第二章

一、対の羽根

 深い深い森の中。私は滑らないように気を付けながら、苔むした木の根を踏み越えた。辺りは薄暗くて湿気がすさまじい。それは空を覆うように生い茂った木々の所為である。光が大して降ってこず、陰鬱とした気分にさしてくれる。

 汗が染みている異国服、チュニックの襟を掴んでパタパタとしてやれば、冷たい空気が入り込んできた。いくらかマシになったと思いその手を止めれば、撫でつけるような、固形とも思えるような空気が身体にまとわりつく。

「まったく、やってられない」

 再度、服の中に風を送り込む。しかし、ずっとこのようなことを続けるわけにはいかない。手を止め、あきらめて進むことにする。

 心底このような場所には来たくなかった。日は浴びられないし、薄暗いこの空間は何とも言えない不安感を掻き立ててくる。旅を続けて長いが、一回も入ったことはなく、寄り付いたことさえない。

 今回はあいつのお願い命令でこの森の奥に住んでいるという依頼人に会わなければいけなくなったのだ。

 今の私はあいつに逆らえる立場ではない。本当に嫌で嫌で仕方がないのだが、この森に入るしかなかった。

「せめて依頼料はたんまり貰わなければ――っ!?」

 視界が急に反転した。遅れて右足に痛みが走る。おそらく、気が散っていたのだろう。苔むして滑りやすくなった木の根に右足を置いた時、滑ってしまったのだ。

 このままでは地面に激突して怪我は免れない。森の中で歩けなくなってしまえば死活問題だ。目の前に死がやってくることになる。

 滑らした右足は左に流れていく。右肩から落ちるようにして体が左回転する形。急な出来事で加速した脳は私の体勢を正常に認識できていた。

 受け身を取ろうと体を丸め、頭を打たないように――

「!? っぅ……」

 体勢は完璧だった。肩から落ちて頭を打たないようにできていたはず。しかし、ちょうど頭が落ちる位置に別の木の根が地面から顔を出していた。まくらともいえるような高さの根は、肩と首の線にぴったりはまる様にして待ち構えていたのだ。

「……血」

 ゆっくり上体を起こし、腰をまわしてみた。

 幸い、ひどい怪我はないようだった。これなら問題なく歩けそうである。しかし、皮膚が切れでもしたのか、頬に血が流れていた。指を這わせて元をたどれば、頭部の右後ろ当たりで生暖かい感触をおぼえた。

 洗い流した方がいい。そう思った私は頭部を揺らしすぎないように立ち上がると、水場がないかと辺りを見回した。

 案の定というべきか、水場は見つけられない。

 それもそうだ。森の中で簡単に見つけることが出来れば苦労はしない。

 これはしばらく不快感と共にいないといけないな、と覚悟した。

 手巾を取り出して軽く頭に巻く。少しの間だけなら、これで問題はないだろう。もう一度ゆっくり体の状態を確認し、私は歩を進めた。


「ん?」

 手巾から血が滲みだし、これはもう意味がないなと悟ったのと同時。私は薄暗い森の中で視界に光りを捉えた。

 もう目的地に到着したのか?

 頭に浮かんだその考えをすぐに打ち消す。あいつ曰く、目的地は歩いて数日の道のりらしい。森に入ってからまだ間もない。到着するはずがなかった。

「……」

 気にしても仕方がない。疑問を押し殺して引き出しの奥にしまうと、血が滲んだ手巾を丸めた。

 この薄暗い森で光があるということは人がいるということ。つまり水があるだろうし、替えの手巾もあるかもしれない。

 ここは素直に頼りにするのが正解だろう。後で後悔するときは死ぬときかもしれないのだ。

 光の出元に向かうことにし、先ほどよりも気を付けながら木の根に右足を置いた。

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