第75話 天金の述懐ー前編ー

 正しいままの自分でいたら壊れてしまいそうで怖かった。そして、正しい自分を傷つけると心が落ち着いた。だから正しい自分を穢して、自分を慰めた。


「……綾音」


 バルコニーで変わらず煙草をふかしながら、綾音のこと、そして自分のことを思い返す。


 綾音は自分の中にある正しさに従って生きていた私を肯定してくれた。周りから孤立して自分の生き方に迷っていた私を救ってくれた。モデルになって着飾る綾音に魅せられた。私の目を真っ直ぐ見てくれる笑顔が好きだった。綾音の笑顔が私の中の正しさを支えてくれた。


 そして私はいつの間にか恋に落ちていた。


 でも、そのころから綾音は壊れていった。小学5年生のころから、不自然に親のことを話題に出すことが減った。あんなに大好きだったのに。幼い私でも違和感を持った。綾音を刺激しないように探りを入れると、どうやら綾音は両親のことを嫌いだと思い込んでいるようだった。


 綾音が本当は両親の愛情を求めていることはすぐに分かった。両親の話を出さなくなってから露骨に元気がなくなったし、ずっと寂しそうだったから。でも、私はそのことを指摘することはなかった。その事実だけを伝えても、綾音には届かない。きっと拒絶されるだけだ。だから待った。綾音自身が考えてその結論に至る時を。そして、その時が来るまでに綾音が壊れてしまわないよう全力で支えた。


 この恋心も封印しようと決めた。今の綾音にとって私の恋心は負担になってしまう。私の恋心は、親の愛情の代わりにはなれないから。綾音にも、他の誰にも悟られないよう、恋心を胸の奥に追いやって、綾音を支える親友としての役割を全うした。


 本当に辛かった。自分の気持ちに正直になれないことが。私を救ってくれた親友が、私が恋した人が傷つき続けるのを傍観することしかできないことが。そして、そんな彼女を救えない自分の不甲斐なさにも腹が立った。


 もういいじゃないか。綾音に足りない親の愛情を、自分の愛で埋めてしまえば。自分の恋も成就するし、綾音だって今よりは苦しくなくなるはずだ。そんなことを何度も考えた。でも、それはじゃない。綾音が本当の意味で幸せになるためには、綾音の心の傷を完璧に治療するには、私じゃなく親の愛情が必要だ。私は綾音に救われた。今度は私が綾音を救う番だ。そう何度も思い直し、綾音が答えに辿り着くために支え続けた。


 そんな時、百瀬が現れた。気に入ってるVtuberとやらの声に似ている。そんな理由だけれど、綾音が誰かに興味を持つのは荒れ始めてから初めての事だった。何かが変わる気がした。だから、百瀬を傷付ける可能性があったのにもかかわらず、私は綾音が百瀬の声を利用することを許した。


 最初は薄い希望だった。あまり目立つ方じゃない控えめな性格の百瀬が綾音を救えるとはとても思えなかったから。でも、それは私の目が節穴だっただけだとすぐに教えられた。


 百瀬を私たちのグループに混ぜてショッピングに行ったとき。あの日は母親が盛大に朝食のコンソメスープを床にぶちまけて、その処理を手伝っていたから綾音とは別々に待ち合わせの場所に向かった。少し遅れて待ち合わせ場所に着くと、そこにはナンパされている綾音と、綾音を助けようとする百瀬の姿があった。最終的にミイラ取りがミイラになりかけてたけど、私は百瀬の持つ心の強さに希望を見出した。


『私はまだ片手で数えられる程度しか相神さんと話してないし、昔の相神さんのことも知らない。でも、私はちゃんと相神さんの友達のつもりだよ。だから、お願いなんかされなくても私は相神さんを助ける。天金さんと同じで、私も相神さんには笑顔でいてほしいから』


 綾音を助けてあげて欲しい。そんな私の願いに対してそう答える百瀬の瞳には強い意志が宿っていた。百瀬になら綾音を救える。そう確信した。だって、百瀬のこの目は、かつて私を救ってくれた綾音の目と同じだったから。


『その、あんまり思いつめないで。そういうところが天金さんの素敵なところなんだろうけど、自分を救うために天金さんが傷つくことを相神さんは望んでないと思うから』


 綾音を救う希望を見出して安堵する私に百瀬はそう言った。人に寄り添う優しさと誰かを救える強さを持つ人間の目は誰に対しても平等だ。百瀬は私の心の傷すら敏感に察知した。だが、百瀬には綾音を救ってもらわなければならない。私なんかに時間を割く必要はない。だから、強く聡い綾音の親友の仮面をかぶった。すると百瀬は騙されてくれて、綾音のことに集中してくれた。


