第42話 煙に巻く
みんなが寝静まった、消灯時間もすっかり過ぎた深夜12時。私は旅館の自動販売機の前にいた。先生に見つかったら怒られると思う。でも、あんな相神さんを見て眠れる気がしなかった。
「……恋って、なんだろう」
相神さんがいないこの場所でなら、少しくらい自分の事を考えてもいいだろう。
私は相神さんが好きだ。好きなはずなんだ。それなのに、露天風呂で抱き合ったという事実をほとんど意識していない。今までは相神さんと話せただけでもドキドキして恋に胸を高鳴らせていたのに、今の私はまるでときめいてくれない。
あの時触れた相神さんの肌の柔らかさも、相神さんの心臓の鼓動も、全部覚えてる。でもそれは事実として漫然と私の頭の中にあるだけだ。
色んなことがありすぎて頭が追いついていないのかも知れない。落ち着いたら前みたいに相神さんにドキドキできる。そう信じたい。
相神さんのことが好きじゃなくなった。その可能性を捨てきれなくて胸が痛む。あんなに好きだったのに、あんなに憧れていたのに、それらが全部抜け落ちてしまう。
「嫌だなぁ」
私は相神さんが好きだ。その気持ちがこの関係の原点だ。そして大好きな相神さんが苦しんでるって知って、力になってあげたいと思った。そうやって頑張ったから相神さんが心を開いてくれた。
恋から始まったこの関係だから、相神さんへの恋心が消えてしまうのは純粋に嫌だった。
もし相神さんを恋愛的に好きじゃなくなったら、この関係はどうなってしまうのかも不安だった。恋が冷めてしまったと疑っている今でも、相神さんは大切な友達だという想いは変わらない。でも、相神さんが好きだからこそできた事を相神さんが望んでいるのなら、相神さんの目に映る私が変わってしまったなら、また相神さんは心を閉ざしてしまうかも知れない。
それは相神さんのためにも、私のためにもならない。
「……ごちゃごちゃ考えたところでかなぁ」
心の整理がついていないのは私も同じだった。時間の経過が私の心の状態を教えてくれる。そう願いながら自動販売機にお金を入れて、250mlのペットボトルのお茶を買った。
ガタンという音と共にペットボトルが落ちてきて、思ったより音が大きかったから反射的に周囲を見渡す。誰もいなかったので一安心してペットボトルを取り出す。別に喉は乾いていないけど、何かを口に入れたい気分だった。
「……無味」
深夜に飲む麦茶はあまり美味しくないと思うのは私だけだろうか。運動した後はあんなに美味しいのに、こうやってのんびりしてる時はほぼ水と変わらない無味のように思える。
深夜にカップラーメンやら味の濃いものが食べたくなるのはそういう事なのだろうか。それにしたってなぜ私は麦茶を選んでしまったのか。そんないちゃもんを付けるくらいならココアかミルクティーでも買えばよかったのに。
「こんな時間に何やってんだ」
「あわっ、ご、ごめんなさい」
一人で自分の行動にツッコミを入れていたら、突然背後から声をかけられた。先生に見つかってしまったかと思って反射的に振り返りながら謝ると、そこに居たのは天金さんだった。
「え、天金さん?」
「あぁ、紛れもない天金千夏だよ」
困惑する私に、ポケットに両手を突っ込んだ天金さんがダルそうに返答した。どうやら他人の空似ではなく本人のようだ。だとしたら何で天金さんがこんな所に? いや、向こうからしたら私も同じか。
「で、なにしてんだ」
「えっと……ちょっと眠れなくて……」
「それでこんな所に。百瀬も案外不良ちゃんなんだね」
「天金さんこそ何やってたの。というか、私が部屋を出る時は天金さんの布団は膨らんでたはずなんだけど」
天金さんに声をかけられて驚いたもう一つの理由。それは私以外のみんなは眠っていると部屋で確認したからだ。起こさないようにそっと抜け出すのに苦労した。
「毛布丸めて作ったダミーだよ。もしかして何の対策もせずに部屋から出てきたの?」
「え、こんな時間にも見回りあるの?」
「ないとは言い切れないでしょ。まったく、悪いことに慣れてないんだな」
「それは美徳だと思うけど……」
悪い事してる人に隠蔽工作の拙さを批判されてしまった。むしろ手慣れてる天金さんの方が糾弾の対象になるはずなんだけど。いや、こんな時間に抜け出してるのは同じだから同罪か。
「そんな優等生がこんな所にいる理由を聞かせて欲しいな」
「それは……私も天金さんがここにいる理由を知りたいんだけど」
「私は外の空気を吸いたかった。以上、話終わり。次はそっちの番」
