第57話 大好きな親友

 あれから一週間、映画出演に向けて演技指導も進んでいき、順調に演技力を上げていった。私の上達具合は指導してくれた先生を驚かせるほどであり、我ながら自分の器用さが恐ろしい。先生曰く、演技を始めたばかりということを考えれば黒沢監督も納得するであろうレベルになっているそうだ。でも、ここで満足というわけにはいかない。役者を新しい仕事とするならば演技力の向上は必須。お母さんみたいに細部までこだわっていかないと。


 そんな感じで新しいことにチャレンジしている私だけど、たまには休みが必要だ。そういうわけで久々のオフの日に千夏を家に招いた。最近は忙しかったのもあって、なかなか千夏と話せなかったから、今日は彼女と楽しく会話できたらいいな。


「ふんふんふーん♪」


 鼻歌を歌いながらお母さんが共演者にもらったという高級な紅茶を淹れる。お茶請けにはこれまたお母さんが貰って来たクッキー。これらをお盆にのせてリビングで待っている千夏のもとへ軽い足取りで歩いてゆく。


「お待たせー」

「ん、ありがと」


 庭のほうを見つめていた千夏は私の声に反応して振り向いた。千夏に紅茶を差し出してから彼女の隣に座る。千夏はクッキーを一口かじるとまた庭の方を見た。隣に私がいるのに、そんなに庭の方が気になるのだろうか。


「庭に何かあるの?」


 千夏にそう尋ねながら私も庭の方を見る。昼の太陽の光が降り注ぐ庭の芝生はキラキラと輝いていて、優しい微風で揺れている。外に出たら気持ちよさそうに見えるが、外の気温と湿度は夏真っ盛りですぐに冷房が効いた部屋に戻りたくなってしまうだろう。私が見る限りでは、千夏の気を引くようなものはなさそうだ。


「ここから見る景色も久々だなって」

「あっ……そう、だね」


 私が荒れ始めてから千夏を家に呼ぶことも少なくなった。最後に千夏を家に呼んだ日を思い出そうとすると、それはたぶん中等部の頃まで遡らなければない。


「別に責めてないよ。ただ、綾音がこうやって私を呼んでくれるくらい回復したんだなって感慨深くなってただけ」

「そっか。うん、これも千夏と百瀬さんのおかげだよ」

「……私は別に何もしてないよ」

「ううん。この前、百瀬さんが教えてくれたんだ。千夏が私のことを心配してくれてたって」


 三日前に学校で百瀬さんに改めて直接お礼を言った時、百瀬さんは千夏のことを教えてくれた。千夏は百瀬さんに私を助けてあげてほしいと頼んでくれていたらしい。


 私が百瀬さんをヤヨちゃんに似ている以外に価値がないと思っていた頃に、千夏はもう百瀬さんが頼れる人だって分かっていたみたい。そうじゃなきゃ、百瀬さんにそんなこと頼まない。


 私の近くで支えてくれるだけじゃなく、裏でいろいろ動いて私を助けようとしてくれた。手を引いて前に進ませてくれる百瀬さんとは違う、私が倒れないように後ろで支えてくれる千夏らしいやり方だと思った。


「ありがとね、千夏」

「……どういたしまして」


 いつも仏頂面な千夏が照れたようにほんの少し視線を逸らした。千夏は余程のことがない限り表情を崩さない。でも、私といる時は少しだけ緩くなる気がする。彼女が気を許してくれる。そんな親友特権に、表情が少し緩んだ。


 そんな素直じゃないけど優しくて頼りになる可愛い親友を横目に、私もクッキーを取ろうとした時だった。スッと爽やかな香りが私の鼻腔をくすぐった。紅茶の香りとも、普段の千夏のふんわりとしたいい匂いとも違う、自然に近いけど作られたような匂い。それがした方向を向くと、千夏がもう一つクッキーを食べていた。


「もしかして香水してる?」

「え、あぁうん。ちょっとテレビで見て興味出て。えっと、変だった?」

「ううん。千夏が香水してるのがちょっと意外だっただけで、千夏に合ったいい香りだと思うよ」

「そう。ありがと」


 さっきとは違う、仏頂面が崩れないままのお礼。少し興味が出たくらいのものを褒められてもそこまで心は揺れないか。でも、千夏が香水とかそういうのに興味を持つのは意外だった。


 千夏はどこか達観してるというか、大人びているというか、とにかく周りとは違った場所で物事を見ているような人だ。だから、長い間一緒にいる私でも、香水とかそういった化粧類に興味を持つイメージがない。


 千夏は賢い人だから、理由も無くなんとなくでやっているとは思えない。何か目的があるのではないか。そう考えてみると、一つの可能性が思い浮かんだ。


「もしかして、好きな人とかできた?」


 ピタリ、千夏がクッキーを口に運ぶ手が止まる。そして首を動かしてこちらを見た千夏の表情は、今まで見たことがないくらい不安定なものだった。困惑とか、驚きとか、とにかくいろんな感情が混じり合ったような顔。あの千夏がこんなにも感情を表に出すなんて。


