第76話 天金の述懐ー後編ー

 林間学校の二日目。登山から帰ってきた後に綾音が百瀬と二人きりになろうとしていた。落とし物をしたなんて下手な嘘はすぐにわかった。帰ってきてから心ここにあらずな綾音を心配したというのもあるけど、私に何も言わずに百瀬を頼ろうとしたのが嫌だった。だから、ほんの少し引き留めようとしてしまった。


 綾音が私から離れようとしている。私より百瀬を優先しようとしている。こんなにも尽くしてきたのに。そう思わずにはいられなかった。でも、今の綾音にそんな気持ちをぶつけるわけにはいかない。あと少し、あと少しなんだ。そう自分に言い聞かせて、自分を落ち着かせるために深夜に部屋を抜け出して煙草を吸った。百瀬がそんな私に勘付きそうだったが、綾音の心と自分の心の変化に向き合ってる途中にそんな余裕はなかったようだ。


 林間学校から帰ってきて、休みをはさんで登校日。何故か綾音が来なくて、結局バスを一本遅らせることになった。次のバスまでには来るだろうかと思っていたら、バスが出て三分後くらいに綾音はバス停にやって来た。その綾音の姿に驚愕する。


 絵画から飛び出してきた美女のように綺麗な金髪は乱れていて、目は虚ろで覇気がない。歩幅は不自然に小さく、目に見えて無理をしていた。


『座りなよ。立ってるのは疲れるでしょ』


 とりあえず綾音をベンチに座らせる。言われるがままベンチに座った綾音の顔は暗く、どうにかしてあげなければならないという使命感に駆られる。


『髪、乱れてるじゃん。せっかく綺麗なんだからちゃんと手入れしないと』


 綾音の髪に触れる。私が知っているものより髪質が悪いのはストレスのせいだろうか。普段から持ち歩いている櫛で綾音の髪を手入れする。こんなの応急処置に過ぎないけど、少なくとも今日だけ誤魔化すことはできるはずだ。


『……朝の考え事ってなんだったの』


 綾音は朝に考え事をしていたから遅れたと言った。林間学校での様子を見れば、何を考えていたかは予想がつく。今まで自覚していなかった親への感情を処理できずにいるのだろう。次のバスまでそれなりに時間がある。吐き出せば少しは楽になるはずだと思い、綾音に話すよう促した。


『ごめん』


 後に言葉は続かない。何に謝っているのかわからないけれど、今は話せないという意味だろう。


『だから謝らなくていいって。いつ誰に相談するかも綾音の自由でしょ』


 何かに迷っているときは一人で考える時間も必要だ。謝る必要なんてない。今は何よりも綾音の心の平穏が大事なのだから。そう思い、沈黙は気まずいだろうと雑談の話題を出そうとした時だった。


『……百瀬さん』


 綾音の口から、ここにいない人間の名前が漏れ出した。綾音がどんなことをしても私は綾音の味方で居続けた。私は昔の綾音を知ってるから、今の綾音が何をしようとそれは心が傷ついているせいだと思って許した。ただ、この時ばかりは怒りで我を忘れそうになった。


 なんで私には話せないのに百瀬には話せるんだ。百瀬は昔の綾音も知らないのに。綾音の親の事もよく知らないのに。出会って数か月しかたっていないのに。私はずっと綾音を支え続けてきたのに。こんなにも綾音のことを想っているのに。私の方が綾音と居た時間が長いのに。私の方が綾音のことを理解しているのに。百瀬への理不尽な妬みと、綾音の裏切りへの怒りがとめどなく溢れ出す。櫛を持つ手に力が入り、このまま綾音の髪を引きちぎってやろうかとさえ思った。


 でも、そんなことをしてしまったら綾音の心はきっと耐えられない。綾音の一番が百瀬になったとしても、私は綾音の親友なのだ。その親友からの怒りに今の綾音が向き合えるはずがない。だから、この時も必死になって感情を殺した。我慢ならず感情が滲み出ているであろう私の顔を見ないよう、綾音が振り返らないことを祈りながら。


 そして、結局綾音は百瀬に相談をした。百瀬ならきっと綾音の迷いを断ち切ってくれる。認めたくないけれど、綾音は百瀬に対しては心を開いているから。百瀬の言葉ならきっと綾音の心に届く。そんな確信があった私は綾音の母親に綾音が体調を崩したことを伝えた。あの人は、私が言うまでもなく仕事を切り上げて帰ることを選んだ。しばらく話せていなかったけど、昔と変わらず良い母親だった。綾音が自分の心に正直になれたのなら、絶対にうまくいく。


