〈2〉第2話
「塩梅はどうだ?」
「そうですね、相変わらず何も変化なしってとこです」
「そうか。剥離には時間がかかりそうなのだろうか」
「首の皮一枚で繋がってるっていう感じですね」
奈沙と涼介の〈計測室〉での会話だった。剥がれ落ちそうで落ちない微妙な状況らしい。〈ひとみ〉の望遠レンズでも限界までズームアップしているが、うまく噛み合っているのか引っかかっているのか、あとほんの一押しで剥がれそうなところが繋がっているとのことだ。宇宙では風が吹くわけでもないので、その「あと一押し」のきっかけがなかなかないらしい。
「〈ひとみ〉のアームで剥がしてもいいんですけどね」
「それは許可できないな。わかっていて言っているのだろう、瀬川」
「はは、わかりました? 上官ならなんとかしてくれるかと仄かに期待したんですけど、さすがに人間が手を加えちゃダメですよね。軌道も計算と変わってくるし」
「わかっているならいい。いずれ剥がれ落ちてくるのだろうが、見ているとヒヤヒヤするな。しかもこれだけ不明瞭だと計測もしづらかろう」
「まぁそうですね。他の部分みたいに明らかにわかりやすい映像ならいいんですが、どうしてここだけもやがかかったようになってるんだか」
日向がわざわざ報告に来たくらいだから、何かしら意味があるのかも知れないと涼介は思う。悔しくはあるが、主席入局の実力は認めてはいるのだ。日向の勘はよく当たることも。
「万一剥がれた場合、どれくらいで地上に落ちる?」
「角度にもよりますが、計算上では三分半ってところですね」
「高度二十キロあたりで減速するからな。若干光りはするだろうが、大騒ぎにはなるまい」
「大丈夫です。地上に付けばそこらの石ころと変わりませんよ」
「この施設の敷地内に落下する可能性が大きいんだな?」
「ええ、ほとんどの可能性ではこの施設を中心に五百メートル程度ですから、西に逸れなければ拾えるでしょうね。ただ、そこまで確実なことは何とも」
「仕方あるまい。高度二百キロから三分で墜ちてくるものの計算だ。範囲がここまで狭く絞れるだけでも十分にありがたい」
「上官にそう言っていただけるとホッとします」
「胸を張るがいい。日本の宇宙局の〈計測室〉は世界一の精度だ」
「はい!」
それは涼介のプライドでもあった。世界を顧みても突出して日本の〈計測室〉の予測は正確で早い。そこに自分が所属し、操作しているのだから、胸を張りたくもなろう。
「しかし剥がれそうで剥がれないとは、何とも落ち着かんな」
「さっさと墜ちてくれれば楽なんですけどね」
「どうせ墜ちるのなら思わせぶりな時間を持たせないで欲しいものだな」
「本当に」
奈沙はくっくと肩を揺らして笑う。宇宙局の職員として、さらには〈副長〉として、「早く隕石が墜ちてきて欲しい」などとは大っぴらには言えまい。それも相手を信頼しての会話だから、涼介にとっては喜ばしいことだった。上官に信頼されているというのは誇らしい。
「ではまた寄るよ。剥がれればアラートが鳴るだろう」
「はい、一応処理案件ですので全職員に通達されるはずです。寝ていても起きるほどに」
「寝ている奴にはかなわんな」
はっはと鷹揚に笑って奈沙は〈計測室〉を辞した。
涼介は姿勢を正して見送る。奈沙が廊下の角を曲がるまで四十五度の礼をし、コツコツと響いていた靴音が静かになった頃に頭を上げる。
現奈沙は場主義の〈副長〉なだけあって、いつでもあちこちの部署に顔を出しては様子を窺っている。それを鬱陶しく思う職員はほとんどおらず、いつも労ってくれる上官に親しみを抱いていた。局長室で踏ん反り返っている〈局長〉の存在よりも、奈沙の方が抜群に職員からの信頼と尊敬を集めているのは言うまでもない。
入局八年で〈副長〉の肩書を授かった出世には当然理由がある。いくら主席入局のエリートでも、十年も通常勤務をせずに上役に就くなど常識では考えられない。母方の祖父が元局長というのも知っている者は多くないし、そんなものは理由にならなかった。
かつて〈副長〉を努めていたのは全員が男性職員だったが、何故か早逝するのである。年齢もそう老いているわけでもなく、既往症もないのに、だ。
〈副長〉の座は、所謂「不吉な役職」だった。だから女性を投入してはどうかという意見が出た。もともと宇宙局には女性職員は少なく、候補者を探すのに数年を要したが、そこへ笹垣奈沙というエリートが主席入局してきた。奈沙が入局した翌年に一人、日向の新人研修に付いている時に一人、そして昨年に一人の〈副長〉が亡くなった。これだけ続くと誰もその役職に就きたがらないのは当然である。奈沙だってその話は聞いていたし、実際自分が入局して十年と経たない間に三人もの上司が早逝しているとなれば、ただ事ではないのはわかっていた。
