第3話 ミステリーマニア
今まで人が死んでいるのを見たのは、祖母が死んだ時が初めてだった。
病気だということだったが、ハッキリとした病名は効かされていない。きっと小学生に話しても一緒だと思ったのと、いくつもの病気を併発していたようだったので、病気の種類を一つ一ついうのが面倒でもあった。
「老い先短い命なんだろうな」
というイメージを抱いていたが、やはり、最初に入院してから半年後には、
「いよいよいけない」
ということになったようだ。
「どうせ助からないのなら、本人の意向でもあるし、自宅で最期を迎えさせてあげるのが一番いい」
という親族全員の意見もあって、ちょうど最初に入院してから半年後に自宅に帰ることになった。
祖母が死んだのは、自宅に帰ってきてから、その翌朝だった。
「こんなに安らかに眠ったように死んでしまえるというのは、ある意味ではよかったのかも知れないな」
と親戚のおじさんが言っていたが、まわり誰もが同じように頷いていた。
確かに若干微笑んでいるように見えるその顔は、見ているだけでほっこりさせるものだったように思う。死ぬということが本当は怖いことでも何でもないような錯覚に陥らせるほどだった。
だから、余計に冷たくなっていく祖母の姿にいたたまれなさを感じた。あれだけ安らかだったはずなのに、どんどん冷たくなっていくのを見なければいけないというのは、どうしてもしなければいけないことなのかということを感じさせるのだった。
最初は親戚縁者だけだったものが、葬儀屋さんがやってきて、テキパキと通夜や葬式と、手筈を整えていく。少年であった西村も、葬儀屋さんからいくつか指示を受けていたが、最後まで覚えていたかどうかも怪しいものだった。
葬儀屋さんがやってくると、家の雰囲気はまったく変わってしまった。家全体に紅白の幕が張られて、綺麗な木でできた大きな催事の壇が飾られ、やたらと明るい照明の中で、白さがひときわ目立つように演出されていた。白装束もまるで光り輝いているようで、祖母の顔が眩しくて見えないほどだった。
――血の気が失せた精気のない顔は、光り輝く白装束の中で見えなくならないような演出のように感じる――
というおかしな感覚を植え付けていた。
「これだけ安らかだと、苦しまずに死ねたんだろうな」
と言っている親戚の人の話を訊いて、その時初めて、
――死ぬ時というのは、苦しむものなんだ――
と感じた。
人から殺されたりした場合は、苦しんだり痛かったりするものなのだろうが、病気だったり。自然死というものは、苦しまずに死ねるものだと思っていた。
「死ぬ時は、病気がいいな」
と思わず子供心に呟いてしまった時、それまでにないほどの怒りを込めて、母親が怒ったのを思い出した。
「お前は何てことをいうんだい? 病気だろうが自己だろうが、死ぬ時は苦しかったり、痛かったりするものさ。だからお母さんは、どんな形で死にたいなんて、絶対に思わないようにしている」
と言っていたっけ。
苦しみをどのように感じるか?
市という者から苦しみは逃れられないと知ると、
「ひょっとしたら、知らないだけで、楽に死ねる方法なんていくらでもあるのかも知れない」
と感じたのだ。
綺麗に白装束で飾られた祖母は、鼻をいっぱいに飾られた棺桶に安らかな顔で眠っている。しかし、最初に感じた安らかさとは若干違っていた。最初に見た時は、まるで楽しそうに笑っているかのように思えたのだ。
「おばあちゃんが死ぬ前にね。私の死に顔は誰にも見せないのよって言ってたの。最後の最後は本当のことだったのよね」
と母が言うと。
「それはおばあちゃんに限らず、生きてる人が皆感じることだよ」
と、親戚の人が言ったのを覚えている。
中学生になってから、友達に訊いた話によると、
「動物というのは、自分の死に顔を見られたくないという思いからか、死というものが違づいてくると分かるものらしく、死の寸前に姿をくらますらしい。その時は決してまわりは誰も探さないんだって、それが礼儀なのかも知れない」
というので、
「そんなものかな?」
というと、
「だって、人間は生れることと死ぬことは選べないんだ。誰から生まれてくるということや、いつどうやって死ぬということも選んではいけないことになっているんだ。だから、死を逃れられないと分かった時くらいは、その人の思いを遂げさせてやってもいいんじゃないか?」
と言っていた。
その言葉には信憑性も説得力もあった。確かにそう考えると、
「人間は生れながらに不公平だ」
と言えるかも知れない。
死ぬ時でもそうだ。
「どうして死を自分で選べないのか?」
ということであるが、どうも宗教的な理由くらいしか思い浮かばない。
人間は、おのれの欲のために、平気で人殺しもするし、戦争などを起こして、殺し合いすらする。戦争だって誰が好き好んで殺し合いになど行きたいものか、確かに君主のため、国家のため、ひいては家族のためと言われるが、肝心のどこが自分のためだと言えるのだろうか?
