第2話 正当化
「近道なんかしようなどと思わん帰ればよかった」
と思ったが、それは後の祭りだった。
後悔しても時間が戻ってくるわけでもなく、もやもやした気持ちの中で帰宅しなければならないと思うと、今度は、またしても、二人への怒りがよみがえってくる。怒りに任せてもやもやした気持ちでいると、今度はまたしても、そんな自分を苛めてしまっていることに気づく。
結局、同じ感覚を堂々巡りで繰り返しながらその日一日を過ごさなければいけないと思うと、気持ちが沈んでいく気持ちになり、
「この感覚が鬱状態を作り出すのかも知れないな」
と感じた。
中学生になってから、鬱状態というものを感じ始めていた。
「今が鬱状態なんだ」
と考えると。急にそれまで考えていなかった自分のまわりを感じるようになっているのだった。
まわりのことを考えていると、自分が今どのあたりにいるのかをまず考えてしまう。時系列で自分はその場所に止まっているのでなければ、かならずどちらかに向かって動いているのであり、そこには、スタート地点があり、ゴールが存在する。
その間の自分がどこにいるのかということを、無意識に感じてしまっていることに気が付いた時、
「俺は今、鬱状態なんだな」
と感じるのだと、西村は感じるのだった。
それは夢の中で見た吊り橋を思い起こさせる光景であることを感じさせた。
吊り橋がかかっているのは、断崖絶壁の上であり、当然底なしの谷の上にかかっているので、相当な風が吹いているのを感じていた。
自分がその橋の真ん中にいる。どうしていきなりその場面から始まるのかという疑問ではあるが、
「夢を見ているから」
という理屈で解決できた。
少々強引であったが、
「どうせ、目が覚めたら忘れているだ」
という意識から、解決することができる。
橋の真ん中にいると思っているのだが、その理由は、正面を見ている距離と、後ろを振り返った教理とが同じに思えるくらいに、その光景はまったく一緒だったからだ。後ろに関しては身体を動かして後ろを正面にする形で見たわけではない。そんなことをすれば、身体のバランスを失って。そのまま谷底に落っこちてしまうか、あるいは、後ろを振り返ってしまうと、もう二度と前を向くことができなくなってしまうのではないかという危惧を感じたからだった。
西村は、結局そこを真ん中だと理解したようだが、実際には違っていた。
以前、田舎のあぜ道をただ舗装しただけのような一直線の道を、果てしなく歩いた経験があった。初めて歩いた田舎道、誰も一緒に歩いてくれる人もおらず孤独な道だった。
――そういえば、こんな感覚、一度ではなかったかも知れない――
と、思ったが、二度目というのは、例の正月に友達の家に皆泊るということになったのに、自分だけが親の許可を得られず、帰ることになってしまったあの時の屈辱感で歩いた道が、田舎道を果てしなく歩いたあの時に似ていた。
田舎道は昼間だったので、歩けども歩けども、目的地が見えてこないことが分かってくると、今度は、
「どれだけの距離をあるん単打?」
ということを確かめたくなるというのも当たり前というものだ。
歩いてきた距離を感じようと振り返った時、身体も一緒に反転させたにも関わらず、歩いてきた距離を確認できなかった。
なぜなら、後ろを真正面にして捉えた時、まるで進行方向で見ていた光景と、まったく変わっていないように感じたからだ。
そのうち自分がどっちに進もうと思ったのか分からなくなった気がした。その時は運よく進む道が分かったが、その時の怖さから、後ろを振り向く時は、身体を真正面に向けないように気を付けようと思うようになったのだ。
だから、その時も決して後ろに対して真正面にならなかった理由の一つとなったのだ。
そのせいもあってか、前後不覚に陥ってしまった。どっちに進んでいいのか分からなくなったことで、平衡感覚を失ってしまい、前に進んでいるつもりでも、後ろに進んでいるつもりでもない。きっと親の見てはいけない秘密を見てしまったという思いと、見てしまったことをどのように処理していいのか分からずに、ただ歩いていただけなおだろう。その時に以前の夢を思い出してしまったことで、意識が朦朧としてきたのか、その朦朧とした意識を正当化させるために、
