第3話 あやめへの不可思議な視線
ソープ「エレガンス」が比較的高級店ということであれば、あやめのいるお店はそれから比べれば、大衆店だと言えるだろう。ソープ「アマンド」は、みゆきのいる店とは、それほど近くにあるわけではなかった。それでも、同じ繁華街の中にあるお店ということもあって、みゆきの人気が頂点に達していた頃には、二人はそれぞれの店でナンバーワンになっていた。
みゆきという女が客によって、いろいろな女を使い分けられるという才能の持ち主であるのに対して、あやめは、性格の操作はできないが、自分の中にある性格が、お客さんの癒しを求める思いに答えてあげられることのせきるものであることを、お客を相手にしているうちに気付くのだった。
あやめは、以前は百貨店などで、店頭販売員をしていた。客との応対に対してはそれなりに自信を持っていたが、販売実績としては、それほど芳しいものではなかった。
秋田と知り合ったのは、そんな時であったのだが、知り合った時は、少し奇妙な感覚だったのをあやめは覚えている。
あれは、あやめがソープに身を落とすようになる一年前くらいだっただろうか。あやめが強めている百貨店に客として訪れたのが、秋田だった。
その時の秋田の表情は今思い出しても、奇妙なものだった。まるでは、
「ハトが豆鉄砲でも食らったような」
そんな表情で、あやめを見て、その場に立ちすくんでいた。
目はカッと見開き、今思い出しても、何にそんなに驚いたのか、分からなかった。
だが、彼はすぐに馴れ馴れしく近寄ってくるようになった。あゆみはあまり目立たない子で、男性と付き合った経験もなかったので、男性に対しての免疫はできていなかった。そのせいもあって、いきなり馴れ馴れしく近づいてきた秋田を警戒したのは当たり前のこと。
しかし、警戒しながらも、ぐいぐい来るこの秋田という男性に頼もしさを感じたのだった。
男の頼もしさを一度でも感じると、一途な性格であるあやめにとって、秋田は今まで自分のまわりにいなかったタイプの、
「新鮮な男性」
というイメージが固まってしまった。
そこまで来ると、あやめが秋田に惹かれてしまうようになるまでには時間が掛からなかった。
秋田というのは、正真正銘の悪党だったと言ってもいいかも知れない。
「小説家になりたい」
という夢はれっきとした夢として持っていて、それは彼の唯一、いい性格と言える部分なのかも知れないが、それがなければ、本当に、
「あいつは生きる価値もない」
というほどの男であり、逆にそんな夢を持っていたがために、せっかくの夢が却ってあだになることで、
「まわりの人間を巻き込んで生きることしかできない」
というような、最低な男になってしまったのだろう。
秋田は、初めからあやめを利用するつもりで近づいたのかどうか、後になってもあやめは分からなかった。ひょっとすると、秋田自身でも分かっていなかったかも知れない。
借金で首が回らなくなってから、秋田は失踪した。どこにいったのか、その行方が罠らなかったことで、保証人となってしまった二人の女は、身を崩してしまったのだ。もちろん、小説家になるなど、夢のまた夢。
「小説家になりたい」
などと言っていた秋田という男のイメージは、二人の女にとって、忘れ去られた遠い過去のなっていたのだ。
秋田という男があやめと知り合ったのは、恭子と知り合った後のことだった。二股を掛けられていたということになるのだろうが、秋田本人は二股をかけていたという意識はなかった。
もちろん、他人から見れば、百人中百人が、
「二股だ」
と答えるに違いない。
秋田という男が、それほどとんでもない男だったということになるのだろうが、彼が感じていた、
「二股ではない」
という思いは、実は別のところから感じられたものであって、それを分かっているのは、その時は秋田だけだった。
だから、言い訳にしか聞こえないことであったが、いずれは、恭子もあやめもそのことを知ることになるのだが、それはまだ先のお話になるのだった。
あやめは、秋田と知り合ってから、秋田と本当に恋仲になるまでに、結構時間が掛かったと思っている。
どこか秘密主義的なところがあって、自分のことをなかなか明かそうとしない秋田という男を、その辺の、
「ちゃらい男たち」
とは違うという感覚を持っていた。
地味であまり目立たないタイプのあやめだったが、自分のまわりには、なぜかちゃらい男ばかりが多かったような気がする。それは別に付き合っているというわけではなく、学生時代の友人であったり、百貨店に入社してからの同僚であったりと、なぜかそんな連中ばかりだったのだ。
そもそも彼氏がほしいなどという感覚を今まで持ったことがなかった。男性友達はおろか、女性の友達もそんなにいたわけではなく、自分の思っていることを打ち明けられる人がそばにいなかった。
あやめはそれでもいいと思っていた。余計なことを話して、何かのトラブルにでも巻き込まれることを思えば、一人で考えている方がマシだと思っていたのである。
