雨過天晴編

第44話 相神綾音のとある朝

 午前七時、スマホのアラームで目を覚ます。いつもと変わらない朝の目覚めがいいのは、林間学校でのことのおかげだろう。目を逸らし続けてきた本当の自分を見つめなおして、今まで抑え込んでいた本音を吐き出した。胸の内に溜まっていた澱みを吐き出してスッキリできたような気がする。


 いつもより軽い足取りで階段を降りると、リビングから物音がした。もしやと思って少しだけ足を速めると、もう仕事に行く格好をしているお母さんがいた。玄関に続く扉を開けようとしていたお母さんは私に気が付くと、その手を止めて私のほうを見た。


「お母さん、おはよう」

「おはよう」


 私を見つめるお母さんの目は全く揺れずに一点を見つめている。冷たいわけじゃない。でも、ただひたすらに私を見据える瞳の威圧感を怖いと思ってしまった。


「キッチンにパンがあるから朝ご飯はそれを食べてね」

「う、うん」

「私はもう出るから。綾音も遅刻しないようにね」

「うん。き、気を付けてね」

「えぇ、行ってくるわ」


 お母さんの口調は柔らかいのに、変に緊張して頭が回らなくなってしまい、うんうんと頷いて不器用な会話をすることしかできなかった。いってらっしゃい、家族との間なら当たり前に交わせるそんな言葉すら言えないままお母さんを見送った。


「……なんで」


 さっき、私はお母さんとまともに話せなかった。お母さんに拒絶されてるわけじゃないのに、時間に追われてるわけでもないのに、思うように言葉が出なかった。


 お母さんは遅くに帰ってきて早く家を出る。でも、顔を合わせる時間がないわけじゃない。今日みたいに少し話すときもある。でも、いつの間にか家族らしいやり取りはなくなって、さっきみたいに必要最低限な会話だけになってしまった。


「自分から話しかけたの、久しぶりだな」


 いつもは私の存在に気が付いたお母さんが、今日の朝ご飯がどこに置いてあるとか、帰るのは深夜になるとか、土日に仕事が入ったとか、そんなことを伝えるだけだった。何故か分からないけど、私はお母さんに話しかけるのが怖くなってしまっていた。


 お母さんとお父さんともっと一緒に居たい。あの時吐き出した言葉は紛れもない私の本音だ。だから私はお母さんとお父さんが大好きなはずなのに、同時に二人を前にすると怖いと思ってしまう。


 何がそんなに怖いんだ。今日だって仕事に行く前に引き留めても嫌な顔しなかったじゃないか。それどころか、生まれてからお母さんが私に怒鳴ったことなんて一度もない。いつだってお母さんは私に笑顔を向けてくれた。


 でも、事実として私はお母さんと上手くしゃべることができなかった。何かを怖がって、家族相手に極限まで言葉を選んだ。私はとことん自分の気持ちがわからないみたいだ。この恐怖の正体すら掴めないなんて。


 とことんダメダメな自分に呆れつつ、朝食が置いてあるキッチンに向かう。そこに置いてあった袋の中には、スーパーで売っている菓子パンが詰まっていた。それを見て、胸がちくりと痛んだ。


 百瀬さんとの会話で自分の本音が分かって変われたつもりでいた。でも実際は、私を取り巻く状況は何も変わっていなくて、私自身も完全に自分のことを分かっていないままだった。


「……あ」


 でも、自分に少しでも余裕ができたことは良い事だと思った。たまご蒸しパン、メロンパン、パンケーキ、袋に入っていたパンは全部、幼いころの私が好きだったパンだった。


「今はそんなに好きじゃないんだけどな……」


 幼いころの私の口には合ったけど、今の私からしたら甘すぎる。買ってくるなら他のものにして欲しかったけど、それも仕方ないのかもしれない。だって、今の私がどんなものが好きかお母さんに話したこと無いんだから。


 メロンパンを選んでポットでお湯を沸かす。マグカップにインスタントコーヒーの粉を入れる。いつもなら少し砂糖を入れるけど、甘い菓子パンのお供にならブラックでもいいだろう。お湯が沸くのを待つ間、もう少しだけお母さんのことを考える。