「これは夢なんだ」
という意識を持たせたのかも知れない。
そう思っていると、自分が何かにつまずいた気がした。
「あっ」
という声を出して、気が付けば、その場に倒れていたのだ。
何につまずいたのか、起き上がって見ると、
「ウソ」
思わず、そう叫んで、目を凝らして、目の前のものを見た、
さっきの親の不倫現場を見たよりも数倍、
「見てはいけないもの」
のはずだった。
だが、それよりも、
「どうしよう」
という思いが先だった。
起き上がってその物体に近づいたが、触ってはいけないものであることはすぐに分かった。
「俺って、意外とこういう時、落ち着いているものなんだな」
と思ったのは、その物体が絞殺死体であることが分かったからである。
首には縄のようなものが残っていて、顔色は完全に土色をしていて、まるでモノクロ映画を見ているか、ゾンビ映画を見ているかのような顔色のなさに、明らかに死んでいることは分かった。
魔は完全に飛び出すかのように前を直視していて、ただ、その先にあるのは虚空でしかなかった。口はかっと結ばれていて、歯を食いしばっているのか、苦悶の様子を表していた。
――ああ、この人は苦しみながら死んだんだろうな――
と感じ、その視線の先には、生前の最後に犯人を見ていただろうなと感じた。
だが、その思いが違っていることにすぐに気付いた。
その男、被害者は男なのだが、その人は後ろから首をしえられたようだった。首の前の方は紐が繋がっているところが見えたからだ。
「あっ」
とまた西村は我に返った。
この様子を想像したのは、あくまでも夢の続きであって、現実ではなかった。もう一度夢から覚めた気がしたからだ。
だが、どこから夢の入ったのかが分からなかった。目の前にある死体はさっき目が覚めた時と同じ状態で目の前に横たわっているからだった。
「こんなリアルなものをいきなり夢で見るというのはおかしいよな」
と思ったのは、一度見たからだということを意識したからだったが、それが少し違った意味で感じたことだということを、誰がその時に気付いたであろうか。
そして、夢の途中だと思ったような感覚を二度目は感じたわけではなかった。同じように、
「ウソ」
とは感じたが、それは最初に感じたものとは違っていた。
あの時は、死体を見たことに対して、
「ウソ」
という言葉が自然に出てきたものであったが、二度目に感じた思いは少し違っているようで、
「そこに死体があること」
に対して感じた、
「ウソ」
だったのだ。
「同じことではないか」
と思うだろうが、西村の中では違っていたのだ。
ただその思いが、死体がそこにあるということをまったく予期していなかったということなのかどうか、そのことをすぐには分からなかったことで、すでに自分がどのあたりなのか完全に夢の世界に入り込んでしまっていることを感じていた。
まずは、とにかく警察に知らせなければならない。その時に思ったのは、
「どうしてここにいたのかを、どう説明しようか?」
という思いであった。
「まさかとは思うが、母親の不倫を説明しなければいけないような状態になればどうしよう?」
という思いが頭を巡った。
当然そんな必要はないだろうとは思ったが、その時西村はなぜか余計なことばかり感じている自分がいることに気づいていた。
――何をそんなに怯えなければいけないんだ?
という思いがあり、すぐには警察へ通報できなかったが。ここで通報しないという選択肢はない。死体を発見しながらそれを見逃すということはありえないと思ったからだ。
そのうちにこの死体は近い将来発見される。その時に鑑識が、現場を捜索するだろう。そうすれば死体のそばに西村自身の痕跡が残っているかも知れず、それが発見されればどうなるか?