殺し合うことで、家族のいる相手を殺さなければならない。なぜなら、こっちが殺されるからだ。
そんな状況に人間が陥ることを看破しておきながら、自殺は許されないという戒律を設けておきながら、さらに言えば、戒律の中に、
「人と殺してはならない」
と書かれているではないか。
そもそも戦争になる原因というものの多くは、宗教がらみだったりする。戒律で人を殺してはいけないという宗教が、殺し合いの原因になるというのは、これほど本末転倒なこともないだろう。
戒律というものだけではなく、世の中にはタブーと呼ばれているものもたくさんある。
その一つ一つを、
「どうしてなのか?」
などと考えていくと、埒が明かない。
だが、今目の前でさっき、理不尽なことを目撃したではないか。
いわゆる、
「不倫:
である。
不倫というものは、結婚をしている人が伴侶を裏切って、他に人の好きな人を作るということである。
「どこからが不倫で浮気なのか?」
というところは難しいだろう。
人によっては、一緒に歩いてるだけでもダメだと思う人もいるだろうし、肉体関係まで立証できなければ、不倫とは言えないとも言えるだろう。法律的には、肉体関係ありきで決まるようだが、実際に不倫を裁く法律はない。
「精神的に衰弱してしまい、誰も信じられなくなったり、男が信用できなくなった」
などという精神的な障害を損害賠償という形で請求することはできるだろう。
そして、いざとなると、離婚という問題にもなってくる。
相手が不倫をしたのであれば、旦那と相手の女性に相応の慰謝料を吹っ掛けることもできるだろうが、しょせんそこまでなのである。姦通罪というものも、とっくの昔に廃止されているので、刑法上、警察が介入することはできないのだ。
もちろん、それが原因で犯罪に走るということもあるだろうが、警察が動くという場合は、
「何か起きなければ動かない」
という警察を地で行くようなものである。
不倫というものは奥が深く、
「不倫をした人は家族を裏切ったのだから、悪いに決まっている」
と果たして言い切れるのだろうか?
原因を作ったのは、伴侶の方かも知れないし、原因を突き詰めていくと、どこまでさかのぼらなければならなくなるか、そう簡単に割り切れるものではなくなってくる。
要するに、
「分からないのだ」
何が原因なのか、根本的なことも分からないから、結局全体として見えているところを考慮することで、
「不倫は悪いこと」
と一括りにされてしまう。
そう思うと、不倫を悪いことだという根拠がどこにあるのか、ハッキリとした答えはないのではないか、
「不倫なんて悪いことにきまってりじゃん」
という押し付けがましい説得で、強引に突き詰めただけではないのだろうか。
そういう意味でいえば、もう一つ気になっていることがあった。
近しい間柄で愛し合う、いわゆる
「近親相姦」
である。
これも何が悪いというのか、確かに昔からの言い伝えで、
「不具者が生まれる。畸形が生まれる」
などというものがあるからであろうか?
医学的には証明されているわけではない。ただ近親相姦の場合は、民法の規定では、
「直系または、三親等以内の傍系血族とは結婚できない」
ということである。
つまり、叔父や姪、叔母や甥とは結婚できないが、いとこ同士では結婚できるということである。
結婚ではなく、姦通する場合は、実際に罪に問われることはない。世界では近親相姦財というものがある国があるが、日本にはない。
なぜ、近親相姦がダメなのか?