一瞬で話を打ち切られてしまった。でも、彼女から何となく感じる冷たい温度が、外に出ていたという事実の裏付けをしていた。嘘は言っていないみたい。何で外に出たかって聞いたら、多分何となくって適当に答えるだろうから聞かないことにした。
「今日、相神さんのことで色々あって。それで色々考えてたら眠れなくなって」
別に天金さんには話していいと思う。彼女は本気で相神さんのことを心配していたし、初めて一緒に出かけた日も律儀に私に頼み事をするような人だ。
天金さんが心配していたことも少しずつ解決に向かっていると伝えても相神さんは怒らないはずだ。
「なるほど、お風呂に一緒に入ったのも、その色々の一つ?」
「何でそれをっ?!」
「しっ、声が大きい」
一緒に露天風呂に入ったことは誰にも言っていないのに、一体どこでバレたのかと叫びそうになったのを天金さんに手で口を抑えられて遮られた。
「直接見てなくても大体予想はつく。というか、分かりやすすぎ。いきなり二人して用事があるって、この後二人きりで何かしますって言ってるようなものよ」
「そ、そっか……」
よかった。あの現場を見られたわけじゃないんだ。子どもみたく泣きじゃくる相神さんとか、裸で抱き合う私たちとか、いろいろお見せできない光景だったから。
「綾音が百瀬のおかげでいい方向に進んでるっていうのは分かる。風呂から帰ってきた綾音は肩の荷が降りたみたいな、そんな顔してたから」
天金さんの表情が少し柔らかくなる。直接言っていないのに、相神さんの表情から色んなことを読み取って、辛そうだったら苦しそうな表情になって、楽そうだったら表情が緩む。本当に相神さんを大切に思ってるんだな。
「うん。あと少しで天金さんが心配しなくても良くなるよ」
「自信満々だね」
「相神さんのためにやるべき事は決めたから」
自分の心境の変化に戸惑ってはいる。でも、相神さんを救いたいという気持ちは変わらない。そして、露天風呂で相神さんが吐き出した本音を聞いて、次にやるべき事は決めている。
「心強いよ。本当にありがとね」
心の底からそう思っている、包み隠さない感謝の言葉。そして相神さんの力になれなかった自分の非力さを責めるような苦しみの言葉。
でも、私は知っている。何年も苦しみ続けてきた相神さんを繋ぎ止めていたのは間違いなく天金さんの優しさだ。
「こちらこそ、ありがとう」
だから私もただ感謝を伝えた。ただ一人、傷ついてゆく親友に寄り添い続けた彼女は敬意を込めて。聡い彼女はそんな言葉の裏も読み取ってくれたようで、一瞬ハッとしたような顔をして微笑んだ。
「その感じを見ると、百瀬が今悩んでるのは綾音のことじゃなくて自分の事か」
「さすが天金さん。全然隠し事できる気がしないや」
天金さんはやっぱり何処となく葵ちゃんに似ている気がする。何もかも見透かしてくる聡い人。それでいて友達想いな優しい人。
「でも、これは自分で答えを出すべき事だと思うの。こういうので悩むのは初めてだから確信はないけど」
その優しさは、私なんかより相神さんに向けてあげてほしかった。それが相神さんのためにも、天金さんのためにもなる気がしたから。
「助け舟は余計なお世話って事か。百瀬は強いな」
「私が強い……か。天金さんがそう言うなら本当にそうなのかもね」
弱くて何もできなかった私が、強くて聡い天金さんから認められるくらいになれている。まだまだ自信を持って私は強いとは言えないけど、昔の自分から変わる事はできているんだろうな。
「色々話したら何とかなるような気がしてきたよ。ありがとう」
「これくらいお安い御用だよ。じゃあ、そろそろ部屋に戻ろうか」
「そうだね」
色々スッキリしたし、もう安心して眠れそうだ。そう思って天金さんと並んで部屋に帰ろうとした時だった。
「……あれ」
違和感。一瞬足が止まる。
「天金さ」
「なに?」
その正体を突き止めようと声をかけると、天金さんの食い気味の返事で声を遮られる。勢いよく振り向いた彼女の顔を見て、私は萎縮してしまった。
「な、なんでもない」
「……はやく戻るよ」
踏み込んではいけない。本能でそう感じた。相神さんの時の拒絶とは違う、ここから先に進めばどうなるかわからないという恐怖。
何かとんでもないものを見てしまったような。もうすでに自分と相神さんのことを抱えてしまっている私は、死地に足を踏み入れることができなかった。
煙の匂い。その正体は彼女の心の奥底に漂う黒煙によって隠されてしまった。
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