 私が相当変なことを言ってしまったか、それとも図星だったか。こんな千夏を見るのは初めてだから判断ができなかった。


「なんでそう思うの」

「やっぱり香水とかの化粧品って、綺麗になりたいとか誰かの気を引きたいとかが目的で使うよね。それに最近は学校に行っても千夏がいなくなる時が多いから、もしかしたら私より優先して会って気を引きたい人……例えば好きな人とか、そんな人ができたのかなって」


 私が親との関係を修復したころから、学校で千夏と一緒にいる時間が減った。以前はずっと私の近くにいてくれたのに、話しかけようと千夏の席を見ても居ない事が多くなった。そして今気付いた、最近使い始めたという香水。この二つの要素から考えると、私より優先して会いたいような人ができたと考察できる。


 千夏は私の近くにいてくれて当たり前、そんな親友の傲慢が軸になってる考察だけど、私の中ではそう考えるのが自然だった。


「……もしそうだったら、綾音はどう思うの」


 真剣な表情で千夏はそう聞いてきた。表情がこんなにもコロコロと変わる千夏は初めてで、この会話が千夏にとってどれだけ大事なものか理解させられる。一呼吸だけ時間をおいて、誠実に私の思いを伝えることにした。


「やっぱり、寂しいかな。千夏とは長い間一緒にいたし、辛い時も私を支えくれた。ずっと私のそばにいてくれたらどんなにいいか」


 千夏は荒れてた頃の私の心の支えだった。千夏がいなかったら、私は百瀬さんと出会う前に壊れていたかも知れない。ずっと昔からちゃんと私のことを見ていてくれた千夏が私のそばを離れるというのは、素直に寂しいと思う。


「でも、千夏が望んだことならそれでいいと思う。散々迷惑かけちゃった負目もあるけど、それ以上に私は大切な親友に幸せになって欲しいから」


 私の間違いでどれだけ千夏を苦しめただろうか、どれだけの時間を私のために使わせてしまっただろうか。自分のことを省みると、そんなことを考えずにはいられない。千夏は何も言わないけど、散々迷惑をかけた負目は残ってる。でも、私はそんな負目がなくたって、純粋に親友の幸せを応援したいと思う。罪滅ぼしとしてなんかの後ろ向きな応援じゃなく、親友として前向きに応援してあげたい。


「それに、千夏は私のこと含めて他人のことを優先しちゃうところがあるでしょ。そんな千夏が自分の想いのために動いて、自分が好きな人と幸せになる姿を見たい」


 千夏はいつも誰かのために動いている。そういうところが美点でもあるけど、私は千夏自身の幸せのことも考えて欲しいと思ってる。大切な親友の幸せを切に願ってる。


「それが私の想いだよ」


 真っ直ぐ誠実に自分の思ったままを伝える。すると千夏は私から目を逸らして下を向くと、右手で目を押さえて乾いた笑いを吐き出した。


「綾音は本当に優しいね。友達になった人は本当に幸せ者だ」


 表情が見えない。こんな姿の千夏は見た事がない。そのせいか、その言葉の真意が欠片も見えない。私はまた間違えたのか、そう思いかけた時に千夏は顔を上げた。


「ありがとう。そこまで言ってもらった上で申し訳ないんだけど、この香水をつけ始めたのは本当に気分なんだ。特に意味はないよ」


 顔を上げた千夏は、まるで悪戯が成功した子供みたいに笑っていた。その瞬間、さっきまで私が言っていた事が恥ずかしくなってきた。


「え、ちょ、あんな意味深な質問しといて!? 真剣そうだったから私も真剣に答えたんだけど!」

「ジョークのつもりだったんだけど、ちょっと演技が上手すぎたかな」

「真に迫りすぎよ……役者はじめたら名優になれるんじゃないの」

「ごめんごめん。まぁ、私の演技を見習って次の仕事も頑張ってみなよ」

「はぁ……もう本当に恥ずかしい……」


 恥ずかしさで熱くなった頬を手で仰いで冷ます。私の勘違いでつい先走ってしまった。でも、千夏に好きな人ができたんじゃないと知って少し安心した。私のわがままだけど、千夏にはもう少し私の近くにいて欲しい。それくらい大切な親友だから。


 それからはお菓子を食べながら、私の仕事の話とか、夏休みはどう過ごすかとか、夏休み明けから始まる文化祭はどんなのがいいかとか、とにかくいろんなことを話した。その会話の中で千夏はよく笑ってくれた。こうやって楽しく千夏と話せるようになって、荒れてた頃から変わる事ができてよかったと心の底から思った。


 こんなにも一緒にいて楽しいと思える親友は大切にしたい。もし千夏に何かあったら助けになろう。他の化粧品に興味が出たらオススメを教えてあげるし、本当に好きな人ができたら恋のサポートをしてあげたい。


 それくらい千夏は大好きな親友なんだ。

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