第64話 恋心のライン
ホテルの待合室のソファに座り、天井を見上げながらため息をつく。待合室にあった自動販売機で買った水を片手に、百瀬さんと待ち合わせした時間を待つ。
「……はぁ」
演技を終えて冷静になると、昨日の百瀬さんへの気持ちを思い出してきた。何故か彼女と別れる時に感じた寂しさ。ただの友達に対してこんな事を感じるなんておかしい。
遊んだ後に友達と別れる時は寂しさを感じる事もあるかもしれない。けれど、あの時私が感じた寂しさはそれとは別の性質を持っていた。もっと遊びたいとか、あの楽しい時間が続いてほしいとかそういうのじゃなく、ただ単にあの子のそばを離れたくない、彼女がどこかに行ってしまうのが不安だという寂しさだ。
まるで子供が親に抱くような、恋人に独占欲を抱く時のような、ある一定のラインを越えている感情。そんなものを抱く理由を考えた時、真っ先に思い浮かんだものがあるのだが、私はそれを肯定する論理も否定する理由も思い浮かばない。
「私にとって百瀬さんって何なんだろう」
ハワイに来たばかりの時に、海香さんと少しだけ恋についての話をした。その時に言われたのは恋に落ちるのは時間の長さではなく深さが大切ということと、恋に落ちるときは一瞬だということ。そして海香さんが私を見て「恋の原石」と称したことだ。
海香さんが揶揄った可能性はあるけど、あの人が言うと妙な真実味がある。世界で活躍する人のオーラというやつだろうか。彼女が言ったことが本当だとすると、候補は千夏か百瀬さんということになる。どの道、今の私が好きな人を考えた時に候補に残るとしたらこの二人だ。
「……正直、どっちもありなんだよなぁ」
恋とか好きとか結婚とか私にはよく分からない。だから明確にあの二人のどちらかと恋人になりたいという感情があるか分からない。ただ、二人とも大人になっても一緒に居たいとは思う。もしあの二人から告白されたら受け入れるとも思う。ここまでは以前も考えたことだ。
もしかしたら二人に恋しているのかも。そう思うくらい私が二人に抱く感情の強さに優劣がないのだ。壊れそうになっていた私をずっと支えてくれた千夏も、私を救う言葉をくれた百瀬さんも、どちらにも同じくらい感謝してるし、大好きな友達だとも思っている。
見た目は百瀬さんの方が好みかも知れないけど、千夏の顔だってかっこいいと思う。長い間一緒に居るから千夏と性格が合うと分かっているけど、百瀬さんと一緒に居るときも心地いいと確かに感じている。
二人への好意は間違いないもので、どちらが優れているかというのもない。ただ、他とは違った特別な感情は恋心と名付けられるものなのか判断できない。
「……もし、昨日と同じことを千夏とやったらどう思うんだろう」
親との関係を修復してから自分が変わったことは自覚してる。それに伴って周りへの認識も少し変わった。確かに業界には嫌な人もいるけど、マネージャーの佐々原さんみたいに私を一生懸命支えてくれる人だっていること。佐藤さん達も私が仲良くしようとして寄り添えば応えてくれること。百瀬さんと千夏は大切な親友だということ。周囲を拒絶していた私だったら分からなかったことが一気にわかるようになった。
その認識の変化が、昨日みたいに百瀬さんへ抱く感情を変えたのだろう。だとしたら同じ状況でそこに居たのが千夏だったとしたらどう思うのか。そこに答えがあるような気がした。
「全然寂しくないな」
同じ状況でも、千夏なら多分寂しくない。その理由は単純だ。百瀬さんと別れるとき寂しく感じたのは彼女がどこかに行ってしまうのが不安だったからだけど、長く一緒に居続けたせいで千夏が私の前から消えるイメージができないのだ。どこかに行ってもまた私と会ってくれると思える信頼がある。その証拠に、私が親との関係を修復してから一緒に居る時間が減ったのに大して不安を感じなかった。
「結局何もわからない」
百瀬さんと千夏を比較して考えるには、二人は違うところが多すぎる。結局私は二人のどちらが好きなのか、そもそも恋をしているのか分からなかった。
「やっぱり恋って難しいよねー」
「そうそう、いくら考えても答えが出ない……って、え?」
当たり前のように話しかけてきたからつい返事をしてしまった。いったい誰が話しかけてきたのかと声がした方を向くと、ここに居ないはずの人がジュースを飲みながら隣に座ってくつろいでいた。
「海香さん!? 撮影班について行ったんじゃ……」
「私の出番はないから休んどけって言われたんだ。私のことはどうでもいいでしょ。それより、恋に悩む若人のお話を聞きたいなぁ」
にやにやと楽しそうな表情な海香さんを見ると不安になるが、一人ではとっかかりも掴めないから参考までに聞いてみたいというのが本音だ。そして彼女がここにいる理由についてだけど、少し遠くでの撮影になると大所帯だと困ることがある。それで人を減らすとするなら出番がない役者。今日は海香さんもそれに該当したということだろう。おそらくだけど、昨日私のシーンを飛ばして海香さんのシーンをやったから今日の分の仕事がなくなったのだと思う。
「相談できそうなのが海香さんくらいなので話しますけど、誰かに言いふらしたりしないでくださいよ」
「そんな事しないよ。大好きって気持ちの繊細さはよく分かってるから。それに私は恋の相談を受けて見事にくっつけた実績があるからね。大船に乗ったつもりでいてよ」
「はぁ……」
