第38話 幼き日のペトリコール
あれは私が幼稚園児の時だった。その日は雨が降っていた。両親はどちらもどうしても外せない仕事があって外に出なければいけなかったけど、まだ幼い私を心配してどうするか両親の迷う顔を見て私はこう言った。
『だいじょうぶだよ。わたし、ひとりでおるすばんできるから』
一人でも問題ないという確証はなかった。けれど、困ってる両親を助けたくて私はそう口走っていた。そうすると両親は笑顔になって、私に感謝してくれた。
『いい子にしてるのよ』
『何かあったらここに電話するんだぞ』
お母さんに頭を撫でられ、お父さんから携帯番号が書かれたメモを受け取る。嬉しかった。私の言葉で二人を助けられたから。元気に手を振って二人を見送る。そして玄関のドアが閉められた瞬間、静寂が家を支配した。最初のうちは何も感じなかった。リビングのソファに座ってテレビをつけるけど、面白い番組が何もなくてすぐに切った。
本棚からいつもお母さんが寝る前に読んでくれる絵本を出して開く。いつもなら心踊るその物語も、なぜか全部頭を通り抜けていく。代わりに不気味な雨音が窓越しに聞こえてくる。
本を閉じて顔を上げると、いつもより家が広いように感じた。いや、ここで初めて家の広さを知ったのかな。
庭に目を向けると無数にできた水溜りで雨粒が弾けていた。あそこで駆け回って、お父さんに抱きしめられて、それをお母さんが見守っている。でも今は誰もいない。暗くて、煩くて、怖い場所。私が好きな場所が孤独に侵される。
いつの間にか私は玄関の前に立っていた。今すぐお母さんが、お父さんが帰って来てくれるんじゃないか。千夏が様子を見に来てくれるんじゃないか。そんな無駄な期待は当たり前のように裏切られて、扉の向こうから雨音が聞こえるだけだった。
リビングに戻って固定電話に目をやる。お父さんに貰ったメモを開くけど、受話器に手を伸ばそうとは思えなかった。もし電話してしまったら二人を困らせてしまうから。
ぐるぐる、ぐるぐる、頭が回る。私をいつも安心させてくれるお家がなぜか怖くなって、逃げるように私の部屋に駆け込んだ。
ベッドに潜り込んで視界も聴覚も全て遮る。真っ暗、無音、だけどそれは恐怖を感じるよりマシだった。そして私はいつの間にか眠りに落ちていた。
次に目を覚ましたのは、どこかから音が聞こえて来た時だった。勢いよくベッドから飛び起きて、急いで階段を駆け降りる。リビングには誰も居なかったから玄関まで駆けて行くと、お母さんがいた。
『おかえり!』
座って靴を脱いでいるお母さんの背中に抱きつく。少しだけ雨に濡れた上着は冷たかった。
『ただいま』
お母さんは靴から手を離して私を強く抱きしめた。パァと顔を上げると、優しい顔をしているお母さんと目が合った。
『ただいまー』
そして次の瞬間にお父さんも帰って来た。頭と上着が濡れていて、傘もささず急いで帰って来たみたいだ。
『おかえり!』
ギュッとお母さんに抱きつく力を強くして、同時にお父さんを笑顔で出迎える。孤独から解放された私は嬉しくてたまらなかった。
『いい子にお留守番できたか?』
その言葉を聞いて体が強張る。あの孤独を、あの恐怖を、変貌した家の景色も、全てが私の脳裏に焼き付いている。怖かった。泣きたかった。はやく二人に会いたかった。そうやって泣きつきたかった。
でも、そんな事を言ったら二人の笑顔が曇ってしまう。娘を独りにした自分を責めてしまう。
『うん!』
だから我慢した。
『すごいな綾音!』
『もう一人でお留守番できるなんて、立派ね』
私の返事を聞いて二人は安心してくれた。私を抱きしめて褒めてくれた。
だから、これでいいんだと思った。
○○○
何で今こんな事を思い出したんだろう。何でこんなに鮮明に覚えているんだろう。
黒い雲から落ちる雨粒を眺めていたら思考に挟まってきた幼き日の記憶。あの頃は二人とも私を中心に考えていた。いや、モデルとして活動をする高校生の娘にあの時と同じように接するのはおかしいか。
「いいよ。相神さんが望むなら、私はいくらでも付き合うから」
あの日の事を考えていたら、心を読んだみたいなタイミングで百瀬さんがそう言った。そうだ、さっきまで百瀬さんと話してたんだった。
「相変わらず優しいわね。でも遠慮しておくわ。途中で雨が上がって中途半端になっちゃうから」
「そうやっていつも我慢してきたの?」
「そんなつもりないわ」
さっき思い出していた記憶で我慢してたのに、なぜか私はそう口走っていた。嘘をつくつもりはなかった。さっきまで百瀬さんと二人きりだからといって、千夏以外に話さないようなことまで話していたくらいだ。でも、私はいつの間にか笑顔の壁を作って、その裏に自分の過去を隠した。
ほんの少し、彼女の眉間に皺がよった気がした。
「……今からすること、全部私の勝手だから」
彼女がそう宣言すると同時に、彼女の手のひらが私の手のひらに触れた。
「え?」
百瀬さんらしくない行動に呆気に取られて、つい侵入を許してしまった。振り解こうと思ったけど、彼女の手の温かみがそんな敵意を削ぎ落とす。結局私は何も抵抗できず、されるがまま彼女と手を繋いでいた。
「私は天金さんみたいにずっと相神さんのそばにいたわけじゃないし、相神さんの親みたいに幼い頃の相神さんを知らない。そんな私でも相神さんが苦しんでるってことは分かるの」
百瀬さんと私との距離が縮まって、肩と肩が触れる。私より一回り小さい彼女の身体は、私よりも温かかった。
「だから誤魔化さないで。天金さんや親との関係はどうなのか知らないけど、せめて私とだけは何も包み隠さない仲になろうよ」
あの日よりも深く私の心に踏み込んでくる。あの日はただ寄り添って傷の痛みを誤魔化してくれただけだったけど、今日はこの傷を治すためにメスを握っている。
「……誰にだって隠し事の一つくらいあるわよ。私だって、百瀬さんのことで知らないことたくさんあるわ」
でも、痛いのは嫌だった。だから治療を受け入れない言い訳を作って、百瀬さんから逃げようとした。
「じゃあ、私の秘密を一つ教えるね」
けど、百瀬さんは逃がしてくれなかった。グッと私の手を握る力を強くして、私の言い訳に見事に対処した。
彼女が明かす秘密とはいったい何なのか。そう身構えた私が次に聞いた声は、あまりにも予想外な方向から私の脳を刺激した。
「〜〜〜♪」
その歌声はまさしく愛神ヤヨのものであり、歌っている曲はヤヨちゃんのため作られたものだった。
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