だから、販売員をしていても、パッとした成績が挙げられるはずもなく、お客さんもあやめに訊くよりも他の客に訊く方がいいと思っていたようだ。
その頃のあやめは、本当に目立つタイプではなく地味なタイプが身体全体から醸し出されているかのようだった。
眼鏡をかけていたのが一番地味に見せる理由だったようだが、そのメガネの奥に見える眼差しが、
「何にもおいて、自信がなさそうに見えるところが一番、地味に感じさせるところではあいだろうか」
と思わせた。
特に百貨店の販売員の制服は地味だった。売り場は高級品を置いているのだが、高級品というものほど、まわりをイメージに対して、さらに深みを帯びさせる効果を持っているのではないかと思わせるのだった。
「派手な人はより派手に、地味な人もより地味に見せる魔力が、百貨店の売り場にはある」
ということになるのだろう。
そんなあやめだったので、誰か男性に気に掛けられることなどないと思っていたし、想像もしていなかった。
しかし、秋田という男性が自分のことを見ていると気付いた時、あやめはどうしていいか分からなかった。
実は秋田は最初からあやめを気にしていたわけではなかった。最初はただ、この売り場に商品を見に来ただけだったのだが、それから日を開けずに、また秋田が訪れていた。そのことをあやめは気付いていなかったので、あやめが秋田の視線を感じた時、
「初めてのお客さんだ」
と思っていたのだが、それは間違いだったのだ。
しかし、初めての客が自分のことをじっと見てくれていると感じた時、あやめは恥ずかしさとドキドキした気持ちを二つ持つことになっていたのだ。
ただ、秋田があやめを意識してじっと見ていた理由は、あやめが気になったということとは別に、もう一つ理由があった。そのことを秋田は一度も触れることはなかったので、あやめも失踪してしまった秋田だから、そのことを知るすべがなくなってしまったと言えるのだろうが、近い将来には知る子tになる。
秋田という男は、本来そんなに女を凝視するタイプではない。それなのに、自分側の理由で凝視したことで、あやめの中に今までこみあげてくることのなかった男性に対しての淡い思いが募ってきたことで、二人は接近することになるのだが、この接近が偶然からのものであることを、あやめも秋田も分かっていなかったのだ。
秋田の中で、この思いが、
「二股ではない」
と後になって考えた一つの理由になるのだが、もう一つの理由は、それとは違っているのだが、まんざら関係がないというわけでもなかった。
秋田は、何度かあやめの職場に顔を出していた。他の販売員も当然秋田がいつもここにきているのを意識していないわけではなく、
「あの人また来ているわよ。誰か私たちの中に、気になる人でもいるんじゃない?」
とウワサをしていた。
ウワサをしている連中は、まさか相手があやめだと思っているわけはなかった。あんなに目立たない引っ込み思案で、販売員としてはお世辞にもプロと言えるものではない彼女を、どこの男性が気にするものかと思っているからだった
だが、あやめだけは、その視線を一身に浴びているということを分かってるだけに、逆に彼との関係をずっとまわりに秘密にすることができたのだ。
「まさか、あの子と、あんな清潔感のある男性が付き合うなんて、想像もできない」
というくらいまで思っていたはずだからである。
あやめにとって、気になる男性を独り占めしたような気分になっていたのだが、それは今までに感じたことのない快楽だった。
そう、あやめには、どこか自分を女王様のようにまわりから一目置かれるような存在に憧れているところがあったのだ。
あやめと秋田は、本当に密かに付き合っていた。それは秋田が望んだからである。秋田が望めば、あやめにはそれに抗うことはない。下手に意見を言って、秋田に嫌われることを恐れたのだ。
秋田は最初から、あやめが控えめで、自分のいうことなら何でも聞く女性だということを分かっていた。彼女の中に女王様的なイメージがあるとは思ってもいなかったが、それは彼女がソープに勤めるようになってから、しばらくして分かったことであった。
それも、自分から理解したわけではなく、客の中にマゾっぽい男性がいたことで、その男性を相手にしているうちに、自分の中のサディスティックな部分が現れてきたのだった。
秋田が失踪して、まさか自分がソープに身を置くことになるなど、思ってもみなかったが、あやめは、簡単にその運命を受け入れていた。
簡単に受け入れたというよりも、ソープにいくことを抗ったわけではない。そもそも、誰かに抗うということのなかった彼女は、普通であれば、この時とばかりに、今まで抗えなかった自分の性格を爆発させるがごとくで猛烈な反発を起こす者であろうが、彼女にはそれがなかった。
実際に、彼女をソープへの身売りを受け持った男としても、何とも言えない気持ちにさせたくらいだ。
「罪悪感なんて、とっくの昔に捨てていたさ。そうでもしないと、こんなことやってられないからな」
