第47話 愚者が吐き出す不定形
今日は仕事が入って三限目に学校を出たせいで百瀬さんと話せなかった。仕事を終えたのは夕方六時。疲れた体を引きずって玄関の扉を開けるけど、誰も出迎える人はいなかった。それに少し安心してしまった自分に少し嫌気がさす。
もっと親と一緒に居たいなんて思っていながら、いざお母さんを前にすると怖いなんて思ってしまう。出迎えられてもまともに話せない。会いたいのに、会いたくないとも思ってしまう自分の矛盾する心の理由が分からない。
自室に上がるのも億劫で荷物をリビングのカーペットに投げる。お母さんは深夜まで帰って来ないだろう。ここでゴロゴロしてたって、私がお母さんとエンカウントすることはない。
「……百瀬さんになら分かるのかな」
なにが「百瀬さんになら」だ。千夏を裏切って相談しなかったくせに。そんな自分勝手な私をもう一人の冷静な私が糾弾する。このまま物思いに耽っていたら自分をもっと嫌いになってしまいそうだ。体を起こしてキッチンの冷蔵庫の前に立つ。今日も今日とて冷凍食品。素材を買って自分で作るのも面倒だからこれしかないのだけど。
そう考えると、もしお母さんに自分の想いを伝えたとしても手料理を食べることはできないのかな。お母さんの仕事が忙しいのは変わらないだろうし。じゃあこの食生活は仕方ないと自分を納得させるしかなさそうだ。
冷凍庫を開けて冷凍のオムライスを取り出す。少し切り口を入れて電子レンジで温め始めた後、冷蔵庫からケチャップとお茶を取り出し、テーブルを布巾で拭いて綺麗にする。中の物が温まったという電子レンジの音を聞いて、アツアツに熱されたプラスチックの袋を火傷しないようにつまんで皿に乗せる。開封して大量の湯気と共に皿に乗ったオムライスにケチャップをかけて夕食の準備は完了した。
「いただきます」
いつも通りの一人の食卓。でも、林間学校の時はみんなと一緒だったのと、自分が抱えていた寂しさを自覚したせいか、いつもよりも食事が味気ないと感じた。
「ごちそうさまでした」
私以外誰もいないこの空間で、意味もなく挨拶をする。虚しさを加速させるだけなのに私は何をやっているんだろうと自嘲した。使った食器を軽く洗ってからお風呂をチェックする。予約した時間まであと五分くらいなので、二階に上がって自室から着替えを持って降りた。後から荷物も持って上がればよかったと思ったけど、それはお風呂から上がってからにすることにした。
『お風呂が沸きました』という無感情な声がリビングに響き渡る。着替えをもって脱衣所に向かい、一番風呂を堪能した。一通り体を洗った後、ゆったりと湯船につかる中でまた考え事を始めてしまう。
「……千夏」
千夏はずっと私を支えてくれた。虚勢を張って取り繕ってた私とは違う、本当に強くて優しい大切な友達。なんで私は千夏をもっと頼らなかったんだろう。
本当の気持ちを自覚してなかった時だったとしても、家族のことで不満を持っていることを相談すれば力になってくれたはずだ。そうすればこんな深刻な症状にはならなかった。もしかしたら百瀬さんと出会う前に何もかも解決できたかもしれない。
それなのに私は千夏を頼らなかった。信頼してなかったわけじゃない。むしろ、誰よりも信頼できる親友だ。
そんな親友の私への態度を振り返ったら、その理由をすぐに理解できた。
「ははっ、私がバカなだけじゃん」
千夏はいつも私に選択肢を選ばせてくれる。今日の朝も、いつ誰に相談するかも綾音の自由だって言ってた。そうだ。千夏はいつだって私に自由を与えてくれた。
私が百瀬さんを利用するために近づいた時だって、千夏なら絶対に許さないような事なのに、少し苦言を呈するだけで止めたりはしなかった。どんな選択であっても、千夏は受け入れてくれたんだ。
