援を受けれるようになり、この十年を、
「彩名市発展のためのプロジェクト年間として、県を挙げての応援が立ち上がった」
というほどであった。
ネットも充実していて、ケーブルテレビなどの普及も行われ、目まぐるしい勢いでのIT化と言われるほどであった。
そんな彩名市の玄関駅である彩名駅、前述のように駅のあちこちで工事が行われているので、人が入れる範囲は限られていた。
さらに工事の進み方も時期によっては、一気に各所で建設のために入り乱れることもあるが、それぞれ会社が違い、取り扱う部署も違うということで、工事は結構バラバラであった。
一気に工事を行う時期もあるかと思えば、一か月ほど、誰も工事現場に足を踏み入れる人もいないというような場所もある。駅を利用している人たちには意識はないだろう。いくつもの現場があって、一日を通してどの現場にも工事が入らないということはないからだった。
その日も、スーパーになる予定の場所には夕方まで工事関係者がたくさんで作業をしていたので賑やかだったが。テナント部分は、ほとんど人の出入りはなかった。特に奥の飲食街になる予定の場所は、ここ数日。いや、下手をすれば一月近く作業をしていない様子で、特に奥の方なので、誰も気にしてはいなかった。
それでも、一月に一度くらいは誰かが見まわることになっていて、その日は朝の九時の、スーパー関係の工事が始まるタイミングを見越して、飲食街を管轄している市の職員が、見回りにやってきていた。いくら立入禁止の札があったとしても、乗り越えれば簡単に入ることができる場所である。若者集団の屯する場所としては最適なのかも知れないが、それを見越して、ゴミならいいが、何か危険物であったり、禁止薬物などが使われているなどの犯罪行為が行われてはいないかということを、五日に一度くらいの割合で誰かが一度は来ているが、細かいところを見ていないので、一月に一度は、全体を見渡すようになっていた。
市の係の人間が三人ほどで、この一帯を見て回る。ほとんど何も建設されているわけでもないので、一見。この場所がどんな様変わりをするのかなど、話には聞いていても、この場所をまともに見てしまうと、想像などできっこなかった。
時間としては、昼くらいまで、一通り確認できればいいので、それほど切羽詰まっているわけではないが、とにかく空気も感想していて、埃がすごいので、いくらマスクやヘルメットをしているからと言って、お世辞にも長居を慕い場所であるはずもない。
まだ工事はこれからという場所ではあるが、準備のための資材はある低緒運び込まれていたりする。奥にはロッカーのようなものもあって、基本的にはカギは閉まっているはずだった。
そのあたりも係員は確認していたが。一か所閉まっていないところがあり、無造作に開けたその瞬間、
「うぎゃっ」
という声にならない声をその係員は挙げた。
本当は大越を発したいのはやまやまだったのだが、なぜかその時の係員の頭の中に、
「ここは大声を挙げると、何もないだけに反響して、誰もが驚愕で身体が動かなくなるのではないか?」
と考えたことで、自分が受けた驚愕を途中で押し殺そうとしてしまったのだろう。
しかし、時すでに遅く、その声を戻すこともできないまま、まるでカエルを踏み潰したかのような声を出してしまったことに、却って恐怖を煽ってしまったのに、後から気が付いた。
「一体どうしたんだ?」
と、係員のリーダーが、震えている彼の元にやってきた。
その表情には、血の気は失せていて、真っ青な顔は虚空を見つめていた。目は一点だけを見つめているのだが、うつろに見えるのは、なぜだろう?