と言っていたはずの男が、あやめの時に関しては、何か嫌な気分を抱いていた。
「これじゃあ、本当に俺だけが悪者みたいじゃないか」
という思いにさせたのだ。
その男は、恭子のことを知らない。恭子をソープに身売りさせたのは、別の男だった。
秋田が借金をする時、別口とはいえ、似た時期に借金をするのだから、当然、別の金融会社からであった。もちろん、金融会社の間で、ぼラックリストなどは情報交換されていただろうが、金額的にはブラックリストにのるほどではない秋田だったので、二口の借金ができるギリギリの額を、それぞれに借りていたのだ。
そういう意味で、一人で抱え込んだ借金ではないので、二人に掛かった返済額も、ソープで働いていれば、そこまで長く働かなくとも返せる金額であった。
二人とも、最初は借金を完済すれば、ソープを辞めて、もう一度やりなおそうと思っていたのは間違いない。
だが、みゆきは、ナンバーワンになったことで、自分の天職を見つけたこともあって、辞めようとは思うはずもなかった。
しかし、あやめの方は、借金を完済することで、ソープを辞め、そのまま田舎に帰ったようだった。
あやめも、本当はソープの仕事が好きで、途中から、
「ずっとこのまま、このお仕事を続けていってもいい」
と思うようになり、借金がどんどん少なくなっていくことへの喜びと、お店で男性に尽くす喜びで、それまでに感じたことのない幸福感と毎日の充実感を覚えていたのだった。
あやめは、自分の性格をずっと分かっていなかったが、お仕事を続けていくうちに気づくようになった。
――私には、もう一人私がいて、お互いにどちらかが表、どちらかがウラ、という風に、無意識に感じることのできる性格なんだ――
と感じていたが、そのうちに違っていることに気が付いた。
それは、もう一人の自分も一緒に表に出ていて、決して裏にまわることはないという思いだった。表に出ているもう一人の自分を意識できるようになると、お客さんに対しての態度も変わっていって、そのあたりからだろうか、それまでソープでもパッとしなかったあやめの人気が出てきて、すぐに指名ナンバーワンになっていたのだ。
それはリピーターの多さが功を奏したわけで、指名を受けるうえで、一番光栄な気持ちにさせられた。
彼女は、相手の男性に合わせるようなことはあまりしない。途中までは相手に何とか合わせるように努力していたのだが、もう一人の自分の存在を知ってから、相手に合わせるというよりも、自分という女の本質を知ってもらおうという意識で接していると、不思議と人気が出てきたのだ。
「他の子では感じることのできない思いを、あやめさんに感じました」
というアンケートが多く、似たようなアンケートを書いてくる客は他にもいるにはいたが、ここまで一人の嬢に、同じ感想が、まるで判を押したかのように書かれていることは稀であった。
彼女のサディスティックな面は、プレイとしてのSMではなく、精神的なSMだと言ってもいいだろう。確かに気持ちは、
「お客さんに喜んでもらいたい」
という思いが前面に出ているのだが、その反面、
「この客さんを拘束したい」
という思いもあった。
客の中にはその思いをくみ取って、決まった時間の間、身も心も彼女に預ける思いで、それがサディスティックな印象に結び付いたのだ。
ただ、それは二重人格というわけではなく、絶えずあやめの中で、自分ともう一人の自分が葛藤しているのが見え隠れしていた。
これは、あやめの相手をしたお客さんでなければ分からないことだった。
ただ唯一知っている人がいたとすれば、ソープに行く前のあやめを知っている秋田だったのかも知れない。
もし、あやめがソープにいくと分かって、それに対してその時まわりにいた人皆が知っていたとして、どのように感じるかと思い起こせば、皆が皆、
「彼女にはできるはずはない」
というであろうが、秋田だけは、
「お似合いの仕事なのかも知れないな」
と感じたことであろう。
もちろん、秋田にそんなことを言える筋合いなどないことはハッキリしていることであるが、秋田はそのことを出会った時から分かっていたのではないかと思えるような素振りがあった。
あやめが付き合っている時にそんなことを分かるはずもなく、当時のあやめは、いくら自分の付き合っている人であっても、相手が何を考えているかなどということに立ち入ってはいけないと思っていた。
「相手に対して遠慮することが、女性としての自分ができることではないだろうか?」
と思っていたようだった。
控えめだった自分も本当の自分であり、もう一人の女王様を思わせる自分も、間違いなく本当の自分であった。
秋田は、そんなあやめを見ていたから、彼女に対して距離を完全に縮めようと思っていなかったのも事実であるが、距離を縮めることのできない理由が、自分の中にあることも分かっていた。
あやめはそのどちらも分かるはずもなく、
――この人は何を考えているのだろう?