だから、誰にも相談せず苦しみ続ける私も千夏は受け入れた。全部、私が選んだことだから。間違えた私も苦しかったけど、一番苦しかったのは間違え続ける私を傍で見ていた千夏だ。千夏はどんな時でも私に寄り添おうとしてくれたのに、何度も間違いを正せる選択肢をくれたのに、バカで愚かな私は間違え続けて私を大切にしてくれる千夏を苦しめた。
今日だって、仕事のせいで百瀬さんと話せないならあそこで千夏に相談すれば良かったんだ。そうすれば少しは気が楽になっていたはずだ。しかも、よりによってそこに居ない人を求めてる事を漏らしてしまうなんて。寄り添おうとしてくれた千夏を裏切る最低な行為だ。
「ははっ、アッハハハハ!」
私はまた間違えた。大切な親友を傷つけた。百瀬さんのおかげで自分の想いに気付けたのに、肝心の私自身が何も変わっていないじゃないか。ずっと愚かにも選択を間違え続ける弱い人間なままだ。
「ごめん、ごめんなさい……」
千夏は私を支え続けてくれたのに、私は千夏を傷付け続けた。いくら謝ったって許される事じゃないのに、この場に千夏はいないのに、本当ならあの朝の時に言うべきなのに、無意味な謝罪が溢れて止まらない。
なに泣いてるんだよ。全部自業自得だろ。お前が親友を傷付けたくせに、なんでお前が泣くんだよ。どこまでも自分勝手だな。そんなのだから間違えるんだ。どこまでいっても愚かな弱い人間なんだ。
冷静な私がグサリグサリと何度も私の心を抉る。傷口から血が溢れ出たせいか、長時間湯船に浸かっているはずなのに、身体の芯が冷えていく。お湯は温かいはずなのに身体は冷たい。そんな矛盾する感覚が気持ち悪くなって、頭の中がグラグラと揺れる。
早く出ないとダメだと直感して立ち上がるけど、足元がおぼつかない。ぐちゃぐちゃの視界の中で私は逃げるように風呂場を出て脱衣所に身を投げる。
けれど、それも間違いだった。冷たい空気が私を包み込む。それから身を守る術がない私の身体は一気に冷えて、ガタガタと震え始める。
だめ、気持ち悪い。もうまともに立つことすらできない私は芋虫みたいに身を捩らせることしかできない。体の感覚がなくなっていく。体が冷たいという感覚すら感じなくなった瞬間、キーッという高音の耳鳴りがして視界が暗転する。
「うっ……がっ……あぅ……」
脱衣所の白いタイルが淡黄色に染まる。気味が悪いほどサラサラした液体の中には私の心と同じくらいぐちゃぐちゃの固形物が混じっている。
それらは人肌ほどの温度と共に腹の中に籠るような不快な異臭を放っていて、呼吸もままならない私はそれを大きく吸い込んでしまい、また淡黄色を吐き出した。
「けっ、かはっ、うっ……おぇ……」
吐き出して、酸素がなくなって、吸い込んで、また吐いた。何度も何度も繰り返していくうちに、だんだんと体の感覚が戻ってきた。そして冷静な思考を取り戻すと、こう考えるようになった。
これは罰だ。自分の愚かさで何もかもに迷惑をかけてきた自分への罰。
そう思うと、少しだけ気が楽になった。優しすぎる千夏や百瀬さんはきっと私に罰を与えてくれない。胸の内に溜まった罪悪感は消えてくれない。だから、こうやって吐き出して清算しないと。
「けほっ、うっ、かはっ……」
脱衣所に異臭が充満し、腹から何も吐き出せなくなったころ、私はようやく立ち上がる事を決めた。
早く掃除しないと。綺麗にしてニオイも全部消さないと。これがお母さんにバレたら心配させてしまう。そう思って歩き始めると、洗面台の鏡に映った私が見えた。
「これが私……」
顔を真っ青にした、生気のない痩せ細った醜い女がそこにいた。張っていた虚勢も、強い人間になろうとした無駄な努力も、私を取り繕っていたものを全部吐き出した本当の姿。
「きもちわるい」
鏡の女は嗤っていた。
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