これも、ハッキリとした理由がないのだろうと思う。昔からの謂れを信じ、世界的にいわれていることも、宗教などからの教えで、いい悪いという判断をする。
友達から聞かされたミステリーの中には、近親相姦を扱った話があった。聞いているだけで気持ち悪くなってきて、想像を絶する内容に、きっと表情をゆがめていたことだろう。友達もそんな表情を見て。明らかにほくそ笑んでいたのを感じた。だからこそ、近親相姦が悪いことのように思われるのではないかとさえ思った。
近親相姦にしろ、不倫にしろ、取り締まることはできない。家族が壊れてしまうかも知れないと言っても、人の心にまでは取り締まることはできないからだ。
だが、マスコミはそういうゴシップが好きである。何と言っても、そういう内容を喜ぶ人たちがたくさんいるから、世間も近親相姦や、不倫などというワードには敏感なのだろう。
小説の世界では、このような非現実的ではあるが、影では結構行われていたり、実際に起こることとして、
「現実は小説よりも奇なりというが、小説の方が現実よりも面白いという方が大いに決まっている」
と言えるのではないだろうか。
なぜなら、現実世界ではいくつかの不倫や近親相姦が行われていたとしても、結果としては、ほとんど皆同じ道を歩むのではないだろうか。だが、小説では筆者が頭を巡らせていくらでも発想を膨らませて書くことができる。しかし、それでも、
「現実は小説よりも奇なり」
と言われるのは、どんなに頭を凝らしても、現実に起こったことには適わないということではないだろうか。
つまりは、パターンが多ければ多いほど、その内容は薄いものになってしまい、結局は現実に起きたことに繋がってくるだけなのではないだろうか。
そう考えると、小説は現実には適わないということになるのだが、せめてもの救いは、
「人の感情が多種多様だ」
ということである。
中には現実よりも小説で面白いものを見つけて、それが売れたりする。
そんな小説がベストセラーになるのだろう。
そう思うと、小説界というのも、実に不公平にできていると言えるのではないだろうか?
「世の中なんてそんなものだ」
と、小説の中の登場人物が言っているように聞こえる。実に不思議だ。
だが、いくら小説の中には、現実よりも面白いものがあると言っても、あのリアルさには適わない。人が断末魔の表情で死んでいたり、夥しい量の血が噴き出していたり、さらいは血や死臭が漂った場所にいるだけで、どんなにあがいても、小説はリアルには勝てないのだ。
今回目撃した死体は、絞殺ということもあり、その表情に恐怖を感じた。
「明らかにあの顔はこの俺を見ている」
と思わないわけにはいないほどの、断末魔の表情、一体これ以上、どんな表情があるというのだろう? 本当に目玉が飛び出してきそうな形相だった。
「早く、珪砂y祖人、来ないかな?」
とそればかりを考えていた。
本当はその場から一刻も早く立ち去りたい。
どこに行くのかと訊かれても困るのだが、とにかく、あの断末魔の顔を早く忘れたい。
――こんな思いを、またするなんて――
と西村は感じた。
たった今見てきたような断末魔の表情の、その目には、最後の瞬間、何が映っていたのだろうか?
犯人の顔? その顔は相手もひどい形相だったのか、それとも、変質者のようなニヤリと笑ったような表情だったのか、西村は分かりそうに思ったが、よく考えると、
「俺なんかに分かるはずはないんだ」
と口にしたが、実際にはそうではない。
別の意味で、分かるはずはないと分かっているはずなのに、それを認めたく無かったのだ。
「この死んだ男は、差塩に犯人の顔を見たのだろうか?」
自分を殺したんのがどんな人なのか分かっているのだろうか? ひょっとすると、自分が殺されたことはおろか、死んだということまで分かっていないのかも知れない。
以前テレビドラマで、死んだ人が死後の世界にいくために立ち寄る場所があるというのを見たことがあった。実は、似たようなシチュエーションのドラマがいくつかあって、そのうちの一つなのだが、友達に訊いてみると、
「それぞれの話に共通しているのは、死んだ人、その週の主人公なんだけどな、その人は自分が殺されたこと、いや、死んだことすら分かっていないって設定になっているんだよ」
と言っていた。
「なるほど、それは面白そうな話だね。被害者はそこで死後の世界を選ぶんだけど、その時に自分が誰に殺されたかというのを回想するのが、そのドラマだったんだね?」
と聞くと、
「ああ、その通りさ。よく分かったな?」
と言われても、
「見たことはないんだけど、何となくそんな話なのかなって感じてね」
確かにそのセリフはウソではなかったが、分かったというよりも、感じたと言った方がいいかも知れない。
そう、きっと分かろうという気持ちになると分からなかっただろう。
分かるのではなく、感じるということが大切なのだ。それは趣味で小説を書いている友達がいて、そのことを話していた時のことだった。