一番怖いのは、自分が一番の容疑者候補になってしまうことだった。日本の警察は優秀なので、自分の身元が分かるのも時間の問題だろう。それにどこに防犯カメラがあるか分からないし、自分の姿をどこかで誰かが見ていないとも限らないではないか。そんな風にいろいろと考えていると、自分が第一発見者として名乗り出ないと、どう考えても自分が不利になることは分かっている。
倒れた自転車を起こして、とりあえず警察に電話し、近くの交番から警官が来るので、それまで待っているように指示されたが、そのうちに頭が少しずつ落ち着いてくるのを西村は感じていた。
目の前で死んでいる男の姿を見ているうちに、何か滑稽なものがそこに転がっているという意識が強くなっていた。怖いという感覚よりも、
「何か不思議な物体」
というイメージが強く、それも滑稽に見える。
男はガニ股であり、腕も左右バランスが明らかに悪い恰好であった。動いている姿をランダムに激写した時だって、もう少し綺麗に見えるというものだ。それはきっと、、見えているものが動いているか、静止しているかの違いから来るものであろう。明らかに動いていないその物体からは、精気を感じることはできず。その恰好がそのまま滑稽に見せているに違いない。
見えている姿は、足をこちらに向けているから不細工に見えて、それを滑稽に感じるのだと思ったが。頭がこっちを向いていたとしても、同じように滑稽に見えただろう。滑稽に見えてしまったということを正当化しようとして、いろいろ頭の中に思いを巡らせているのではないかと思うのだった。
先ほどから、何とか目の前で起きている事実を夢の世界だと思い込みたいという思いでいることを、西村は、
「正当化させたい」
と思っているからだと感じていた。
中学生になってから、特にそう思うようになっていた。それはきっと持って生まれた感情からなのだろうが、それを最初に意識させたのは、友達の家に遊びに行って、親から強引に帰ってこいと言われた時のことだったように思う。
「どうしてこの俺だけが」
という思いが強く。確かに他の人は皆泊っていいと言われているのに、自分だけ帰ってこいなどというのは、これ以上恰好の悪いものはない。
確かに父親の言うことも分からなくもない。せっかく家族団らんの正月を邪魔しようというのだから、いくら皆が賛成しても、自分だけは確固とした反対意見を持っていてもいいだろう。きっと父親なら無碍もなく帰ってくることを選ぶのだろうが、いくら息子とはいえ、それを強制するだけのものはあるのだろうか。
「俺が親になったら、絶対にこんなことはしない」
と心にも決めた。
そして、自分が親になれば、きっと息子が友達の家に泊ってくると言えば、止めるようなことはしないだろう。もししてしまうと、自分の意志に逆らうことで、正当性もあったものではないと思うからだった。
だが、自分が大人になっても、友達の親のようにはなれないと思った。正月は家族で過ごすなどということにこだわりはしないが、子供が友達を呼ぶといえば、そこは反対する気がする。
子供の友達と一緒に遊ぶということまではしないだろうが、それ以前に、正月には何かやりたいことがあるような気がしていたからだ。
それが家族と一緒ではできないことであっても、自分は自分の信念を貫く気がする。その時ひょっとすると、
「父親の威厳」
を発揮するかも知れないと思ったが、それは中学生の時に感じている今の思いとは違うものだと考えるのは、身勝手な考えであろうか。
家族をどのように扱うかというのは大人になってからの問題だ。そのことを感じると我に返って、目の前の死体がまったく動かないことをいまさらながらに気持ち悪く感じさせられた。
「こんなにも、死体って動かないんだ」
風が吹いても、きっと動かないような気がする。
死後硬直という言葉もあれば、その様子は、小学生の頃に亡くなった祖母を見て分かった気がした。
――あそこまで冷たく、そして硬くなってしまうのだということを自分は小学生の頃に知ったんだ――
という思いがあり、中学生の今でも思い出すことができるのは、そのイメージがセンセーショナルだったからだろう。
硬直していく身体というのは、見た目では分からない。
死んだ瞬間から顔色は明らかに青ざめていき、あっという間に土色になっていった気がした。
だが、身体が固まるまでには少し時間がかかったかのように思う。
「死後硬直」
などという言葉も知らなかった頃で、本など読んだこともなく、ミステリーが好きな今では常識のように感じられることも、まったく知らなかった頃だった。
だから、ミステリーを読んで、人が死んでからの様子を描写しているシーンで想像するのは、祖母が亡くなった時のことだった。
「結局、人間は最後、焼かれて骨になるんだよね。死んで土に返るなんて言葉があるけど、まさにその通りなのかも知れないな」
と、祖母が火葬されている時に、誰かが話しているのが聞こえてきた。
「私たちも他人ごとではなく、もうすぐ自分たちもあの運命なのよ」
と言っているのは、祖母が生前仲良くしていた、おばあさん連中だった。
その言葉を聞いて、リアルに聞こえたのは、少し寂しかった。もちろん、その言葉通りなのだろうが、
――もう少し言葉を選べないのかな?