そこへ自分にお鉢が回ってきた時は、一体何の冗談かと思った。まだ勤続十年にも満たない女性職員だ。いくら主席入局といえども、できることには限界がある。齢三十歳、〈観測室〉に配属されて毎日モニタに張り付いているだけの日々で、上官の仕事内容など知りもしない。
「何故私が?」
奈沙ははっきりと訊いた。押し付けられるように「不吉な役職」に就くつもりはなかったし、自分にはまだ荷が重すぎるとも感じていた。かつてこんな〈副長〉など存在したこともなかっただろう。だから理由を明確にしておきたかった。早く死ねということなら、当然引き受けるつもりはなかったのだが。
これまでの〈副長〉が五十代の男性職員だったこと、特に飛び抜けてエリートだったわけでもなかったこと、「不吉な役職」の共通点である五十代男性でなければジンクスは覆るのではないかということなど、上官は包み隠さず理由を話してくれた。
それに、奈沙に万が一不吉な兆しが見られた場合には即座に解任するとも約束してくれた。その正直で誠実な対応に、奈沙は少し心を揺さぶられたのである。ならば自分が「不吉な役職」の汚名を返上してやると思った。そして周囲の反対もなく〈副長〉の椅子に収まった。
それからまだ一年も経ってはいないが、ひとまず三年は様子を見るつもりでいる。「不吉な役職」の呪いがあるのなら、いつでも受けて立つ覚悟だった。今のところは体調にも変化はないし、事故にも事件にも巻き込まれそうにない。やはり「五十代男性」という共通点から外れたのが良かったのだろうか。
理由はわからないが、そういうわけで奈沙は〈副長〉として宇宙局のナンバー2の座に君臨しているのだった。ただ、やはり性格的に副長室でおとなしく部下の報告を待つのは合わず、いつもあちこちの部署に顔を出しては声を掛け、何なら腰掛けで仕事をすることもある。部下がそれを「恐れ多い」と感じるのならば、よく日向にしているようにコーヒーを入れてやったり、差し入れを持ち込んだりもしていた。
奈沙なりに気遣いはしている。いくら「不吉な役職」の生贄であろうと、部下から見れば立派な上官で、宇宙局の〈副長〉なのである。我ながら中途半端な立ち位置だな、と思いながら、奈沙は日々の仕事をこなしていた。
宇宙は暗い。その中で多くのスペースデブリが浮き上がるように見えているのは、〈ひとみ〉に搭載されている光源とカメラの調整によるものだ。そしてほとんどの宇宙ゴミが遺骨であるため、白く光って見えるのである。
不吉な白。映像では磨かれたようにつやつやして見える。実際には一度焼かれたものたちなので、スカスカなものもあれば脆く崩れそうなものも多い。しかしもちろん健康的で頑丈そうなものも少なくはない。死は不健康な老人にだけ訪れるものではないからだ。
事故死した若者、突然死した中年。そんな人間の骨は丈夫だ。部位にもよるが、焼いたくらいではそこまでボロボロにはならない。
日向はモニタを舐めるように眺めながら、遺骨以外の宇宙ゴミにも注目していた。遺品としての楽器、コンピュータ、ガジェットの類。かつてなら遺体と一緒に焼くことは禁止され、墓穴にも入らなかったものが、今は金さえ積めば一緒に宇宙に撒いてくれる。
大きなものではコントラバスという遺品があり、硬質なものでは自作のコンピュータや電子機器があった。小さなものでは先に逝ったペットの首輪、恋人の指輪などがある。どの遺骨にどの遺品が付いているのかもわからずに、それらは宇宙を漂っている。衛星軌道に乗って。〈ひとみ〉に見守られるようにゆらゆらと。
コツン、と後頭部を突付かれた。こんなことをする相手は一人しかいない。
「何ですか副長」
振り返りざまに日向は言う。そこにはその通り奈沙がいた。
「モニタに食い入りすぎだ。視力を落とすぞ」
「……すみません」
「お前は夢中になると何も見えなくなるからな。たまには自分の身体の悲鳴にも耳を傾けろ。病気になってからでは遅いぞ」
自分こそ「不吉な役職」に就いていつどうなるかもわからないのに、奈沙は部下の心配ばかりする。「私はろくに仕事をしていないからいいのだ」というのが彼女の常套句だ。
「また変なものでも見つけたのか?」
「いえ、そうでは。ただこのスペースデブリはどこまで増え続けるのかと」
もう三十年も宇宙にゴミを送り続けている人類は、しかしこのような画像を見る機会もないので宇宙をゴミ箱にしている実感は薄いのだろう。確かに、一人一人が出すゴミはそうたいしたものではないが。〈ひとみ〉を通じて日夜宇宙を眺めている日向たち宇宙局の職員からすれば、嘆かわしいことに違いない。
「人間は、宇宙に送ればそこで自然消滅するとでも思っているのでしょうか」
余程の金持ちで家族思いの家庭でなければ、毎年有人ロケットに乗って宇宙まで手を合わせに来ることなどない。普通は散骨のためにロケットに乗ることすらなく、遺骨だけを〈かけはし〉に預けて地上で手を合わせる。だから宇宙の様子など知りもしない。
