第49話 放課後、とあるカフェで
からんからんと出入り口のベルが鳴ると、店主はそちらに目を向けた。入店してきたのは近くの高校の制服を着た二人の少女。若いのにこんな店に来るなんて物好きだなと思いつつ、カフェのマスターは二人の少女を席に案内した。
カウンターではなくテーブルを選んだ二人は向き合って座る。小柄な方の少女だけが少ないメニューの中からカフェオレを注文し、背が高い方の少女は何も注文しなかった。
注文を受けたマスターが席から離れても二人は一言も言葉を交わさない。静かな店内ではマスターがコーヒーを淹れる音だけが聞こえていた。そしてマスターがカフェオレをテーブルに運ぶと、小柄な少女はマスターにお礼をするように一礼してからカフェオレに口をつけた。
一口飲んだ少女は味の感想は何も言わず、目の前の黙り込んでうつむいている少女を見た。
「相神さん」
小柄な少女が名前を呼ぶと対面に座っている少女は顔を上げた。顔を上げた相神からは生気を感じられず、誰が見ても何かがあったと察することができるだろう。もはや相神にはカリスマモデルとしての自分を取り繕う余裕はなかったのだ。
「話ってなにかな」
百瀬は内心穏やかではなかった。相神から話したい事があるといわれた次の日に顔を合わせた彼女は、今までにないほど弱っていたからだ。初めて家に遊びに行った時も、林間学校の時も弱みを見せてくれたが、今日の相神はそんな弱みのせいで心を病んでしまっているように見えた。
授業中もずっと苦しそうな顔をしており、昼休みも何も食べておらず、クラス全体がざわついていた。天金が常にそばにいて相神のカバーをしており、百瀬もそれを手伝おうとしたが天金に止められた。彼女曰く放課後まで待ってほしいとのことだ。
『百瀬と話すのは、ちゃんと時間が取れてからのほうがいい』
真剣な表情で天金にそう言われた百瀬は、自分よりも付き合いが長い彼女の分析を信じることにした。そして放課後、百瀬は相神に静かな場所に行きたいと言われた。
どこか相談がやりやすい場所はないかと、相神と話せない時間に前もって調べていた百瀬は、友人の白銀ノノに紹介された隠れ家的カフェに訪れたのだ。
「……ももせさん」
消え入りそうな声で相神は百瀬に手を差し出した。それで何を求めているかを察した百瀬は、相神の右手を両手でやさしく包み込んだ。百瀬の手に包み込まれると、相神は感覚がなくなっていた自分の手にあたたかな温度が灯ったように感じた。
「約束したでしょ。私はどんな相神さんでも受け入れる。だから、大丈夫」
未だ勇気が出ない相神を安心させるために、百瀬は自分の温度と共に受け止める覚悟を伝える。相神は信頼する天金にすら弱みを見せなかった。
今こんなにも弱った相神と対峙しているのも、その弱みを知ったのも、自分から踏み込んだからだ。友達に苦しんでほしくない。友達に笑顔でいてほしい。百瀬が持つ人を思いやる優しさも、人に寄り添う覚悟も生半可なものではない。
「ありがとう、百瀬さん」
その覚悟が伝わり、相神は自分の苦悩を打ち明けることを決めた。手は握ってもらったまま、彼女はようやく百瀬と目を合わせて口を開いた。
「私はお父さんとお母さんにもっと愛して欲しかった。そう気付いてから、自分が誤魔化してきた自分の気持ちにも気付いたの」
親にかまって欲しい。それは幼子のような願いだが、それは彼女が幼いころから自分を押し殺してきたことの裏返しである。
「自分を誤魔化すために本当の自分を曲げていた。だから、ずっと心が満たされなかった。でも、それに気付けたところで私自身は何も変わっていなかった。私自身が変わらなきゃどうしようもないことだって分かってるのに、私は自分を変えられない」
相神の声が揺れる。彼女はずっと自分自身を責め続けていた。自分の想いをかなえるために自分を変えることが怖くて、痛みを伴わないからと、周りに都合がいい自分、カリスマモデルとしての相神綾音で居続けた。それによって自分の大切な親友、そして自分自身を傷付けているとも分からずに。
百瀬南との交流で本当の自分を自覚すると同時に、今までの自分の罪深さも理解してしまった。その罪を罰する方法も、その罪を清算する方法も相神は知らない。自分自身に刻み付けた傷、大切な人に刻んだ傷、その両方を相神は心のうちに抱えていた。
