〈2〉第3話

 有明日向が嫌いだ、といつも思っているわけではない。瀬川涼介は日向の主席入局をコネだとか不正だとは考えていないし、仕事熱心なのもよく知っている。ただ、同じ部署にいないからまだこうして穏やかに自分を省みる余裕があるのだろうとは思った。

 同じ土俵に立たされれば嫌でも差異は見える。花形部署である〈計測室〉の中でも、きってのエリートである涼介は、部署内でも目覚ましい仕事の成果を上げている。先輩職員をも追い越す勢いで成長し、新人研修で育てた後輩も十分に役に立ってくれている。しかしその程度では涼介は満足しない。

 今までずっと一番だった。勉強も、運動も、係や役柄も、トップを走ってきた。そんな涼介が初めて負けたのが日向だった。宇宙局に主席入局できなかったことは、五年経った今でも彼の心に傷を負わせたままだ。そして肝心の日向はそんな涼介に見向きもしない。仕事上のわずかな接点がある時だけ顔を出し、自分の要件を伝えるとあっさり帰っていく。まるで涼介のことなど意に介していないかのように。

 それが涼介には不満だった。主席入局と二番手と言えども、試験の点数差で言えば二点以下だろう。それくらいの自信はある。面接での印象なら鉄仮面のような日向より、表情豊かで話し上手な涼介の方が好印象のはずだ。

 それでも主席を取れなかった。理由はわからない。人事係が日向の中に眠る潜在的な才能を見抜いたのかも知れないし、自分が直接見たわけではない面接では案外うまく立ち回っていたのかも知れない。それは誰にも訊けないし、訊くことは許されなかった。自分のプライドを守るためには。

 それでも日向にそっけなく扱われるほどに自分が嫌いになっていく。相手は何も気に掛けていないということが腹立たしく、上から目線でもなく媚び諂(へつら)うでもなく、一貫して同期入局の一人として扱われていることが不満だった。まだ自分が主席入局だとひけらかしてくれるような相手の方がやりやすい。そうでもしなければ承認欲求が満たされない可哀想な奴だと心の中で笑えるからだ。

 日向は奈沙にも可愛がられている。新人研修を担当した関係なのは知っているが、そこに嫉妬心がないとは断言できない。ともすれば自分が奈沙に教えを乞う側だったかも知れないと思うと、日向に対する敵対心がメキメキと現れる。自分を担当してくれた先輩職員にも感謝しているが、もしも奈沙に教えを乞うことができていれば、もっと自分は伸びていたのではないかと考えてしまう。

 今の涼介は、高止まりしていた。〈計測室〉ではナンバー1と言ってもいいほどに活躍しているし、実績も重ねているが、自分より上が身近にいないことで頭打ちになっている。それでも十分な実力を持っているのは花形部署にいるおかげだったが、総合的で客観的な視点から見ると、日向との差異は広がっているのではないかとさえ思えた。

 日向のいる〈観測室〉は、その名の通り人工衛星からのデータを目視して観測するという地味な仕事だ。どんなに頑張っても大手柄を上げられるような仕事内容ではない。しかしそれでも涼介が危惧するほどに、日向の目の付けどころや勘は鋭い。

 幸いにして似たような職務内容の〈計測室〉なので、情報は共有しているし、目立って成果を上げるのも涼介の方だ。だが、その手前にはいつも日向からの報告がある。いつも憎まれ口を叩いてしまうが、そうでもしなければ自分の立ち位置の確認ができなかった。「主席サマ」「エリート様」とわざと言ってしまうのは、それだけ内心で意識しているからだろう。相手は何も思っていないというのに。

 いつも姿勢が良く背筋を正して立っている日向を見るだけで、それが自信から来るものなのかと穿った見方をしてしまう。涼介の方がわずかに長身なのだが、何故か日向が大きく見える。細身で華奢な身体つきなのに、圧倒されるような雰囲気を持っている。