と感じたのは、他にも似たような立場の人がいて、その言葉をどう感じたのかと思ったからだ、
「そんなことは百も承知だ。そんなことを今口に出してどうするっていうんだ。静かに故人を贈ってやればいいものを」
と思っていたのかも知れないし、
「あんたらと一緒にするんじゃない。俺たちはもっともっと生きるんだ」
と、生きることに一生懸命になっている人もいたかも知れない。
ただ、どちらの相手に対しても、分かり切っていることを口にしてロクなことはないだろう。それこそ、正当性に欠けるというものだ。
人間が最後は誰でも死を迎えるというのは平等であるが、それがいつ迎えるかはその人それぞれで違う。そうであれば、迎えた時、それぞれの人が少しでも平等であってほしいと思うのは、生きているからではないだろうか。
誰だって死にたくはない。死ぬ時にいかに正当性を持てるかということも、その人それぞれの考え方なのかも知れない。
「死ぬということで、一体何を怖がるというのだろう?」
と考えたことがあった。
「まずは、痛いということを怖がるだろう。痛みや苦しみを超えなければ、死ぬことはできないのだ」
という思いである。
「自殺するのに、何が一番楽に死ねるだろうか?」
という不謹慎な話をしたことがあったが、結局結論が出なかった気がした。
薬で死ぬとか、手首を切るとか、いろいろな意見が出たが、結論は出なかったような気がする。
途中から、自分たちが何について話をしているのかすら分からなくなっていたような気がしたが。その思いが果たしてどこから来るものか、西村は考えていた。
西村は元来怖がりな性格だった。そのくせホラーモノをよく見たりしては、夜中トイレに行けなくなるようなタイプで、
「クラスに一人くらいいるやつ」
の中の一人だった。
そんな西村だったが、小学六年生くらいからだったか、ミステリーは好きになっていた。友達で、ミステリーの本を読むのが好きなやつがいたので、自分は読んだことはなかったが、話を訊いていると興味を持てるようになっていった。
さすがにドラマでは見たことがあるので、友達の話を訊きながら本の内容を想像していくと、他の人が想像するのとは一風違ったイメージで想像できるように感じたのが楽しかったのだ。
最初は、友達が一方的に自分の好きなミステリーを話してくれるばかりだった。
「どうせ俺は本を読むところまではしないよ」
ということで、ネタバレであっても、
「それでもいい」
と言って話をしてもらった。
よく考えてみると、映画やドラマ化した作品は、最初に本を読んでから、ドラマを見ると、どうにも面白みに欠けてしまう。思い白い作品であればあるほど、想像力の欠如が顕著になってくる。
だが逆に、ドラマを見てから原作を読んでも、それほど作品が褪せているわけではない。一度映像でみているだけに、今度は違った意味で、想像力を掻き立てられるのがいいのかも知れない。最初に想像があるのではない方が、ミステリーに限って言えばいいのではないだろうか。
そういう意味で、友達から話として聴いていたとしても、本で想像する分には、想像力を掻き立てるという意味では褪せることはない。
トリックもいろいろあり、ストーリー性も豊かな現代のミステリーも悪くはないが、友達が好きだと言っているのは、
「大正末期から、昭和初期がいい味出してるんだよな。いわゆる探偵小説黎明期というやつさ」
と言っていた。
「探偵小説?」
意味は分かるが聞きなれない言葉に少し違和感があった。
「今ではミステリー小説と言われているけど、ちょっと前までは推理小説という言葉が主流で、もっと前は探偵小説という言葉だったんだ。黎明期というのは、発祥期の頃の、いわゆる発展途上とでもいうべきか、出始めの頃だな」
と言っていた。
彼はさらに続けた。
「黎明期と言っても、すでにその頃にはトリックと呼ばれるものはある程度まで出尽くしていて、後はストーリー性とバリエーションで組み立てていくものだったんだよ」
と教えてくれた。
確かにトリックというものは、無限にあるものではない。結構限られているもので、同じ種類とトリックでもバリエーションや、他とのトリックとの組み合わせなどで、それをストーリーに乗せることで、話に幅や柔軟性を持たせることができる。
「そういうのを本格探偵小説っていうんだ」
と言っていた。
「じゃあ、本格以外にはどういうのがあるんだい?」
と聞くと、
「猟奇的な殺人だったり、変質者による犯罪などが見られる内容だよ。それを変格派と呼んでいる人がいたようだけどね」
と言っていた。
殺人というものを、どのように捉えるか、トリックに頼った話が、本格派というわけではない。謎解きも重要なミッションであり、トリックに頼らないミステリーであっても、十分に謎解きを表すことができる。確かにミステリーにおけるトリックは謎として当て嵌めることはできるが、謎がすべてトリックに当て嵌まるかといえばそうではない。
トリックを必要としない謎もある。それはストーリーの中に混じっているものであり、すべてをトリックのあるものだとして考えていくと、まさにミステリーを小説でだけしか理解できなくなり、現実の事件のリアリティが消えてしまう。小説であるのだから、リアルである必要などないのかも知れないが、あまりにも現実を超越してしまうと、フィクションが正当性を失ってしまう。
「正当性」
西村はその言葉をいつも頭に描くようになっていた。
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