第41話 月下の湯煙

 見上げれば満点の星空、隣を見れば私の好きな人。体を包むは芯まで癒す心地よい温度。周囲は静寂に包まれ、露天風呂のロケーションとしては百点満点というところだろう。でも、純粋にこの状況を楽しめないのが今の私だ。


 相神さんはいったい何を話すつもりなのかが気になって仕方がない。わざわざ二人きりになれるように時間をずらして、天金さんにすら伝えないようなこと。私には少し荷が重い気がするけど、相神さんが心を開いてくれた証ならその期待に応えたい。友達として、そして純粋に一人の人間として、今の相神さんを助けたい。


「いい湯ね」

「そうだね。すごく静かで落ち着く」


 露天風呂に注がれるお湯の音以外は、私たちの声しか聞こえない。二人きりだと意識するまでもなく感じるそんな空気。平穏すぎて逆に胸騒ぎがする。


「百瀬さん」

「なに?」


 ようやく話を切り出そうとした相神さんに少し食い気味に反応してしまった。今か今かと待っていたせいで、逆に焦ってしまっていたみたいだ。


「今日はありがとう。おかげで少しだけ、本当の私がわかった」

「……どういたしまして」


 本当の私、それが何を指すか私はまだわかっていない。相神さんがあの時自分の中で見つけた答え。それを聞き逃さないように耳を傾ける。


「あの日、百瀬さんを初めて家に呼んだ日のこと覚えてる?」

「うん、すごく楽しかったよ」

「私もよ。あの日は私にとって特別な日」


 完璧でかっこいい相神さんの別の顔を初めて見た日。可愛いと言われたくて買ったばかりの服を着て行って、好きな人と二人きりの空間は私の胸を高鳴らせ、恋の病が悪化してまともな判断力を失っていたのをよく覚えている。二人のファッションショーをしていつもと違う姿を見せ合って、相神さんと仲良く笑い合って、友達として受け入れられたことが本当にうれしかった。


 でもそれ以上に、一緒に夕食を食べた時に見せた彼女の涙は鮮烈だった。あの完璧で誰よりも強い心を持っている、必死にもがいてばかりの平凡な私とは真逆の、だからこそあこがれた彼女が見せた涙。


 信じたくない、失望した、そんな身勝手でくだらない感情よりも、その涙を拭ってあげたいという想いが先に出た。相手はそんな事を望んでいないと分かっていても、友達としてそばに居てあげるべきだ。正しいか正しくないかなんて関係なく、私がそうすべきだと思った。


「あなたと出会って、自分でも理解できない涙を流した。あの感覚はどこか心地よくて、つまらない人生が変わる気がしたの」


 つまらない。誰もが憧れる相神さんが自分の人生をそう形容した。相神さんと友達になる前の私はそんな事気付かなくて、勝手に憧れて羨んでた。そんな自分を恥じた。


「でも、今思えばつまらないだけじゃなかった。辛かったの。どんなにみんなから褒められても満たされない。人と関わる事すら苦しくて……お父さんとお母さんに会えないことが寂しかった」


 相神さんの声が震える。でも、まだ耳を傾けるだけ。顔を見たらきっと不安定な彼女からは言葉が出なくなってしまうから。


「私は強い人間だ。周りのみんなとは違う特別な人なんだ。そう思い込むことで逃げようとした。自分が感じてる気持ちは気のせいだって、強い私なら耐えられるって」


 相神さんの声が荒くなる。二人しかいないこの場所の静謐が崩れる。相神さんは感情のまま抱え込んでいたものを吐き出そうとしている。辛そうだけど、今はそれでいい。ずっと自分を押さえ込んでいたんだから。


「でも、そんなの大間違いだった! 本当の私は優しい友達がそばに居て欲しくて、みんなに理解されたくて、一人で生きていくなんてとてもできない、寂しがり屋でわがままな弱い人間だったの!」