 そのすべてが涼介には脅威だった。まるで眠っている龍だ。片目を開けただけでも自分は跪いてしまうのではないかと感じることもあった。

 だから、涼介は日向が嫌いだと思い込もうとしている。嫌いだから関わりたくない。嫌いだからそばにいたくない。

「嫌い」という感情だけで済ませられるならどれだけ楽になれるだろうか。その効果は涼介にとっても計り知れなかった。



 あと一押しがなかなか来ない。微風も吹かない宇宙空間なら仕方のないことではあるが、〈観測室〉でも〈計測室〉でも職員はヤキモキしていた。日向もそのうちの一人だ。誰よりもその行方を気に掛けているとも言える。とは言え、こちらから手出しをする方法はないし、あってもすべきではない。〈ひとみ〉のオートマタアームでちょんと触れるだけで良いのだとしても、それは許されないことだ。そもそも〈ひとみ〉の操縦は種子島宇宙センターに権限があるわけだし。

 モニタの片隅で付かず離れずの白い物体を見ていると気が滅入る。確かに気にしすぎは精神衛生上良くないようだ。奈沙の言葉が身に沁みる。それでも気に掛けずにはいられなくて、穏便な他のモニタの映像を適当に流し見て、また三番モニタに戻ってきてしまう。

 落ちるとしても宇宙局の敷地内かその付近だと言っていた。地上に墜ちてくる頃には石ころ程度の大きさになっているとも。だから何も心配することはないのだが、日向には別の考えがあった。奈沙に言っても許可が下りるかどうか微妙なラインだ。それでも好奇心と心配を抑えられない。

 墜ちてくるとすればいつになるだろう。正確な落下場所の確認はできるだろうか。〈計測室〉に訊けばすぐにわかるのだろうが、それだと日向の行動が明るみに出てしまう。それは避けたかった。明確な規律違反をするつもりはなかったが、上官の許可なしで行動するのは避けたい。奈沙なら説明すればわかってくれるだろうか。

 日向はさまざまな考えを巡らせながら、三番モニタのもやを眺める。どうせ不明瞭にしか見えないのだが、剥がれれば施設内にアラートが鳴り響くはずだ。

 それまで日向は四つあるモニタを順番に見て異変がないかを確認する作業が主な仕事になる。地味なものだ。〈観測室〉の他の職員たちはその気楽さを美点と見ているが、何にでも真剣に取り組んでしまう日向のような性質だと、この地味な仕事でも毎日へとへとになる。一つ一つに集中しすぎるのだ。

 奈沙は新人研修の頃から日向のその異様なまでの集中力に驚かされていた。特別問題視する箇所があるわけでもないのに、日向は夢中で画面に見入る。初めは宇宙をこんなに間近でモニタできる民間人はいないから、初めてのことにはしゃいでいるのだと思っていた。だが、日向はモニタのあらゆる角度の画像に変化を見つけ、これはどういうことか、何がどうなっているのかと質問してきた。

 視点が違うのだと奈沙が気付いた時には、日向はさまざまな変化を察していた。宇宙にはこんなに無駄なゴミがあるんですか? これはどこまで増えるんですか?

 思えば入局当時から日向はそんなことを言っていた。年間十回は大量の遺骨と遺品を乗せて飛ぶ〈かけはし〉のことを考えれば、将来の宇宙の様子は薄っすらとでも想像がつくだろう。日向にはそれがとっくに見えていた。このまま宇宙葬を続ければ地球の周辺がどうなってしまうのか、気に掛けていたのだ。

 あまりにスペースデブリが増えるようなら、政府も世界も何かしらの対策を練る必要にかられるだろう。その宇宙ゴミが地球に影響を及ぼすというのなら尚更だ。しかし、宇宙葬が始まって三十年を過ぎた今でも何の対策もなされていない。誰も宇宙に捨てたゴミの行方など気にしてはいない。

 日向の感性は通常の人間より多少鋭いのかも知れない。だから他人がそう気に掛けないことでも気になり、集中すれば寝食をも忘れるほどに没頭する。自分一人ではどうしようもないことにも胸を痛め、どうにか、何とかならないかと思案する。

 奈沙は何度も相談を持ちかけられた。〈かけはし〉に乗せられる遺品の大きさや量を制限できないか。散骨する遺骨を半分程度にはできないか。今の衛星軌道の外側にもう一つ軌道を作れないか……。