「私、お母さんに話そうと思ったの。でも、いざお母さんを前にすると、怖くて何も言えなかった……お母さんは私に笑顔で話してくれるのに、拒絶しようなんて思ってるはずないのに、私はお母さんが怖かったの。その理由がわからなくて、どうしようもなくて、そもそも今更私なんかにそんな資格が」
「相神さん」
静かに相神の話に耳を傾けていた百瀬が突然相神の話を遮った。相神は何か百瀬の気に障ることをしてしまったかと恐る恐る顔を上げると、百瀬に優しく両頬を手で包まれた。そして真っすぐ二人の視線が交わると、百瀬は子を慈しむ母親のように優しい目で、しかし真剣な表情で語りかけた。
「ダメだよ。私なんかって言ったら」
誰かを責めるような語り口ではない。しかし、その言葉には強い芯が通っており、分かって欲しいという百瀬の想いが込められていた。
「自分で自分を卑下しないで。そんな相神さんを見たら相神さんを大切に思っている人も辛いし、相神さん自身は自分を小さい枠に押し込めて変われなくなる。さっきの相神さんの言葉は、誰も幸せになれない言葉だよ」
百瀬は自分を地味で不器用とは思っているが、それでもVtuberとして活動する自分に誇りを持っている。自分の身の丈を評価することはあれど、自分を否定するようなことはしない。
自分を肯定できるように変わろうとし、変わり続けることで自分を肯定して生きてきたのだ。自分を低く見積もってしまえば、そこで可能性は閉ざされる。弱い自分を変えようともがいた百瀬はそれを十分に理解していた。
「相神さんが何を考えてるか、全部は理解できてない。でも、相神さんが罪悪感を抱えてるのは分かる」
百瀬は相神が何に対して罪悪感を抱いているかは知らない。相神がやってきた他人を思いやらない身勝手な行動も、大切な人を傷付ける間違いを犯し続けてきたことも知らないから。だが、自分の本当の想いを自覚してなお変わることを恐れるのは、単純に変わることを恐れている以外に、自分が変わることを躊躇わせる理由があるように百瀬は直感した。
「だって、相神さんは優しい人だから」
「え……?」
予想外の言葉に相神は戸惑った。自分の間違った選択で大切な親友を傷付け、こんなにも寄り添ってくれている百瀬を最初は利用するためだけに近付いた。それ以外にも、自分は特別なんだと思うために自分の周囲に寄り添うことをやめた。そんな自分が優しい人間だとは思えなかったのだ。
「相神さんの言うように相神さんのお母さんが優しい人なら、お母さんを大事に思ってる相神さんもきっと優しい人なんだよ」
相神の両親の人柄も、相神が両親とどんな人生を歩んできたかも百瀬は知らない。だが、相神が両親を大事に思っているということは分かる。それは、今目の前にいる相神綾音という人間が、ほとんど両親と共に過ごすことができていない環境に居てなお、親の愛情を求めていることからも明白だ。
「それに天金さんも、相神さんは明るくて、真っすぐ人を見られる子だって言ってたよ。友達になって日が浅いけどさ、天金さんは人の本質を理解してる賢い人で、大切な人のために行動できる優しい人だってことくらい分かってる。そんな天金さんも相神さんを誰よりも大切にしてて、そうやって評価してるんだよ」
天金、その名前が出た瞬間、相神は罪深い自分を彼女は百瀬にどう言っていたか聞きたくなくて耳を塞ごうとした。しかし、百瀬の真っすぐ相神をとらえる瞳がそれを許さなかった。
天金が言っていたという相神の評価。彼女にとってはとても信じられないことであった。ずっと天金の優しさに甘えて自分を変えようとしなかった。何度も選択を間違えて天金を傷付けた。
そんな自分を本心から大切に想ってくれていることも、どうしようもなく愚かな自分をいい人だって思ってくれていることも信じられなかった。だが、自分を真っすぐ見つめる百瀬が嘘をついているということは、それ以上に考えられなかった。
「だから私は相神さんは優しい人だって直感を信じられる」
相神は本当の自分の姿と自分の罪を認識してから自己肯定感がなくなっていた。だが、百瀬の真っすぐな言葉がぐちゃぐちゃになって形を見失っていた相神の心に届き、未完成ながら形を与える。弱い自分はまだ何も変わっていないが、やさしい自分もいるということが相神の心を僅かに上向かせた。