 バシャリ。相神さんの叫びと共にお湯が弾ける音がして、彼女を中心とした波紋が広がる。波が私の体にも当たって、肩の上までは雫が飛んだ。


 今私の隣にいる相神さんは、私が憧れた相神さんとはまるで別人だ。でも、彼女は紛れもなく相神さんだ。これが本当の相神さん。


 昔の私みたいだ。あまりにも弱々しい彼女を見てそう思った。でも、その性質はまるで違う。私はただ弱いだけだった。それに対して今の相神さんは、今にも消えてしまいそうな危うさがあった。


「お母さんにただいまって言いたかった、お父さんにおかえりって言いたかった、お父さんとお母さんにおやすみって言って欲しかった。でも、二人は忙しいから全然会えない。もう子供じゃないから、もうプロのモデルなんだから、親に甘える必要なんてないって自分に言い聞かせても、心のモヤモヤは全然晴れてくれなかった!」


 相神さんが心の底で求めていたものは、きっとたくさんの人が当たり前に与えられてきたもの。けれど、彼女にはそれが不足していた。だから、彼女は当たり前がいらない特別になろうとしたのだ。ジクジク痛む傷を忘れるために。


「うぐ、ひっぐ、もっと、もっとお母さんとお父さんと一緒にいたいっ。一人はやだよ、ひとりにしないでよ、怖いよ、寂しいよぉ……」


 私の隣で泣きじゃくる相神さんは、大好きな親に甘えたい幼児そのものだった。いま表出したこの感情が長年必死に覆い隠していたものならば、いったいどれほど長い間自分を押し殺していたのだろう。


 泣き続ける彼女からもう次の言葉は出ない。だから今度は私が彼女に伝える番だ。


「一人じゃない。私がそばにいるよ」


 できるだけ柔らかく、彼女を優しく撫でるような声で私の想いを伝える。涙を流す彼女を包み込むように抱きしめて、私の存在を伝える。


 何も身につけていない私たちの肌が触れ合う。こんなの、同性同士だとしても友達の距離感としておかしいと思う。でも、今はそんな常識はどうでもいい。


 温度と心臓の鼓動が触れ合う肌から伝わる。今すぐにでもキスができそうなほど近距離にある口からは呼吸音が聞こえる。もう離さないという気持ちで抱きしめたい腕からは想いの力を感じる。


 全身全霊で私の存在を相神さんに伝える。一人じゃないよって、だからもう泣かなくていいんだよって泣きじゃくる幼子をあやす。


 すると彼女は少しだけ落ち着いて、鼻をすすりながら私を縋るように抱きしめ返した。


「ごめんね、変だよね。気持ち悪いよね。ごめん、こんな弱い私で……」

「謝らないでいいよ」


 溢れ出した感情に呑み込まれて壊れてしまいそうな彼女を繋ぎ止める。蝶よ花よと丁重に彼女の頭を撫でて、私の言葉が冷静に聞けるようにする。


「一人は嫌だなんて当たり前の感情だよ。相神さんは何もおかしくない。相神さんは何も悪くないんだよ」


 私も一人は嫌だった。必死に変わろうともがいた。だから相神さんの気持ちは痛いくらいわかる。私は相神さんが押し殺してきた相神さんを肯定する。もう二度と相神さんが自分を見失わないように。


「それに、前にも言ったでしょ。私はどんな相神さんでも受け入れるって」

「……こんな私のそばにも居てくれるの?」

「当たり前でしょ。私たちは友達なんだから」


 不安そうな面持ちで赤く腫れた目を私に向けてきた。そんな顔しなくていいのに。本当の相神さんが私が憧れた相神さんとは違っていても、私にとって相神さんは大切な友達だという事実は変わらない。


 苦しんでいるなら手を差し伸べる。間違った道に進もうとしてるなら無理矢理にでも連れ戻す。それが私の思う友達だから。


「ありがとう、百瀬さん。あなたと出会えて本当によかった」


 そう言う相神さんはもう落ち着いているけど、私から離れようとしない。本当に寂しがり屋なんだな。少し冷静になった今、恥ずかしくなってきたけど、大切な友達のために我慢することにした。


 二人きりの静寂に包まれた露天風呂。そんな場所で抱き合う私たちが、月明かりで照らされて誰かに見られないよう、湯煙が私たちを覆い隠していた。

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