第50話 久しぶりな母の顔

 いつものバス停に到着して、いつものように運転手に定期券を見せてバスを降りる。空を見上げれば夕陽が沈みかけていて、橙色は半分黒色に染まっていた。仕事がない日はいつもこんな時間に帰ってくる。何もかもいつも通りだ。


 いつも通りの帰り道を歩く。まちまちとしたこの時間の人通りはほんの少し心が落ち着く。静かな通りを不快感のある湿気を乗せた風が吹き抜ける。夏本番まであと少し。そんなことをふと思った。


 いつも通り門を開けて、いつも通り玄関の鍵を開ける。帰ったらまたいつも通り冷凍食品を温めて夕食を食べる。なんて思っていた。


「おかえり」

「……え?」


 いつもなら静かな玄関から声がして、想定していない状況に脳が機能を停止する。顔を上げて状況をまた捉えても、なぜそんな状況になっているのか理解できなかった。


「なんでお母さんが……?」


 いつもなら夜遅くに帰ってくるお母さんが、夕方に帰ってきた私を出迎えている。ドラマや映画の撮影がないならまだ理解できるが、今はまだ撮影期間中なはずだ。何もかもがわからなくて、本来言うべき言葉を言わずにそんなことを聞いていた。


「千夏ちゃんから聞いたわ。綾音が具合悪そうだって。だから途中で撮影から抜けさせてもらって帰ってきたの」

「千夏が……」


 私の体調が悪くても、いつもの千夏なら親に連絡はしない。私が親に会いたくないって分かってくれていたから。でも、それが全部嘘だって、本当は親に愛されたかったなんてことが分かったから対応を変えてくれたんだ。


『なら、信じて打ち明けよう。相神さんが愛した優しい二人に』


 百瀬さんの言葉を思い出す。勇気が出ない私の背中を押してくれた彼女の言葉。きっと、一番勇気を出せるのが今だ。


「それで綾音、体調はどうなの?」

「え、あ……」


 私のことを伝えないと。そう思っているけど、タイミングがわからない。突然ここで話してもお母さんは混乱するかも知れない。いや、そんなの全部言い訳だ。


「ちょっと、怠いかも」

「そう。なら今日はゆっくり休んで、明日病院に行こうね」

「……うん」


 私を見てくれているお母さんに甘えたくなってしまった。体はもう大丈夫だけど、わざとフラフラとした足取りで靴を脱ぐと、お母さんは私の肩に手を添えてリビングまで連れて行ってくれた。


 お母さんの温度も匂いも、全部を久々に感じた。懐かしいとかそんな感覚じゃなくて、イメージしていた物の実物を初めて見た時みたいな、そんな感覚だった。


「着替えはそこに置いてあるから、シャワー浴びて来なさい。それと食欲はある? そんなにないならうどん茹でるわよ」

「うん。うどんで大丈夫」

「分かったわ」


 お母さんはそう言うと私から離れてキッチンに向かった。


「何かあったら呼んでね」


 私は着替えを持って脱衣所の扉を開けた時、お母さんは鍋に水を注ぎながらそう言った。そんなお母さんの表情に少し違和感を覚えた。


 こんなに優しかったっけ。思い出の中のお母さんは曖昧で、何年もまともな会話をしていない。テレビ越しで見るお母さんはストイックで、共演者に笑顔は見せても、こんなに優しいものではなかった。


「……そっか、わかんないのも当たり前か」


 ずっと親から目を背けていた私が理解できるわけない。見ようともしてないくせに、見てくれないって不貞腐れてたのが私なんだから。


 シャワーを浴びた後、着替えた私が脱衣所から出ると出汁の優しい香りが鼻腔をくすぐった。


「綾音、うどんできてるわよ。って、まずは髪乾かさないと」


 お母さんはうどんの入った器を置くと、私の背中を押して洗面台の前に連れて行った。ドライヤーのスイッチを入れるとゴォーという音と共に、お母さんが私の髪に優しく触れた。