「……相神さんが自分を本当の意味で肯定できるようになるまで時間はかかると思うし、苦しいこともあると思う。相神さんが抱えてる罪悪感の解消もきっと簡単にはいかない。それは仕方ない。でも、相神さんは変わろうと思えた。今はそれで十分だよ。気付けたなら前に進めるから」
相神は百瀬との交流で多くのことに気付けた。しかし、気付いたことがあまりに多すぎて彼女には抱えきれなくなっていた。今は気付けただけで十分。その言葉はそんな彼女にとって救いであった。それが自分を変えることができた百瀬の言葉であったから、説得力もなおさらあった。
「ありがとう、百瀬さん。……でも、我儘かもしれないけど、私はすぐにでもお母さんに私の言葉を伝えられるようになりたい。お母さんを怖いと思ってしまう理由を知りたいの」
ここで一度休んでも相神に罪はないのかもしれない。しかし、相神はせめて親との関係だけは整理をつけたかった。自分のためにも、大切な友達に心配をかけないようにするためにも。生気を失った目に光が灯り、百瀬を真っすぐ見つめる。それを見た百瀬は彼女の強い気持ちを汲み取って、自分の中の確信に近い予測を伝えることに決めた。
「それは相神さんが優しすぎるからだよ」
「え……?」
相神は自分が優しいことと母親に自分の気持ちを伝えられないことに繋がりを見つけられなかった。しかし、百瀬の目は本気で、相神はただ耳を傾けることに決めた。
「相神さんの両親は有名人で多忙な身。それこそ、我が子と全然一緒に居られないくらいに。そんな二人にもっと一緒に居たいって伝えたら、二人の邪魔をしちゃうことになる。だから相神さんは伝えるのを躊躇っちゃったんじゃないかな」
「あ……」
二人の邪魔をしたくない。だから我慢した。それはまさに、かつて相神が幼少期に体験した雨の日の留守番と同じであった。あの日のペトリコールが相神の心を縛り付け、彼女の心を曇らせたのだ。
「……私はお父さんとお母さんが好き。あの二人を嫌いだって思い込んで誤魔化そうとしたけど、やっぱり無理だった」
まともに会話も交わさない両親を好きでいるわけがない。百瀬と出会う前はそう思い込んで自分の本心を抑え込んでいた。だが、偽物の心で本心は消せない。浮き彫りになった本心が、相神の家族への深い愛を自覚させる。
「でも、今更迷惑だよ。お父さんとお母さんに迷惑をかけるくらいなら私は……」
「本当に迷惑だと思う?」
「え……?」
両親は自分の仕事に誇りを持っている。だからその仕事の邪魔はたとえ実の子供でも許されない。相神はその論理に間違いなんてないと思っていた。
「私は大切な人が自分のせいで苦しんでいるのに、それを知ることもできないってことの方がよっぽど辛いよ」
百瀬の言葉で、相神はまた自分の間違いに気が付いた。
「これはあくまで私の考え。ここからは相神さんが考えて。相神さんが大好きな二人はどう思うか」
たとえ相手のことを想った行動でも、相手がどう考えるかを考えなければ、それはただの善意の押し付けに過ぎない。良かれと思ってやったことが相手に迷惑をかけてしまうことは往々にしてある。
「そんなの……私のお父さんとお母さんは……」
両親の笑顔を思い出す。幼いころの自分に笑いかけてくれた二人は、本気で自分を愛してくれていた。だから彼女は同じように二人を愛したかった。だが、幼いころの自分は愛をはき違えて自己犠牲に走ってしまった。もう長らくまともに会話をしていなくても、今の弱り切った自分を、自分を愛してくれた両親に見せたらどう思うかなんて分かり切っていた。
「きっと、百瀬さんと一緒だよ」
自然と涙が零れ落ちる。そこに宿った感情は、両親への純粋な愛や、大切なことにまた気付かせてくれた百瀬への感謝や、前に進むための勇気など、決して一言では表せない。様々な感情が混ざり合ってできた涙にただ一つ言えるのは、それは水晶のように透き通っていたということだ。
「なら、信じて打ち明けよう。相神さんが愛した優しい二人に」
夕暮れの欠片が照らすカフェの中で、一人はただ静かに大切な人の背中を押し、もう一人は変わるために一歩を踏み出す勇気を得た。そんな二人の間にある沈黙は、ここに来た直後のような重苦しいものではなく、そよ風に揺られるようなただただ心地よいものだった。
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