 お母さんと話さなくなったのはいつからだろうか。あの雨の日の記憶、その頃はまだお母さんとちゃんと話せてた気がする。でもだんだんと、ごく自然な流れで会話が減っていった。成長するにつれて親離れが進むのは当然だ。でも、親子というにはあまりにも関わりが少なくなりすぎていると思う。


 家族団欒、そんなひと時が無くなったのはいつからだろうか。答えが出ないまま、ポットのお湯が沸いた。マグカップにお湯を注ぐと白い湯気と共にコーヒーの匂いが広がる。テーブルにマグカップとメロンパンを並べて食べ始めた。


 合間にコーヒーをはさんで甘いすぎるメロンパンのバランスをとる。テレビをつけて今日のニュースを眺めながら食べ進めていると、ピロンとスマホから通知音が鳴った。画面をタップして確認すると千夏からだった。


 今家を出たみたいだ。早くないかと思ってテレビの端に表示されている時間を確認すると、七時四十五分を示していた。いつも乗っているバスが来るのが八時五分。あと二十分しかない。お母さんのことで考え事をし過ぎたみたいだ。


 急いでメロンパンをコーヒーで流し込み、少し雑に身支度を整えて家を出る。急いだけれど玄関を出た時間は八時で、走ってもいつものバスには間に合わない。千夏も先に行ってしまっているだろう。諦めて歩いてバス停に行くと、バス停にあるベンチに一人で座っている千夏を見つけた。


「おはよう。遅かったね」

「え、あ、ごめん」


 あの時間に家を出て間に合わないはずがない。それなのにまだ居るということは、わざとバスを乗り過ごして私を待っていたということだ。次のバスに乗っても学校には間に合うけど、急いで走る必要がある。私のせいでそんなことをさせてしまうのが申し訳なくて謝った。


「珍しいね。寝坊?」

「いや、ちょっと考え事してたらこんな時間になっちゃって。本当にごめん」

「なんで謝るの? 考え事するくらい綾音の自由でしょ」

「だって、千夏を待たせちゃって」

「別に待ってないよ。前のバスが珍しく満員でさ。窮屈そうだから乗らなかっただけ」


 嘘だ。この時間のバスが満員になったところなんて見たことがない。


「それより、座りなよ。立ってるのは疲れるでしょ」

「う、うん」


 千夏がベンチをトントンと叩いてここに座るように促す。その通りに千夏の隣に座ると、彼女は私の髪に触れた。


「え、な、なに」

「髪、乱れてるじゃん。せっかく綺麗なんだからちゃんと手入れしないと」

「急いで来たから……」

「じゃあ今から整えよ。バスが来るまで時間あるしさ」


 千夏はそう言うとポーチから櫛を取り出して立ち上がった。私が何か答える間もなく背後に回り、私の乱れた髪に櫛を入れた。


「ありがと」


 優しい手つきで私の髪を整えてくれている千夏に感謝を伝える。ハーフのお母さんから遺伝したこの金色の髪。両親のことが嫌いだと思っていた時は呪いみたいだと感じていたのに、今は大切にしたいと思える。お母さんへの想いはまだ整理できていないけど、自分の想いのかけらくらいは感じられた。


「……朝の考え事ってなんだったの」


 千夏からの質問、待たせてしまったから答えたかったのだけど、口を噤んでしまった。優しい千夏ならいいアドバイスをきっとくれる。でも、ずっと家族とのことに触れない関係だったせいか、今更相談なんてできないと思ってしまった。


「ごめん」

「だから謝らなくていいって。いつ誰に相談するかも綾音の自由でしょ」


 それが千夏の想いを裏切ることだとはわかっていた。でも、自分が変わるときにずっとそばにいたあの子を思い出さずにはいられなかった。


「……百瀬さん」


 会いたい。思わず口に出た彼女の名前を聞いて、千夏は何を思ったのか。弱い自分の裏切りを前にして、急に黙り込んでしまった千夏が怖くて聞くことができなかった。

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