 だがそれは宇宙局の担当する分野ではない。できてもせいぜい一つの意見として上に上げることくらいしかいできない。差し迫った危機があるわけでもなく、宇宙局の職務に支障が出るわけでもないのなら、差し挟む口もない。実質何もできないのだ。

 日向が散骨業者に転職しても状況は変わるまい。政界に入ったとしても何も覆せまい。宇宙は果てしなく大きなゴミ箱なのだと誰もが思っている。その基本的概念を国家単位で変えようとするのは、どだい無理な話だった。宇宙から侵略者がやってきて、これ以上宇宙にゴミを放置するようなら容赦はしない、などと警告でもしてくれない限り、この状況は何も変わらないのだろう。

 日向は地球外からの侵略者の警告を待っているわけではなかったが、それくらいのことが起こらなければ事態は好転しないと感じていた。

 そして日々モニタを観察する。剥がれ落ちそうで落ちない不明瞭なもやを見て、胸の中に不安がこみ上げる。主席で宇宙局に入局したものの、ここでの仕事は日向の精神的な部分に暗い影を落とすものだった。

 幼い頃から宇宙に興味があった。惑星、恒星、銀河、ブラックホール、ダークマター。まだまだ人類には解き明かせていないものが、宇宙空間に広がっていた。見かけによらず好奇心旺盛な日向は、その謎を解き明かしてみたいと思っていた。宇宙局に入局したのはそんな純粋な夢から発したものだ。

 だが実際入局し、〈観測室〉に配属されて現実を知った時、日向の夢は壊れた。人類は何も宇宙のことを理解しないまま、都合良く使っている。宇宙葬の何たるかを深く知らずに青春期を過ごした日向は、入局して初めて、あの莫大な費用を掛けた国家プロジェクトの裏側を知ったのだ。

 宇宙葬。死者の遺骨を宇宙に散骨し、夢を与える仕事。遺族にも、これから遺骨になる者にも、死んだら宇宙に埋葬されるという夢を見せ、苦痛を和らげる。散骨業者の広告ではそんな文句が並んでいた。その結果がこの宇宙ゴミだ。民間人には見せられない画像。どこにも公開されない情報。詳細を知っているのは政府と散骨業者だけという狭い世界で、人間は死後の夢のために大枚を叩(はた)く。

 ──本当にこれでいいのか?

 日向は何度も自分に問うた。だが、良かろうと悪かろうと、自分には何もできない。宇宙空間をゴミ溜めにすることを止められない。できるのはそれを見ていることだけだった。

 宇宙局の、〈観測室〉の仕事が嫌いなわけではない。自分には向いていると思っている。些細なことも気掛かりになってしまうのは悪癖だと思うが、それで誰に迷惑を掛けるでもない。ただちょっとした愚痴を奈沙に零す程度だ。それくらいは許されるだろう。

 宇宙が汚されていく。幼い頃に夢見た輝かしい空間が、ゴミ溜めにされていく。それはやはり見ていて気分のいいものではなかったし、残念なことだった。

 いつか宇宙からの報復が来るのではないか。

 日向は本気でそう考えていた。侵略者云々とまではいかないにしろ、間もなく遺骨の一部が地上に落下しようとしている。いくら被害はないと計測されていても、散骨がどんどん重なればそれだけスペースデブリは増大する。ならば今回のようにまた何かしらのものが地上に落下してきてもおかしくはない。

 無重力の宇宙空間と、重力を持つ地球。宇宙ゴミを留めておく力はどちらの方が強いのだろうか。落ちてくるものの重量や形状にもよるのかも知れない。運というわけのわからない要因も絡んでくるだろう。

 それで地球は助かるのだろうか。宇宙にすべてを押し付けて、人口増加のために墓地を失った地上は守られるのだろうか。あと何年こんなことを続ければ、人類は自らが原因となった異変に気付くのだろう。

 三番モニタのもやの中で、いつ剥がれるとも知れないものの変化を待ちながら、日向は思いに耽っていた。

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