さっきの叫び声でも、まるで断末魔の声ではないか、表情も断末魔にしか見えないではないか。
リーダーはそれまで自分は何があっても、それほど驚いたりはしないと思っていた。しかしその時の作業員の表情は明らかに異常であり、想像してはいけないことを自分が想像していることに気づき、それが外れているとはどうしても思えないと感じたのだ。
「うわっ」
今度は別の係員が叫んだ。
「おいおい、お前までなんだ」
とリーダーは聞き返すと、今度はリーダーの目にもどうして今係員が叫び声を挙げたのかが分かった。
――これなら彼でなくとも、誰だって声を出すわい――
とばかりに覗き込んだその場所は、普段から使われていない何もないコンクリートの上に、埃が待っているだけと思っていたが、何やらヌメヌメとしたものが付着しているのに気付いた。
それはまるで黄粉に餡がこびりついたようなベッタリとしたもので、想像してはいけないものを確実なものにしてしまったかのようで、
―ー見るじゃなかった――
と思わせた。
それはリーダーが思っただけではなく、そこにいてその物体に気付いた人間は皆そう感じたに違いない。
そこまで分かれば、この状況が何を意味しているのか分かる人だっているだろう。誰か一人が、
「医者だ、警察だ」
と狂喜乱舞のように大声を立てたので、そこで金縛りに遭っていた連中はすぐに我に返った。
この現場で、元救急救命をしていたやつが一人いて、彼が目の前に横たわっている、
「動かぬ物体」
と、調べていた。
顔色はすでになく、明らかに死んでいることは明白だったが、とりあえず脈をとってみた。
彼はリーダーに向かって、無言で首を横に振ると、
「そうか」
とリーダーは言い、
「誰か、警察に連絡を」
と言って、皆にそこから離れるように促した。
「足跡をなるべく残さないようにな」
とは言ったものの、すでに死体があるなど気付かずに皆が入ってきたこともあって、すでに手遅れであったが、それでもこれ以上ややこしくはしたくなかった。
死体は仰向けになっていて。その胸は、短刀で抉られていて、血がほとんど噴き出していないことから、ナイフが血止めの役目をしたようだ。逆に変に障って抜こうなどとしたものなら、そのあたりに真っ赤な鮮血が飛び散るに違いない。
――いや、真っ赤なんてものじゃないよな――
工事現場などで仕事をしていると、大けがや大事故とは背中合わせの時がある。
リーダーの人が若かりし頃、現場で落盤事故があり、多くの人が下敷きになったのを思い出していた。自分は別の場所にいたので事なきを得たが、その時は本当に恐ろしくて、しばらく仕事ができなかったくらいだ。さすがに会社もそのあたりは考慮してくれて、一週間は休みが貰えた。しかしそれ以降は後れを取り戻さなければいけないということで、かなり無理をさせられたが、中途半端な状態で仕事をするよりもマシだった。下手をすると、
「明日は我が身」
だったからである。
あの時の惨状は、こんなものではなかった。崩れてきたコンクリートの下敷きになって、腕や足が半分だけ見えていて、腕などは断末魔の様相で、何かを掴もうとしているその先に、べっとりの流れてくる鮮血が滴っていたのである。
「子供の頃に見たお化け屋敷のようだ」
と、比較になるはずもない不謹慎なことを口にしたのは、そうでもしなければ、見ているだけで恐怖に押しつぶされそうだったからだ。
さすがにあの時ほどの恐ろしさとセンセーショナルな衝動はないのだが、明らかな他殺死体を見たのは初めてだっただけに恐ろしかった。
事故は、ある意味しょうがない。人為的な事故であっても、悪意があるわけではないので、それほどの恐怖は感じない。
他殺による恐怖は、その人がどうして殺されなければならなかったのかという動機の面で、心理的な恐怖が募ってくるのだ。そこには恨みであったり、嫉妬であったり、何かしらの理由があるはずだ。
物欲や、衝動的な殺人であれば、また別の意味での恐ろしさを感じさせるが、この死体はそんなものではないだろう。
普段から誰も出入りするはずのない場所にわざわざ入り込んで、そして殺されるのである。
ナイフで刺されているのだから、衝動的な殺人ということもないだろう。被害者が自分で凶器を持っていたのか、それとも、偶然落ちていたとしか考えられないが。そんなこともありえない。
そもそも、相手を殺すようなトラブルがあったからこそ、この男が殺されたのだ。逆にそうでなければ、無差別な猟奇殺人などということになると、殺人魔として世間を大いに騒がせることになるに違いない。
どう見ても、そんな雰囲気ではない。ただ、男は胸を真正面から刺されて死んでいるにしては、その表情がそれほど恐ろしいものには思えない。
「ひょっとすると、この人は自分が死んだということを知らずに死んでしまったのかも知れないな」
と、呟くと、隣の係員の人も、
「そうかも知れませんね。きっとあっという間のことだったのか、まさか、目の前にいる人から自分が殺されるなどということはないと思っていたからなにか、とにかく油断があったとしか思えない死に方ですよね」
と言っている。
そうこうしているうちに、警察がドタドタと入ってきた。表ではパトカーの音が鳴り響き、その音を聞いただけで、思わず我に返るだけの音響であることは間違いなかった。
「私は、岡山県警の佐久間といいます。皆さんがこの死体の発見者の方ですか?」
「ええ」
と、リーダーが代表して答えた。
「この被害者に見覚えは?」
と言われて、リーダーは皆に死体の顔を検分させた。
皆は一様に首を振り、
「誰も知らないということですね」
というと、kの現場は見ていると、まだこれから工事が本格化する前の放置されていた場所ということでしょうか?」
「ええ、察しがいいですね」