 お母さんが髪を乾かしてくれる間に会話はなかった。でも、気まずい空気ではなかった。お母さんが集中して丁寧に私の髪を乾かしてくれて、大切にされてるってことを感じられたから。


 私の金髪は染めたんじゃなくて地毛で、それはお母さんから遺伝した物だ。ここに百瀬さんが遊びに来た時にお母さんと私が似ていると言っていたのは、顔つきもそうだろうけど、私と同じ髪色だったというのもあるだろう。


「はい、終わったわよ」


 ドライヤーの音が途切れると同時にお母さんの声が降ってくる。そっと私の髪に触れてみると、余す所なく丁寧に手入れしてくれたみたいで、サラサラとしていて触り心地が良かった。自分でも気を遣って手入れしてはいるけど、長年の経験には敵わない。


「やっぱり綾音の髪は綺麗ね」


 お母さんはそう言いながらドライヤーを置き、キッチンに戻って行った。髪が綺麗、きっとそれはお母さん譲りのものだ。でも、お母さんは自分譲りの髪としてではなく、私の髪として褒めてくれているように感じた。


 百瀬さんと関わっていく中で、どうやら私は誰かを慈しむ人の特徴が分かるようになったみたいだ。


「はいどうぞ」


 箸とお茶が用意されていた席に座ると同時にお母さんがうどんを出してくれた。


「いただきます」


 なんの変哲もない素うどん。でも、お母さんが作ってくれた食べ物は本当に久しぶりで、うどんから発される熱とはまた違った温度を感じた。


 箸でつまんで一口食べる。少し柔らかいのは丁寧に髪を乾かしたせいか、それとも病人の私を気遣ってのものか、それとも両方か。別に悪い味ではないけど、褒めるようなところもない普通の味。でも、体の芯から温まっているように感じた。


「いつぶりかしら、綾音が体調を崩すって」


 向かい側に座ったお母さんは頬杖をつきながら述懐する。私はお母さんの知らないところで何度か体調を崩している。でも、微熱だとか軽い頭痛だとか、すぐに治る程度のものだったからお母さんに伝えていなかった。


 いま思えばただの強がりだ。お母さんの仕事を邪魔したくなかったから。


「ご馳走様」

「お腹いっぱいになった?」

「うん」

「よかった」


 うどんを食べ終わるとお母さんは器を下げた。ここまでずっと、お母さんは私を心配してくれている。それがお母さんの愛の証明で、私が一人で勝手にいじけていただけということの証明でもあった。


 こんなも優しいのに私はお母さんを避けていた。嫌いだと思い込んで会話すらしようとしなかった。いや、お母さんがこんなにも優しいから、大好きだから逃げたんだ。


 嫌われたくない。失望されたくない。私はお母さんの自慢の子供でいたい。そう考えてしまった私から甘えるなんて選択肢は消えてしまった。一人でも大丈夫な強い子。親に迷惑をかけない賢い子。そんな子供になろうと私は本当の自分を押し殺した。


 そうすればお父さんもお母さんも褒めてくれた。私を気にせず仕事に行ける二人をテレビ越しで見ると、いつも生き生きしていた。本当に自分の仕事が大好きで、誇りを持っているんだって。ずっと、これでいいんだって思った。


 でも、違った。


 親に愛されたいという本当の想いを殺すために、いつの間にか私は親を嫌いだと思い込むようになった。私がそうさせたのに、二人を子供を放置する最低な親だと事実を捻じ曲げた。そうしないと二人に行かないでって言ってしまいそうだったから。


 それでも想いは消えてくれなくて、百瀬さんと関わっていく中で無理に取り繕おうとしていた自分に気がついた。そして、我慢しなくていいんだって教えてもらった。


「お、お母さん」


 だから、打ち明けるんだ。百瀬さんがくれた言葉が私に勇気を与えてくれるうちに。

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