と、秋田を見ていたのだ。
この店では、ほとんど顔見せはしていない。ネットや風俗史では、顔を完全にぼかしていて見えなくしているので、もし顔が分かるとすれば、来店し、受付で指名する時に、初めて顔を見ることができる。
大衆店ではそういう店が多く、お店の受付まで来てしまえば、どこで入店に対して躊躇する人は少ないのではないかという考えなのかも知れない。男というのは、お店の雰囲気にドキドキを求めてくる人もいるようで、風俗店の醍醐味を、
「女の子に会うまでに、醍醐味としてはほとんど味わったことになるような気がするんだ」
と言っている人もいるくらいである。
確かにお店の独特な雰囲気は、何度来て常連になっていても、そのドキドキ感は変わらないもののようだ。それだけお金がかかっているという印象があるのか、それとも、最初に心臓が破裂するのではないかと思えるほどの感動を味わっているからなのか、そのどちらもなのかも知れない。
ここに一人の客がいた。名前は「サトシ」と名乗っているが、本名かどうか分からない。彼は大衆店が基本であるが、たまに高級店にも顔を出す。大衆店には、一か月に一度くらいの割合で、高級店には、三、四か月に一度くらいの割合であろうか。
どちらかというと、ほとんど趣味もなく、お酒やたばこを嗜むこともないサトシは、一か月に一度のソープ通いを楽しみにしていた。
お気に入りの女の子は、あやめであり、それまではお気に入りというのを作っていなかったが、一度あやめに遭ってしまうと、次からはずっとあやめばかりを指名するようになった。
あやめもサトシに関しては特別な思いを持っていた。
別に好きになったというわけではない。好感の持てるタイプの男性だとは思うが、現実的に考えて、ソープ嬢の自分とつり合いが取れるわけはないと諦めていたのだ。
あやめがサトシを気にするのと、サトシがあやめをお気に入りにする理由には共通点があった。
サトシが最初あやめにあった時、サトシはその場に立ちすくみ、動けなくなってしまった。ビックリしている様子が見て取れたが、
――この感覚、どこかで味わったことがあるような気がする――
と感じたのだ。
それがいつだったのか、すぐに思い出した。
――そうだ、あの男、秋田が私を初めて見た時に示した驚愕の表情に似ているんだ――
と感じた。
あの時の秋田の表情と視線には。怖いほどの痛い視線を感じたが、サトシに対しては、何か不思議なものを見たような感覚であることで、秋田に感じた思いとはまったく違っていることに気が付いた。
――何がそんなに不思議なんだろうか?
サトシと秋田の共通点を考えてみたが、見いだせるものはなかった。
そもそも、秋田には騙されたという印象がどうしても強い。そのくせ、付き合っている時にはそんな素振りなどまったくなかったはずなのにと思う。それは騙された人が後から考えて誰もが感じることなのだろうが、サトシの表情を見たことで、秋田の中のすべてが偽りだったという思いは氷解しつつあった。
秋田という男のことは、本当に過去のことになっていた。急に彼がいなくなったこと、彼に借金があること、そしてその借金を自分が返さなければいけないこと、そしてソープで働かなければいけないことになってしまった自分の運命。まさに波乱万丈の人生を凝縮して過ごしたようなこの期間は、秋田という男をまるで前世で知り合いだったのかも知れないと思うほどの、忘却の彼方へと追いやるのだった。
忘れていた秋田のことを、サトシは思い出させた。あやめはそれを悪いことだとは思わない。だが、サトシの表情は微妙に秋田とは違っている。秋田の表情は、あやめを怖がらせたが、それ以上に秋田自身が恐怖におののいていたようだった。
あやめはそこまで秋田のことを分かっていたわけではないが、秋田とサトシでは根本的なところで違いがあった。
秋田と知り合ってから、
「小説家になりたい」
という彼は、決して自分のてるとりーにあやめを引き込むことはしなかった。
あやめは知らないがそれは当たり前のことだった。その時、秋田には恭子というれっきとした彼女がいたからだ。
そういう意味では、あやめは、
「浮気相手」
ということになる。
あやめが、どうして秋田が怯え、そしてサトシが不思議に思っていたのか分かったのは、それから少ししてからのことだった。
ただ、サトシが不思議に思ったというのは、その時が最初ではなく、最初にそのことに気づき、その時は本当にビックリしたのは、それから一か月前のことだった.……。
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