「小説を考えながら書いていると、なかなか筆が進まない。考えるよりも感じてみて、思った通りに出た言葉を繋いでいけばいいんだよ。だって、喋る時、意識的に何かを考えているかい? 考えるというよりも感じたことが口から出ているという感じじゃないのかい?」
と言われた。
「確かにその通りだね」
「それにその人が言った言葉なんだけど、『最初は書こうという意識が強いから、書けるものも書けない。書こうと思うんじゃなくて、話をしているつもりになって書けばいいんだよ』と言っていたんだ。考えてみればそうだよね。人は他の人と話をする時に、いちいちすべてを考えてから言葉に出しているかな? 考えているとすれば、『こんなことは行ってはいかないんだ』という減算的な考え方になるだろう? それが小説を書けるようになれるかどうかの境目だって言っていたな」
それが友達の言いたいことだったようだ。
「書くということがどういうことなのか、僕には分からないけど、確かに話ができるんだから、書くことだってできるという結論はありだと思うよ、だけどね、これを文章にすると難しい。しかも、絵で描いているわけではないから、描写や情景を文字で表現しないといけない」
「それだって、簡単に言ってるけど、実際に実行するには難しいことなんじゃないかな?」
「それは言えるね。小説に限らず、絵画でも写真でも同じことが言えると思うんだ。正直言って、どこにも正解はない。例えばプロになったとしても、売れたからと言って、それが正解というわけではない。それは分かっているつもりなんだけどね」
と西村は答えた。
西村は小説を書くということまでは考えなかったが、ミステリーをたくさん読むことに掛けては、友達の中でも結構読破している方だという自負があった。
小説というものを自分で書いてみたいと思っていたのは友達の方で、彼の家にいけば、
「小説の書き方」
などという本が所狭しと本棚を埋めていた。
確かに本ばかり読んでいても、頭でっかちになってしまうだけであろうが、友達が勉強熱心なのは分かった。
それなのに、学校の勉強はあまり成績がよくない。
「小説に打ち込めるだけの熱心さがあれば、成績ももっと上がるんじゃないか?」
というと、
「じゃあ、お前は自分の好きなものと勉強を天秤にかけられるというのか?」
と言われて、何も言えなかった。
自分お好きなものを一生懸命に勉強することに掛けては、他の人に負けないというつもりでいた西村だったが、
「では、何が一体、そんなに好きなんだ?」
と訊かれて答えることができるだろうか?
確かに少しずつ、他の人よりも自分の方が興味を持っていると思うものはあるが、自分からその世界に入り込んでしまおうという意識にはならなかった。
小説を書いているという友達を見ると、羨ましくなってくる。彼は自分で書いた小説を、出版社の新人賞にいつも応募している。
「やっぱり、何か評価が出てくれれば嬉しいもんな」
と言っているが、残念ながら、いつも第一次審査で落選ばかりを繰り返していた。
それでも彼は書き続ける。
「とりあえず、書き続けられれば、それだけでいい」
と言っている。
彼の書く小説はやはり好きなだけあって、一番読み漁ったミステリーである。ミステリ0であれば西村も好きなので、彼が書いた小説を読ましてもらったことも何度かあった。ただ、応募前の作品は恥ずかしいのか、落選した後で読ませてもらうのだが、やはり、
「一次審査で落選した作品」
という目で見るからか、本来の小説の面白さに気付いていないような気がした。
たまに、その話の続編というか、二次創作のような話を西村は書いたりしている、それを友達に見せると、
「なかなか面白いじゃないか、これだったら俺よりもお前の方が賞を取るのは近いカモ知れないぞ」
と言ってくれるが、
「いやいや、俺のは、お前の小説という土台があっての、二次創作だ。一種の盗作のようなものだ」
と言ったが、まさにその通りだった。
友達もそれを分かっているから、それ以上は何も言わない。やはりオマージュやリスペクトと言っても、元は人の作品。盗作でしかないのだろう。
「最近は、スピンオフとか言って、有料テレビの方で、ドラマのサイドストーリーのようなものが流行っているけど、見たことあるかい?」
と友達から聞かれて、
「いいや、ないよ。僕は本筋の話が好きなものは、サイドストーリーには見向きもしたくないんだ。せっかくの作品の質を落とすことにならないかと思ってね」
というと、
「いや、それこそ人それぞれの見解があるよね。実は僕もあまりサイドストーリーというか、チェーンストーリーはあまり好きではないんだ」
というではないか。
「お前、やっぱり書いた方がいいぞ」
と続けて友達が発言すると、
「そうなのかな?」
とその気になっている西村だった。
だが、さすがにミステリーを書いてみるだけの力はなかった。なぜなのかは自分でも分かっているつもりでいた。
それが、
「リアルと小説の間にあるギャップとずれ」
であった。
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