 小学5年生から高校2年まで。子供にとってはあまりにも長い時間だ。その間ずっと私は綾音を支え続け、綾音が傷つく姿を見続け、そんな綾音を救えない自分の弱さを痛感させられ続けた。本当はもう限界が近かった。でも、綾音が救われるなら。そう思うことで自分を保っていた。


『えっと、帰るまでこのままが……その、いい』


 綾音が百瀬を家に招待したらしい日の夜、昔の綾音とも今の綾音とも違う、弱々しくて不安定な綾音が顔を出した。親に愛されたいという思いから生まれた、高校生にしては幼い精神の綾音。そんな彼女が私を求めてくれた。綾音の心の中心に近い場所に私はいるんだと知れて、飛び上がりそうなほど嬉しかった。


『こっちの方があったかいね』


 不意に笑顔が漏れる。今だけはほんの少しだけ自分に正直になっていいと思えた。


『まだ綾音と百瀬を引き裂かないで。お願い』


 綾音が百瀬を利用していると知った生徒会長がこの事を百瀬に伝えようとした時は本当に焦った。

 

『偉大な両親の娘、カリスマモデル、そんな一面じゃなく、一人の人間としての綾音を見てくれた百瀬なら、綾音の心を癒せる。昔の綾音を取り戻すことができる。綾音が傷つくのを見ていることしかできなかった私にとって、百瀬は希望なんだ』


 百瀬は私の唯一の希望だった。こんなところで失うわけにはいかない。必死になって食い下がり、なんとか生徒会長を説得することに成功した。


『いくら綺麗に取り繕おうとしても、関係の歪みはいつか必ず露呈する。そして仲良くなればなるほど、本当のことを知った南の傷は深くなる。もちろん、南に救いを見出したあなたの友達もね。その覚悟はできてるの?』

『二人が乗り越えられるように支える覚悟はできてる。たとえその過程で百瀬にも綾音にも嫌われたって構わない』


 ただ、この時に嘘をついた。本当は綾音に嫌われる覚悟なんてない。


『で、応援はしてくれるの?』

『私は百瀬に全てを賭けるつもりだ。なら、恋の応援をするのは当然だろ』


 ここも嘘だ。たとえ綾音を救ってくれた恩人だとしても、私の恋を譲ることはできない。


 百瀬は綾音のことを救ってくれたらいい。そうしたら、私はこの恋心を綾音に伝えられる。何年も綾音の隣に居て支え続けた私ならその資格があると思っていた。けれど私は失念していた。自分の救いになった人がどれだけ自分の中で大きな存在になるのかを。他でもない私が一番知っているはずなのに。


 百瀬が少しずつ綾音の心の中心に近づいていく。綾音の心の傷を癒すのだから当然だ。こんな事、覚悟できていたはずだ。けれど、私は自分の居場所が奪われているように感じてしまった。そこからだ。この心のモヤモヤを解消するために煙草に手を出したのは。


 煙草を吸えば、私の中の正しさに背けば、少しだけ痛みが和らぐような気がした。理由はわからない。そもそも、何故こんな事をしようと考えたのかわからない。ただ、ある日の休日、留守にしている父親の部屋を掃除している時に段ボールに詰められた大量の煙草の箱が目に留まった。引き寄せられるように手に取った次の瞬間に、母親が様子を見に来て反射的にそれをポケットに隠した。


 本当は隠す必要なんてないのに、ただたまたま手に取っただけだと言って箱に戻せば母親には何も言われないだろうに、その時に何故か私は隠すという選択肢をとってしまった。そして私のポケットに残された煙草の箱。綾音が私から離れていく、私が綾音の中の一番じゃなくなっていく、そんな焦燥感に駆られていた私は、その心の弱さから煙草を吸うという選択をしてしまった。


 どうやって吸うのが正しいかも調べずに喫った最初の煙草は、息苦しい煙の味がした。ケホッケホッっとむせる自分は何とも無様で滑稽だった。ただ、今まで感じていた焦燥感がなぜか消え失せた。それから心の安寧を保つために煙草を吸うようになった。


 今思えば、この時はまだマシだった。煙草さえ吸えば冷静でいられたのだから。いや、未成年喫煙をしている時点で冷静ではないか。

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