第68話 青の世界
グオングオンというモータ音をさせながら、僅かに船体を揺らして風を切る。周囲を見渡せば透き通った海とぽつぽつと浮かぶ島々、空を見上げればどこまでも広がる雄大な青空とぽっかり浮かぶ巨大な白い雲。そしてじりじりと照らすまばゆい太陽が私たちを見下ろしている。南国の海をモーターボートで駆け巡り、肌に感じる風と南国の温度は爽快だ。こんな貴重な体験をさせてくれている白銀さんには感謝しかない。
「もうそろそろポイントに着くよ」
白銀さんから声がかかり、屋根がある操縦席の近くに戻る。影に入ると一気に涼しくなったような気がして、ふと操縦席を見るとこの船を操縦している木村さんのお父さんは上機嫌に鼻歌を歌っていた。娘が友達をたくさん連れてきたから嬉しいのだろう。
「さて、すごく申し訳ないんだけど、ダイビング用の装備が二人分しかないの」
「つまり二人はお留守番ってわけね」
「うん。思い付きで急に誘っちゃったから準備できなくて。私は夏休みのたびにやってるから譲るけど、三人のうち誰かには諦めてもらわなくちゃいけなくて……」
白銀さんは申し訳なさそうに目配せする。行き当たりばったりだから仕方ないけど、誰かが譲らなきゃいけないのか。せっかくの機会だからやってみたい気持ちはあるから、ここは正々堂々じゃんけんで決めようと提案しようとした時だった。
「なら私が留守番するよ」
百瀬さんがまさかの辞退を申し出た。こんな綺麗な海の世界なら体験してみたいというのが観光客心理というものだろうけど。
「えっ、いいの?」
「うん。泳ぐの得意じゃないし」
泳ぐのが苦手な百瀬さんにとってダイビングはハードルが高いか。
「じゃあ木村さんと愛神さんがダイビングで、私と百瀬さんがお留守番だね」
「百瀬さんの代わりにしっかり楽しんでくるね」
「うん。船の上から見守ってるね」
そうやって話が決まったタイミングでちょうど目的地に着いた。船が止まると白銀さんのお父さんがダイビング用の装備を渡してくれた。全身を包む黒い伸縮自在の装備は可愛いとは言えないけど、美しい海の世界を体験するためならこの代償は仕方ない。
「その装備だとカリスマモデルの美貌も関係ないね」
一足早く装着した木村さんが船の淵で私の方を見ながら体をフラフラ揺らしている。水中ゴーグル越しで見えにくくても、彼女がニヤニヤしていることは理解できた。
「今日はいつもより気さくだね」
「ハワイだからかなー? やっぱり旅行はテンション上がるよ」
木村さんの印象としては、佐藤さんから一歩引いて他の人とのバランスを取っている印象が強い。佐藤さんが周囲を慮らず自由に行動しているし、グループのもう一人の田中さんは佐藤さんの自由にさせているから、そのしわ寄せが木村さんに来ている。
「二人とも、これ使って」
二人で話していたら、私も装備が完了した頃に白銀さんがカメラを手渡してきた。
「水中用のカメラだよ。結構いいやつだから無くさないように気をつけて」
「わかったわ」
水中用の手持ちカメラを私と木村さんがそれぞれ一つずつ持つ。カメラについているボタンを押して操作方法を確かめてから、準備万端で百瀬さんたちの方を振り向く。
「綺麗に撮って、百瀬さんと白銀さんにも海の世界を見せてあげるね」
「期待して待ってるね」
百瀬さんの笑顔に見送られて、海の世界に飛び込んだ。
ボワっと白い泡に一瞬包まれる。そして視界が晴れると、幻想的な青の世界に出迎えられた。圧倒的な透明度の海水はまるで私が泳いでいるのではなく、空中浮遊しているかの様な感覚に陥らせる。
日光が波間から木漏れ日のように差し込み、青の世界が輝きを増す。海底の岩場から色とりどりの小魚が顔を出し、部外者である私を気に留めず優雅に泳いでいる。中型や大型の魚たちも所々泳いでいて、小さくも美しい世界に雄大さを与えている。
「きれい……」
この青の世界は何者であっても受け入れる懐の深さと、誰が何をしようと助けることも攻撃することもない無関心さを兼ね備える。陸の世界ではカリスマモデルな私も、ここではたった一人のちっぽけな人間だ。静寂に包まれたこの場所でぷかぷかと漂っていると、今まで悩んでいたことも忙しい仕事の記憶も薄れ、雄大な世界に飲み込まれてしまいそうになる。
「綾音」
くぐもったその声に反応して振り返ると白い光がぱちんと弾けた。シャッターを切った木村さんは写真の出来栄えを確認し、満足したように頷くとバイバイと手を振って海の底に向かって泳いで行った。
「そうだ、百瀬さんに見せる写真を撮らないと」
貴重な体験の席を譲った心優しい彼女のためにもこの青の世界を写真におさめなければ。ゆっくりと手足を動かして底の方に潜っていくと、優雅に泳ぐ海の住人達がはっきりと視界に捉えられるようになった。彼らを刺激しないようにゆっくりとカメラを構え、シャッターを切る。出来栄えを確認してみるけどなんだか締りが悪い。その後も何度か撮ってみるけれど、やはりどこか物足りない。普段からプロの人の写真を見てるから基準がおかしくなってるのかも知れないけど、目に映る美しい世界に対してカメラの中の世界はどこかぼやけていて輝きが足りない。
「……そういえば百瀬さんって写真部だったよね」
ふとそんな情報を思い出した私は海から浮上して、船の上に居る百瀬さんに合図を送った。彼女はそれに気が付くと隣に座って話していた白銀さんと一緒に甲板から私を見下ろした。
「どうしたの?」
「撮影が上手くいかなくて。写真部の百瀬さんなら上手く撮るコツとか知ってるかなって思ったの」
「あー……やったことないけど知識はあるよ。先輩に教えてもらったんだけど……」
百瀬さんが言うには生き物を撮るならカメラをできるだけ近くに寄せた方が良いとのことだ。そして魚の鮮やかな色を写すには光源が必要らしいので、水中ライトを貸してもらった。あとピントがずれるから撮るときは体が安定してからの方が良いらしい。
「ありがとう! やってみるね」
「うん。いい写真期待してる」
百瀬さんにお礼を言ってから再び青の世界に潜る。ゆっくりとそこに近付いていき、岩の隙間に潜んでいる魚の群れにカメラをギリギリまで寄せる。水中ライトで光源を確保し、体勢が安定してからシャッターを切った。
「おぉ、さっきより断然綺麗に撮れた」
優雅に泳ぐ魚の鮮やかな色をしっかりと写真に収めることができた。やはり肉眼には敵わないけど、初心者の私が撮ったものだと考えれば満足のいく出来だ。これなら百瀬さんも喜んでくれるだろう。
「ふふっ」
彼女の喜ぶ顔を想像して自然と笑みが漏れる。本音を言えばこの世界を百瀬さんと一緒に見たかったけど、彼女のために頑張るというのも悪くない気がした。
(好きだな、やっぱり)
LOVEかLIKEかは知らない。でも、心も目も奪う美しい世界に居ながら、私はずっと船で待つ彼女の事を考えていた。
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