「いやいや、これだけ埃っぽいと分かりますよ。ということは、普段はここに立ち入る人はあまりいない。そういう意味では殺人にはもってこいの場所ともいえますね」
「ええ、我々は三日に一度くらいここに立ち入って、異変はないかのチェックをしているんです。それも当番制にしているので、毎回違う人間がここにきている形ですね。ただ、半月に一度は、皆でここに顔を出すことにしているんです。変わりはないかというのも一つですが、現場を見ていくというのも大切な仕事ですからね」
とリーダーは言った。
「ということは、三日前に来た時にはここにはもちろん、何もなかったわけですね?」
と訊かれて、
「おい、三日前には何もなかったよな?」
と三日前の当番を振り返って、訪ねた。
「ええ、もちろんです。死体なんかあったら、見逃すはずありませんからね。すぐに通報しますよ。通報しなかったら、自分が犯人だって言ってるようなものですからね」
と彼は答えた。
「あっ」
と声を挙げたのは、三日前のその前にここに検分に来た係員だった。
「どうしたんだ?」
とリーダーが聞くと、
「あの時、ここに足跡があったのを思い出しました。運動靴のようなものだったんじゃないかと思うんですよ。革靴ではありませんでした」
というのを聞くと、
「じゃあ、三日から六日前くらいまでに、ここに出入りをした人がいたということでしょうか?」
とリーダーが聞くと、
「偵察だったのかも知れないな」
と、佐久間刑事は言った。
「何のための?」
とリーダーが聞くと、
「そうですね。あくまでも想像が許すならですが、何かの犯罪が絡んでいるとして考えると、ここには数日に一度しか誰も来ないということであれば、何かの秘密の取引などをここでできるというものだ。まだ何も出来上がっていないので、防犯カメラもなければ、出入りをしても、誰かに見られることもない。集団で出入りしても目立つことはないので、ここを本当の取引の場所として利用できるかということを、この男が確認に来たのかも知れませんね」
と佐久間刑事は言った。
「何か、想像しにくいような話ですが、でも話としては面白そうですね」
と言いながら、リーダーもその話に信憑性を感じていた。
死体をまさぐっていたもう一人の刑事が寄ってきて、
「どうやら、この被害者は秋田省吾というらしいですね」
と、言って免許証を佐久間刑事に提示した。
それを見た佐久間刑事は、免許証と死体を見比べて、納得したように頷いたのだが、それを見たリーダーが、急に声を挙げた。
「えっ? そんなバカな」
という意外なことをいうリーダーに対して、不審に感じた佐久間刑事は、
「今のリアクションはどういうことですか? あなたはさっき、この男を知らないということでしたが、秋田省吾という人物は知っていて、その人物とここで倒れて死んでいる人物とでは別人だとでも言いたげに聞こえるんですが」
というと、
「ええ、その通りなんです。秋田省吾という人物は、期間工のような臨時雇いのような人で、私も何度かしか見たことがなかったのですが、確かにその人物はいました」
というリーダーに、
「でもね、ここに免許証がある以上、この男が秋田省吾であることは明学なんですよね」
と言われ、
「じゃあ、ここにいた男は誰だったんだ?」
「期間工というのは、身分証明までは照会しないのかね?」
「ええ、彼は免許を持っていないということでしたので、現場での雑用ばかりだったんです。だから、履歴書の写真だけだったんですが、じゃあ、その写真と身分が違っていたということになるんでしょうか?」
「そういうことになるんだろうね。だけど、どうしてそのニセ秋田は、ここで偽名迄使って働いていて、しかも、本物の秋田の死体がここにあるんだろうか? ところで秋田さんという行員は、今どうしてます?」
と訊かれて、
「その人は、まだ契約期間はあったんですが、ある日急に出てこなくなって、それっきりなんです。短期での雇用は日雇いでしたから、毎日お金が渡していたので、急に来なくなることも珍しくはないんです。でも短期でしか雇えないとなると、日雇いにでもしないと、なかなか人は集まりませんからね。難しいところですよ」
とリーダーはいう。
「いつ頃入られて、いつ頃までいたんですか?」
「一か月半くらいから、一月くらいいましたかね? だから、いなくなってから、半月というところでしょうか?」
「さっき、あなたは、秋田省吾という名前が出た時、オウム返しにすぐにリアクションを示しましたが、秋田省吾という人物は何か、印象深い人だったんですか?」
と聞かれたリーダーは、
「ええ、まあ、そうですね。普段はこれと言って印象が薄い人なんですが、一度、車の話をした時、急に震えだして怯える様子があったんです。私はそれを不思議におもtていましたが、きっと他の連中もそうだったんじゃないかと思います」
とリーダーがいうと、話に割って入るように一人の行員が、
「ちょっといいですか?」
というではないか。
「どうしたんだい?」
とリーダーが聞くと、
「あの秋田と名乗っていた男性は、以前交通事故に遭ったことがあるようなんです。今はすっかり身体の方には問題がないんですが、実は記憶喪失だったようで、自分のことは名前いがいのことはほとんど覚えていないそうなんです?」
という衝撃的な話が飛び出した。
「記憶喪失?」
「ええ、だけど、短い期間だから、誰にも黙っておいてほしいと頼まれたので、今まで誰にもいいませんでした」
という。
まさか、ニセの秋田が記憶喪失で、しかも今は失踪中だなんて、しかも、本物の秋田はニセモノが働いていた現場で死体で見つかるなんて、一体何が、どうなっているのだろうか?
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