第74話 煙草
8月7日、夏休みの宿題を全て終わらせた時、タイミングを見計らったかのようにアイツから連絡が来た。
「もしもし」
「久しぶり。さっそくだけど明日会えないかしら」
椎名葵。綾音の心の傷を癒す過程で縁ができてしまった厄介な性悪生徒会長だ。そしてアイツの場合、この誘いは要求ではなく命令。この命令に私は逆らえない。しばらく一人になりたかったのに、最悪のタイミングだ。
「わかった。どこに行けばいいの」
「最近学校の近くにカフェがオープンしたらしいの。そこに集合ね」
「わかった。用件はそれだけか?」
「そうね。ここからしばらく貴方とお話ししてもいいけど、それは明日の楽しみにとっておきましょう。それじゃあまた明日ね」
電話が切れる。スマホを勉強机の上に置いたまま席を立ち、部屋の外に出る。両親は出払っているから、この広い家には私一人しかいない。好都合だ。そう思った私は走り回れるほど広いバルコニーに出て、今となっては慣れた手つきで箱から煙草を一本取り出した。
カチッというライターの音と共に煙草に火が付く。鼻につく煙の臭いと肺が犯されるような不快感とは裏腹に、妙に頭はスッキリとしていく。ジッと空に浮かぶ雲を見つめながら一本吸い終わり、父親がいつも利用している灰皿で吸い殻の処理をする。
煙草を吸い始めてもう二か月ほど経つ。未だ学校にも親にも、そして綾音にもバレていない。未成年喫煙。こんな悪事を働いていても案外バレないものだなと、この世に悪が蔓延る理由をなんとなく察する。ただ、綾音が百瀬に興味を持つ前はまともに話したことがなかったような性悪生徒会長が現れたあたり、神様はちゃんと見ているとも感じる。
「はぁ」
気晴らしのために一階の防音室、父親がいつもドラムの練習に使っている部屋に向かう。この部屋はこの家のどこよりも掃除が行き届いており、とてもあのヘビースモーカーで身だしなみがだらしない父親の部屋とは思えない。
私用のドラムスティックを取り出してよく手入れされたドラムの前に座る。深呼吸をして集中力を高め、思うがままドラムを叩く。リズミカルだがどこか調和の取れたリズムを奏でるこの楽器が好きだ。バンドの音楽を根底から支えるこの楽器の役割が好きだ。
父親のドラムを叩く姿を見てきたからか、父親の教えの影響か、いつの間にか私はこの楽器に魅せられていた。だから、ドラムを叩いているときは心が落ち着く。きっと、さっきの煙草よりも。
『じゃあなんでそんなことしてるの』
正しい私が間違いを糾弾する。ドラムを叩けば気持ちは晴れる筈なのに、私は煙草を吸うのをやめられずにいる。ニコチン中毒とは違うと思う。ここ一週間、一人でいた時は煙草を吸わなくても問題なかった。でも、誰かと関わるたびにタバコを吸ってしまう。
今の私は不安定だ。その自覚はある。一人でいたいと思ったのはそれが理由だ。ハワイに誘ってくれた白銀には悪いことをしたと思う。しかも、明日あの性悪生徒会長に会うのだから余計に。
『音が乱れてるよ』
音楽の道に進むつもりでいた中学時代の私が拙い演奏を指摘する。その道は父親のように音楽に熱を持てない自分に気が付いて諦めた。でも、あの時の本気だった私は確かに存在していて、今の演奏は許せるものではなかった。その拙い演奏の理由が自分の不安定な心のせいならなおさら。
「うるさい」
正しい自分はもう見たくなかった。今の私が惨めに思えてしまう、今の私への嫌悪がより強くなってしまう。動揺と共に演奏が激しくなる。だが、その演奏から調和は消え失せ、独りよがりで乱れた音になってしまう。
『目を背けてどうするつもり?』
『それは正しいことなの?』
そんな私を正しい私が見過ごしてくれるはずがなかった。一斉に糾弾されて、ドラムを叩く手が止まる。心が落ち着くはずだったドラムの演奏は、今の私に自分の間違いを自覚させ、心を乱すだけだった。
「うるさい!」
逃げるために自然とポケットの煙草に手が伸びる自分が嫌になる。そして、それが空っぽだったことに舌打ちをした自分を嫌悪した。自分のドラムスティックを投げ捨てて、父親のドラムの手入れを後回しにし、私は心の安寧を求めて父親の部屋に向かった。
二階の父親の部屋には生活感がない。寝るかここにある煙草をとるか以外にほとんどこの部屋は使われないからだ。父親が所属するバンドのアルバムや音楽関係の道具、脱ぎっぱなしの上着が散らばっている部屋で存在感を放つ段ボール。それを開けると、父親のお気に入りの銘柄の煙草が敷き詰められていた。
そこからひと箱取って自分の懐に入れる。こんなにも多くの煙草からひと箱とっても、煙草の消費スピードが凄まじく、この部屋の出入りが少ない父親は気付かない。違和感を覚えたとしても、普段からガサツなところがある父親は自分の記憶違いだと思うはずだ。
またバルコニーに出て煙草を一本吸う。こんなにも短い時間で二本目。鼻腔に残る煙の臭いと不自然に落ち着く自分の精神に、寿命を削っている感覚がした。
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