第37話 雨宿り

 折り畳み傘をさして雨が降る山道を歩く。橋から少し歩いた場所に屋根の下にベンチだけがある簡素な休憩所があったから、そこで雨宿りすることにした。雨脚はかなり強い。台風というほどではないけど、大雨と呼ぶには十分だった。折り畳み傘についた雫を払って屋根の柱に立てかけると、傘からコンクリートの床に水が落ちて広がり、床の色がうすい灰色から濃いグレーに変わった。


「山の天気は変わりやすいって言うけど、よりによってってタイミングだったわね」


 相神さんは荷物を置いてベンチに座りながらそう言った。


「そうだね。でもさっきスマホ見たらすぐ止むらしいからすぐ取り返せるよ」


 さっきスマホで天気を確認したら二十分もすれば止むという予報があった。このまま雨のせいで自由時間の全部を無駄にせずに済んだとひとまず安心した。


「ポジティブなのね。あんな危ない目に遭ったんだからこの施設に愚痴の一つでもこぼしそうなものだけど」

「まぁ、怖かったけど相神さんが助けてくれたから」


 橋が揺れた時は怖くて動けなかったけど、相神さんが手を差し伸べてくれたら体の強張りが無くなった。その自然な心の動きで、私と相神さんの間に信頼が生まれてるんだと分かって、その事で胸がいっぱいだった。それを言うのは恥ずかしいから誤魔化すけど。


「……そう」


 相神さんはベンチから空を見上げる。その先には曇天と降りしきる雨粒。私たちの心を癒した生き物達の声は雨音にかき消され、優しく肌を撫でたそよ風は木々を荒く揺らす強風に変貌していた。


「雨は好き?」


 外に目を向けたまま相神さんはそんな質問をした。屋根から流れ落ちる大粒の水滴を目で追うと、濡れたコンクリートと乾いたコンクリートの床が境目を作っていた。


「あんまり好きじゃないな。何かに閉じ込められてるみたいで」


 雨は切り開かれた世界に区切りを作る。どんよりとした雰囲気のせいなのか、黒い雲の不気のせいなのか、それとも騒がしい雨粒のせいなのか、私の感覚としてはそう感じる。


「閉じ込められてる……確かにそうかもね。でも、私はそれがいいのかも」

「相神さんは雨が好きなの?」

「……雨が降れば一人でいられる。周りの煩い声も消えて、静かな場所に独り。普段たくさんの人に囲まれてるせいかしら。それが良いって思っちゃうの」


 そう語る彼女は遠くを見つめていた。その虚無に近い表情は、雨が降って気分が沈んだせいなのかな。


「人って持ってないものを欲しがっちゃうんだね」

「そうね。でも、私は百瀬さんが孤独には見えないわ」

「今は違うからね。でも、昔は一人だった」


 雨脚がさらに強くなる。濡れた面の境界がさらに広がる。


「運動も勉強も何もできない。引っ込み思案で一緒にいても楽しくない。そんな自分が嫌だった」


 今でも友達は多くないけど、昔はずっと一人の時が多かった。ただそこにいるだけで何の役にも立てない、無力な自分に価値を見出せなかった。


「でも、一人は嫌だった。友達が欲しくて、笑っていたくて、閉じこもるしかない自分を変えたかった」


 諦めずに勉強して、学校で困ってる人の助けになろうと頑張って、そうしているうちに葵ちゃんと出会えた。


「変わるために頑張って、葵ちゃんに出会って、少しずつだけど認められていった。そして今の私がいて、相神さん達と出会えた。だから私は外の世界に踏み出す事が大切だって思うんだ」


 今の幸せは、勇気を出して踏み出した選択のおかげ。だから何かに閉じ込められるのは嫌なんだ。


「恵まれてるわね」

「え?」

「外に出てなお絶望してないなら、それは出会いに恵まれたってことよ」

「……相神さんは違うの?」

「あなたは知ってるでしょ」


 私が相神さんを見ても、彼女は目を合わせてくれない。背後で雨が降っているからか、相神さんにそう言われたから、あの日見た相神さんの涙を思い出す。出会いに恵まれなかった。相神さんの心の傷の原因は、両親と会えないせいなだけではないみたいだ。


「……雨のせいかしら。それとも百瀬さんと二人きりだからかしら。なんだか真面目な話をしちゃうわね。今日は楽しい日なはずなのに」

「いいよ。相神さんが望むなら、私はいくらでも付き合うから」


 何故だろうか。今なら相神さんに触れられそうな気がする。ただ相部屋だという事実にひるんで、勇気が出せなくてお風呂も一緒に入れなかった私なのに、二人きりのこの場所で全く緊張していない。理由もわからないまま、私はただ目の前の彼女に寄り添う言葉を選んだ。


「相変わらず優しいわね。でも遠慮しておくわ。途中で雨が上がって中途半端になっちゃうから」


 グッと、ベンチの上に置かれた相神さんの手がこぶしを作る。不器用に作られた痛々しい笑顔は、何かを隠すために彼女が身に着けた技術なんだと理解した。ようやくこっちを見てくれたのに、取り繕わないでよ。


「……そうやっていつも我慢してきたの?」


 相神さんが作ったこぶしを覆うように手を重ねる。冷たくて、小刻みに震えている手は誤魔化しが効かない本当の彼女の感情。怖いのか、寂しいのか、手から伝わる彼女が抱く感情はそこから大きく外れない。


 うそつき。本当は雨なんて嫌いなんだ。それとも、この感情も気付いていないの?


 友達の前でくらいありのままでいてよ。頼ってよ。自分を押し殺さないでよ。私は……天金さんだって、相神さんに笑顔でいてほしいのに、相神さん自身が諦めて我慢してたら悲しいよ。虚しいよ。


「そんなつもりないわ」


 そんな彼女の解答を聞いて、怒りなのか、呆れなのか、そんなものに似た感情が一瞬湧き出てきた。けれどそれは、私が触れる手の震えを感じた瞬間、彼女への労しさに押しつぶされた。


「……今からすること、全部私の勝手だから」

「え?」


 相神さんの返答を待たずして、私は相神さんの拳を解いて手を握る。相神さんへの恋心なんて忘れて、ただ救いたいという一心で彼女に触れる。相神さんは望んでいないのに、身勝手な救いの手。でも、これくらいの荒療治じゃなきゃ届かない。彼女の傷に触れることすらできない。


 雨の中で二人。漏れ出した痛みを見て、私は彼女が不可侵を望む領域に足を踏み入れた。

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