「センチメンタルだな、日向は」
「そうですか?」
「人間など自分勝手なものだ。一度散骨してしまえば、遺族を思い出すことさえ少なかろう。昔は盆というしきたりもあったがな。今ではただの長期休暇でしかない」
それは日向も知っている。八月の半ばに無意味に訪れる、カレンダーにない休日。盆と言って、死者に思いを馳せる日だと聞いたことがあるが、それを実行している者には出会ったことがない。地上から墓場がなくなってしまったのだから当然だ。自宅で遺影の前で手を合わせる家族もいることだろうが、たいていは観光地が賑やかになるだけである。
それも宇宙局で働いている日向には関係のない休日だったが、「お星さまになる」と言われていた死者が今や宇宙ゴミになっているとは、民間人は想像だにするまい。政府が発表するわけでもないのだから、真実を知っているのは宇宙局の職員や散骨業者くらいのものだろう。
「宇宙は本当に無限なんでしょうか」
「どうだろうな。しかし散骨できる衛星軌道には限界があるのだから、そのうち誰かが新しい考えを出してくれなければ我々も困ることになるだろうな」
「俺たちは考えなくていいんですか?」
「考えたところで何もできまい」
奈沙はドライに現実を語る。確かにたかだか公務員の宇宙局職員がどうのこうの言ったところで、現実は変わらないだろう。〈ひとみ〉の画像を見せたところで実感も湧くまい。人間は、所詮自分のことを中心にしかものを考えられないのだから。
「スペースデブリが〈ひとみ〉や〈かけはし〉に影響を与えたら困るでしょう。無人機ではありますが、一基作るのにも国家予算から差っ引かれているんですよ」
「金で解決できるならいいんだろう。散骨業者も政府も、この仕事ではえらく潤っているらしいからな。そこから給料をもらっている私たちには何を言う資格もないよ」
「……」
そう言われてしまえば弱い立場なのである。所詮宇宙局の職員は公務員。国から給与をいただいている身分である。食ってかかれるわけもない。
「副長は物分かりが良すぎます」
「日向はこだわりすぎだ」
お互い「そうだな」と思いつつも突っ掛かるのをやめられない。
「いつか宇宙からのしっぺ返しが来そうです」
「私たちにか? それは楽しみだな」
「来てからでは遅いですよ」
「今でももう手遅れだろうよ」
奈沙は日向の頭をポンポンと叩いた。
「日向。お前は何事も真面目に深く考えすぎだ。それを悪いことだとは言わないが、ほどほどにしておかないと精神的に堪えられなくなるぞ」
「でも……」
その後の言葉を続けられなかった。奈沙が優しい目で日向を見つめる。慈しむような、心配するような、穏やかな眼差しだった。
「わかっている。だが私たちがどうあがいたところで、地球を救えるわけではないのだ」
「……そうですね」
それは日向もわかっていた。自分一人が、たとえあと数名が、仮に宇宙局全体が異を唱えたところで、何も変わりはしない。自分たちの立ち位置が危うくなるだけだ。国の許可がある限り散骨業者は〈かけはし〉を使って宇宙葬を続けるだろうし、自分たちは〈ひとみ〉を通してそれを見守ることしかできない。それが仕事だからだ。
嫌なら宇宙局を辞めれば済む話ではあるが、宇宙の様子を見守れる現在の職を辞してまで上の圧力に逆らう気もない。結局自分は無力なのだと帰結してしまう。見守ることしかできないのは何とももどかしい。近々スペースデブリの破片が地上に落下しそうだということもあり、日向は気が気でなかった。
〈計測室〉では四六時中それらを監視している。万が一地上に落下した時の落下地点を計算で予測し、速度や最大限の被害も想定して備えている。何も心配はないはずなのに、本能のようなものが頭の片隅でアラートを鳴らす。
あの奇妙な後味の夢のせいもあるのだろうか。何か良くないことが起こりそうな気がして、モニタを見つめる目にも力が込もった。
「また来る。少しは休めよ」
言って奈沙は踵を返して〈観測室〉を出ていった。日向はモニタに視線を戻す。定期的に増え続ける宇宙ゴミ。それらを清掃する業者など今のところはいない。ブラックホールにでも呑まれてくれれば多少は気持ちも軽くなるのかも知れないが、それは無意味な期待だった。そもそも地上二〇〇キロの地点にブラックホールなどがあっては困る。いずれ地球が呑み込まれてしまうだろう。スペースデブリの心配どころではない。
奈沙の言葉を無視してまたモニタに食い入る。〈ひとみ〉の高解像度のズームアップで見る遺骨と遺品は、まったくただの宇宙ゴミでしかなかった。他人である日向には何の感慨も湧かない。ただこれらがこの先溜まっていくことに気が滅入るだけだった。
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