オーラはあるのだけど、普段の言動が軽い。そのせいで完全に信頼していいのか不安が残る。でも、演技の時の助言は役に立ったから今回もそうであることを祈る。
「友情と恋の違いって何ですかね」
「おぉ! とっても初々しい質問だね!」
「からかわないで真面目に答えてください」
「ごめんごめん、あんまりにも思春期な質問だったからつい……」
私にとっての日常は、大人にとってはキラキラした青春になるらしい。私の言葉に目をキラキラさせる海香さんを見ていると、私が今過ごしている時間というのがどれほどかけがえないものか理解させられる。嫌な理解の仕方だけど。
「そうだねぇ……友情と恋。私の場合は最初から卯月大好き! 結婚しよう! って感じだったからなぁ」
最初から考えるまでもなく好きで好きでたまらない。なんともこの人らしい恋だと思った。
「でも、好きになったきっかけはよく覚えてるよ」
「欲しい言葉をくれたから……でしたっけ」
「よく覚えてたね。うん、苦しんでた私を卯月は救ってくれた。あの時交わした約束は今でも心に残ってるよ」
胸に手を当てて、海香さんは思い出を振り返る。その時の幸せそうな表情を見て、その思い出が海香さんにとってどんなものだったか理解させられる。あの騒がしくて笑顔を絶やさない海香さんにあんな顔させるのかと、海香さんと卯月さんの愛の深さと恋の魔力に感嘆する。
「だから私は思うんだ。友情であれ信頼であれ、強い感情はふとしたきっかけで恋心になりえるって」
「かなり恋愛脳な結論ですね」
「いいじゃん別に。古今東西の神話の神様が惚れた腫れたの話してるくらい、人間は愛に生きてるんだから」
「深いような、浅いような……」
でも、海香さんの話を聞いてスッキリしたような気がする。私が百瀬さんや千夏に向けている感情は何であれ強いものと言える。恋が分からない私がそれを勘違いしてしまうのも仕方ないことだ。
「まぁ、友情か恋か判断する手段をあえて挙げるとするなら、もしその子が誰かと恋人になった時を考えてみたら?」
「誰かの恋人に……」
「うん。私が今まで隠してた気持ちを打ち明けるきっかけになったのが、卯月が他の子に告白された時なの。卯月が告白されたって知った時、卯月の一番が私じゃなくなるかも知れないってなった時、拒絶されるかもしれないとか、今までの関係が壊れるかもとか、怖いって思ってたことがどうでもよくなったの」
誰かに告白された時を思い浮かべる。百瀬さんと千夏が誰かに告白されて、誰かのものになって、私と距離ができる。そう考えた時、単純に胸がチクリと痛んだ。
「好きって伝えれば、友達であれ幼馴染であれ関係は大きく変わる。良い方向にも悪い方向にもね。だから好きって伝えるには勇気がいる。そうやって一歩前に進ませる勇気を持たせてくれるのが、大好きって気持ち。そして、誰にも取られたくないっていう独占欲。それを持ってるかどうかが友情と恋の違いだと私は思う」
経験をもとにした海香さんの含蓄がある言葉。恋を知らない私にとっては知らない世界の話のはずなのに、妙に心に残るのは、世界的な女優の海香さんが語っているせい? それとも、私は無意識のうちに恋をしている?
答えは分からない。でも、想像した時に感じた痛みはきっと間違いじゃない。私の本心だ。
「綾音ちゃんはどう思うの?」
「……嫌だ、寂しいって思います。でも、それは私の勝手な感情。あの子が幸せなら私は祝福するべきです。だからきっと、海香さんみたいには動けないと思います」
「本当に?」
「……確信はありません」
「そっか」
他人との関わりを拒絶していたせいで、惚れた腫れたの話への解像度はきっと並の女子高生より低い。ボヤけた情景の中で私から離れていく百瀬さんや千夏を思い描いても、私の感情の揺れは弱々しい。
明確な答えが出ないまま思い悩む私の頭を撫でながら、海香さんは優しく微笑んだ。初日に観光に連れて行ってくれた事もそうだけど、海香さんは私を気にかけてくれている。まるでお姉ちゃんができたみたいだ。だから、私の迷いを肯定してくれる彼女の存在は、何も解決していないのに妙な安心感を与えてくれた。
「とにかく、焦る必要はないってこと。溜息つくくらい考え込むのも悪くないけど、恋心はロジックじゃ測れないからね。何も考えず純粋に今を楽しむことも大切だよ」
「なるほど……って、え? いつから居たんですか?」
「はぁ……私にとって百瀬さんって」
「最初からいたなら早く声かけてくださいよ!」
溜息についての言及でもしやと思ったが、まさか全部聞かれていたとは。というか、隣にいる大先輩に気付かないほど考え込んでたのか私は。
「幼馴染がいるって言ってたけど、それって百瀬さん? それとも千夏?」
「あーもー恥ずかしいから黙っててください!!」
真面目な話はもう終わりというように、海香さんは私をおちょくってきた。恋で悩む若者を前にしてテンションが上がった海香さんを抑える手段を持ち合わせない私は、結局彼女に色々話すこととなってしまい、百瀬さんも千夏も知らないようなことを全部知られてしまった。この件に限っては百瀬さんと千夏には絶対バレてはいけないのだけど。
そこからしばらくは海香さんと恋バナをすることになったのだが、時間が経過するにつれてだんだんと海香さんの惚気話になった。私としては恥ずかしい話をせずに済んだので助かったし、百瀬さんと合流するまで退屈することはなかったからよかったけど。
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