 これで綾音の心は救われる。私が待ち望んだ日がようやく訪れた。ただ、その代償はあまりにも大きかった。


『もしかして香水してる?』


 久々に綾音の家に呼ばれた時、綾音に香水をつけていることがバレた。オシャレ好きな女子高生が香水をつけていてもわざわざ触れるようなことはしないだろうけど、私は化粧品の類はエチケットとして最低限出来る程度の興味しかなかったから違和感を持たれたようだ。


 香水をつけ始めたのは煙草の匂いを誤魔化すため。シャワーを浴びたりとか、ウェットティッシュで拭いたりとかで匂いはとれるけど、完全に消すのは難しい。特に吸った後に誰かと会うときはにおいが消えるほどシャワーを浴びたり、服を消臭したりはできない。この香水は応急処置で、煙草を吸わない日も普段からつけることで周りから違和感を持たれないようにしている。


 そんな理由でつけてる香水だから、私に合った匂いだとか褒められてもうれしくない。むしろ、つけている理由のせいで後ろめたい気持ちになる。さっさと別の話題に移そう。そう考えた時だった。


『もしかして、好きな人とかできた?』


 一番聞かれたくない質問を一番聞かれたくない相手からされた。その動揺が表情に出てしまったせいか、綾音は少し困ったような顔をしていた。


『……もしそうだったら、綾音はどう思うの』


 綾音とこんな話をする機会はあまりない。だから知りたかった。綾音が私についてどう考えているのか。いろんなことが解決して落ち着いている今の綾音ならちゃんと答えてくれる。半分くらい期待を込めて、綾音に聞き返した。


『やっぱり、寂しいかな。千夏とは長い間一緒にいたし、辛い時も私を支えくれた。ずっと私のそばにいてくれたらどんなにいいか』


 寂しい。私の一番が綾音じゃなくなったら、その程度の気持ちで終わってしまう。私の献身は綾音に対してその程度の感情しか与えられなかった。私は怒りで身を焦がしそうになったのに。百瀬に対して理不尽な嫉妬すらしたのに。


『でも、千夏が望んだことならそれでいいと思う。散々迷惑かけちゃった負目もあるけど、それ以上に私は大切な親友に幸せになって欲しいから』


 私が綾音のことが好きだという可能性を全く勘定に入れていない返答。それがもう既に綾音の気持ちは私に向いていないという証明で、綾音の友達としてなら理想的な言葉はただただ虚しいだけだった。


『それに、千夏は私のこと含めて他人のことを優先しちゃうところがあるでしょ。そんな千夏が自分の想いのために動いて、自分が好きな人と幸せになる姿を見たい。それが私の想いだよ』


 違う。私が優先したのは綾音だけだ。私の中の正しさを曲げてでも助けようなんて思えるのは綾音だけなんだ。他人を助けるなんてこともあったけど、それは私の中の正しさに従っただけだ。ある意味では他人より私を優先させた結果だ。


 ずっと見せてるんだよ。自分の想いのために動いて、必死に自分の恋心を成就させようとしてる姿を。なのにどうして、そんなに残酷なことが言えるの。


『綾音は本当に優しいね。友達になった人は本当に幸せ者だ』


 綾音のことが好きじゃなければ、綾音への気持ちが友情だったなら、こんなに苦しまずに済んだのに。こんなにも明るい顔をするようになった綾音のことを純粋に喜べたのに。こんな事になるなら百瀬の声を利用するのを止めていたらよかった。生徒会長が百瀬に告げ口するのを止めなければよかった。そんな言葉が頭をよぎり、自己嫌悪に陥る。


 綾音が私をもてなすために出してくれた少しお高い紅茶とクッキーは全く味を感じられず、うまく喉を通らない。でも、全く手を付けないのも不自然だから、腹の奥に無理やり押し込む。だんだん苦しくなってきて、うまく頭が回らなくなっていく中で、なんとか綾音と過ごす時間をやり過ごして帰宅する。母親が夕食の買い出しでいないことを確認し、バルコニーで煙草を吸おうとしたが、煙を吸い込んだ瞬間に私の中の何かが切れた。まずいと思い洗面所に駆けだし、灰色の煙と共に悪臭がするぐちゃぐちゃの物体を吐き出した。


 私の心と同じだ。こんなにも醜くて、汚くて、処理が面倒。こんなもの、綾音にはとても見せられない。


 長い長い献身の果てに残ったのは、決して報われることのない醜い恋心。そして、命の終わりを近付ける不愉快な煙の匂いだけだった。

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